トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:順位

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順位付けが差別につながるという意見。学校から順位付けを無くそうとしているわけですから、ほぼ差別と同一視しているということでしょう。

でも順位付けは「区別」であって「差別」ではありません。この区別を間違えてはいけません。区別を差別してはいけないのです。区別した結果、「お前は成績が悪いから一緒に遊ばない」とか言い始めるのが差別です。

「区別」は重要なことです。「生きる力」とは「区別する能力」と言っても過言ではないと私は思っています。物事をどれだけ微細にわたり区別できるか。学問上の難しい概念の理解から、どこのスーパーが安いとか、品物がいいとか、どっちが得だとか…に至るまで現実の世界では常に的確な区別をした上での判断が求められます。山奥で一人で暮らすにしても、あっちの山の方が木の実が多いとかの区別が生存を左右します(猿との競争ですね)。

おそらく子供が競争を好むのは、人類の祖先が生存競争の中で獲得した本能なのでしょう。知恵とは「区別する能力」でもあります。それによって人類は自然淘汰を超えてきました。

運動会の順位付けが差別だというのなら、オリンピックもNGです。教育委員会に文句を付ける前にJOCとかIOCに文句を付けて欲しい。どうせならモンスターペアレントとして世界を目指して欲しい。

私の商売でも、「高い」とか「あっちの治療院の方が上手だ」とか言われたら、差別ということで訴えてもいいんでしょうか?

公共事業での競争入札は良いこととされていますが、これも差別なのでしょうか?

社会に出れば、必ず競争が待っています。自分が順位付けされるし、他者を順位付けもします。勝ち負けが常にはっきりします。

その時に、勝っても有頂天にならずに負けた人の悔しさを思いやる。負けても悔しさに打ちのめされずに勝った人の強さをたたえる。

勝っても相手を侮蔑することなく、自分の幸運に感謝して、さらなる精進につなげる。負けても相手を嫉妬することなく、自分の非力を自覚して、悔しさを向上心に昇華する。

学校とは、生徒たちがこれから巻き込まれていく社会の競争の中で、そういった態度が取れるように教え込むところです。区別が差別に結びつかないように訓練するところです。順位付けをしなかったら、そういう教育はできません。

《つづく》
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先日の運動会、かけっこで娘たちは二人ともアンカーでした。リレーではないので、平たく言うとビリでした。

ところで、運動会で順位を付けない学校があると聞いた時はビックリしました。それが差別につながるからだと聞いて2度ビックリ。今でもこういう学校は有るんでしょうけど、増えないで欲しい。

子供の学力の低下が顕著になってきています。ゆとり教育が間違いであったことは明白です。順位を付けないということもゆとり教育の一環だったのかは知りませんが、学力低下の一因になっていると思います。

私が学生の頃は、試験結果の番付は廊下に貼りだされることもありました。高校受験の結果はラジオで名前が読み上げられました。「落ちたらどうしよう」と戦々恐々としたことは事実です。受験戦争と呼ばれていて、高校生がライバルを刺殺するという事件までありました。

でも、だから順位付けを無くしてしまうというのはどうなんでしょうか。交通事故で死者が出たから自動車の利用を一切禁止する、というのと同じではないでしょうか。国力の低下という副作用の方がずっとずっと大きい。

ヨコミネ式の子供の「やる気スイッチ」をオンにする方法の一番目が競争をさせるということです。子供は競争したがるのです。そして勝ったら大喜びをする。負けたら物凄く悔しがる。昔の大人は、そういう子供じゃないとものにならないと言ったものです。

最近私が見かける子供たちは勉強をしたがらないのですが、スポーツとかゲームには熱心です。受験戦争ならぬスポーツ戦争とかゲーム戦争とか呼びたいくらいに。これは勉強に競争が無くなったからじゃないかと思うのです。

逆に、スポーツやゲームから勝ち負けを無くしたらどうなんでしょう?オリンピックで順位付けをしなかったらどうなんでしょう?勝ち負けの無いナントカ同好会みたいなものだったら、あんなに興奮しないし夢中にならないし、感動もしないんじゃないだろうか…

一番簡単な動機づけは順位づけなんじゃないかと、最近思うのです。

《つづく》
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