トトガノート

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Tag:諸行無常

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「釈尊の生涯」(春秋社)
「9.さとりの内容」の最初の方を読みました。

釈尊がさとった漏尽通は、存在するものはすべて生滅変化するものであり(諸行無常)、そこに絶対不変の本体というような存在を認めない(諸法無我)ということが出発点になっています。ところが当時のシャモン、バラモンたちの主張は全く逆でした。

到底わかってもらえないだろうから人に説くのはやめようとしますが、梵天勧請によって説く決心をします。

釈尊の主張は…
1.実体界は苦の解脱に関係のないことだから、たとえ本体の問題が解決されても、それは人生問題の解決には役に立たない。
2.このような実在は時空のうちになく、時空のみに関係するわれわれの経験をこえたものであるから、われわれの経験的知識によっては絶対に解決されない。

1.は、ソクラテスが、当時のソフィストたちが、単なる議論のための議論(詭弁論)に終始しているのを批判したのに似ている。
2.は、カントが、彼以前の唯心論や唯物論が問題とした実体は、われわれの経験をこえた形而上学的存在であるから、その解決はわれわれの経験的知識では不可能である、としたのに似ている。

釈尊は当時の形而上学的問題を十無記または十四無記の名でまとめている。箭喩経の毒矢(毒箭)の喩えが有名である。

《以下引用》
仏教外の一般の宗教や哲学では哲学問題として、「何があるか」、「何であるか」という本体そのものを取り扱ったが、仏教では、「いかにあるか」、「いかにあるべきか」という現象の考察およびそれへの対処方法を取り扱ったのである。換言すれば、仏教では、ものが存在するか否かではなく、ものの存在はいちおう通俗的立場で現象としてこれを認め、その存在がいかなるあり方をし、いかに生滅変化するか、そして理想としてはそれはいかなるあり方をすべきであるかということを探求し考察したのである。もののあり方は理論的には無常であり無我であり、さらに実践的には無我――他と矛盾衝突することのない、正しい法にかなった無執着にして自由自在なあり方――の態度を取るべきであるというのが、仏教の根本的立場であった。
《引用終わり》

《つづく》


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ブログのタイトルを変えてみました。どんな内容になるか分からないブログに取りあえず試しに付けた名前がずっとそのままでしたから、変えたいと思ってました。いろいろ考えましたが、「トトガ・ノート」というシンプルなものにしました。

ずっと続けてきたブログ。毎日更新と決めてから、思いついたものをとにかく投稿しています。だから、まとまりなどあるはずがない。ところが、出来上がってきたものを見直してみると、結構関連があることに気付きます。

諸行無常というように、自分の体は毎日構成分子が入れ替わっていますし、シナプス結合が心ならばやはりそれも日々変化しています。忙しく走り続ける毎日の中で、「自分」をどこかに置き忘れているんじゃないか?「自分」という輪郭はどんなものなのだろう?「自分」はどこに行こうとしているんだろう?そんな不安を抱いていました。

とりとめのないものを書き綴っていったら、自分の統一の無さがますます露わになるんじゃないか?そんな不安…

ところが、記事の中には関連のあるものが非常に多いことに気付きました。それを整理する意味で、リンクでつないでみました。ブログの検索機能を使って遡ってみると、ずっと前に書いた内容でも同じことを言っているものが多々ある。

何だか、螺旋階段みたいだな…

忙しく駆けているようで、同じところをグルグル回っている。興味や考え方が変わらないと捉えれば、進歩が無いことになります。でも、自己同一性が保たれている証しでもあり、少なくとも前述のような不安は要らないのだな、と思いました。

「トトガ・ノート」は、そんな雑記帳です。
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