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「唯識入門」(春秋社)
「第五章.識のはたらき」の「一.識の転変」の「三種の転変」まで読みました。

この章は、虚妄分別が依他起であるメカニズムについて、世親の『唯識三十頌』から読み取っていきます。

どんな種類の我や法の想定(仮説)が行われるとしても、じつに、それは識の転変においてである。そして、その転変は三種である。(第一偈)

《以下要約》
「転変」とは、安慧(ステイラマテイ)の注釈によれば「因の刹那が滅するのと同時に、果が因の刹那とは異なって生ずること」とされています。言わんとしていることは、まず、我法を想定する識と我および法という想定されるものとの間の同時成立と相互影響ということ。もうひとつは、刹那生滅の識の刹那ごとの連続(相続:サンタティ)。このふたつを転変という一つの言葉で表現することで、「縁起」を説明しようとしています。

『倶舎論』では、すべての法は刹那滅で断絶しつつ接続しますから、色法(たとえば身体を構成する諸法)は色法でそれぞれ転変しますが、唯識の理論ではこれが認められていないので、諸法の成立を識との関係でだけ説明しています。(本書に図示)

識の転変の三種とは…
(1)異熟としての転変:主体はアーラヤ識:因としてのアーラヤ識のはたらき。
(2)思量としての転変:主体はマナス:その識の顕現としてのマナス。即ち自我意識。
(3)対象の了別としての転変:主体は六識:「了別」と呼ばれていた六識。

(2)は「我」の観念をつくりだす。(3)は六境に分類される法およびその観念成立の入口たる六根(正式には意根を除く五種)なる法を認識し、判断するはたらき。そして(2)(3)は共に(1)のアーラヤ識からの転変。

識の転変は、アーラヤ識と、思量および了別という二種の転識(現に機能している識)との間の相互関係であり、識の内部での相互作用ということになります。が、刹那ごとの識の連続性(同じ性質が刹那を超えて持続すること)はもっぱらアーラヤ識に託されていると言えます。
《以上要約…詳しくは本書参照》

マナスの連続性とは「自己同一性」のことかもしれません。

《つづく》