- ブログネタ:
- ★くもん・公文・KUMON★ に参加中!
公文式は「取りあえず計算が速くできるようになって下さい。できるようになってから意味を考えて下さい。」というスタンスだそうです。私も、それが正しいと思います。
例えば学校では、「5+3はどうして8なのですか?」ということに重点を置いて足し算を教えるらしいのです。みかん5個とみかん3個の絵を描かせて、数えてみたら8個。だから8個。これが「足し算の意味」だそうですが、こういう意味にこだわる意味があるのか?私はそちらの方が気になります。
国語とか英語だったら、どうでしょう?「みかん」をどうして「みかん」というか、教えるんでしょうか?どうして主語とか述語があるか、教えるんでしょうか?それは、いずれ興味があれば語源とか文法とかの勉強をすればいい話です。私は、意味は後からついてくるものだと思います。
ゲームをやるように計算をして、後で「みかんだったら…」とか考えた方が楽しいんじゃないだろうか?意味にこだわるから、勉強がゲームよりつまらないものになるんじゃないだろうか?国語や英語を、語源や文法から勉強させたら、ほとんどの人がウンザリしますよね。
理系の科目(数学を含めて)は違うんじゃないか?という反論はあろうかと思います。私も学生の頃はそう思っていました。でも、今は国語も英語も数学も同じだと思っています。
「分かる」というのは経験を積み上げることなんじゃないかと思うのです。
いろいろな日本語を聞いて、自分も真似して話してみて、少しずつ他人に通じるようになって…そういう経験の積み重ねが「日本語を分かる」ということなのではないか?英語も同じ。
文法は規則性を帰納的に抽出したものです。つまり、後から付いてきたもの。初めに国文法や英文法があるわけではない。
四則演算も、いろいろな問題を解いて、たくさん○をもらって…「5+3」が「8」以外には見えなくなったら、「分かった」ということ。
こんな話があります。プランクが後日述懐したことだったと記憶しております。
量子力学が出始めた頃は、アインシュタインを筆頭に多くの物理学者が受け入れられないと言いました。若きプランクは量子力学の発展に貢献し、物理学界でも理解されるように努めた人です。晩年を迎える頃には、量子力学が学界の常識になりました。
でも、プランクは言ったそうです。これは量子力学が理解されたからではない。量子力学以前の物理学を勉強してきた人たちが死に、量子力学を勉強してきた人たちが学界の多数を占めるようになったからだ…
量子力学は後世になって認められたわけですから、意味としては正しいということだと思います。理科が「意味」が全ての学問であれば、アインシュタインも容易に受け入れたのではないでしょうか?彼が受け入れられなかったのは、それまで積み上げてきた彼の物理学の経験が妨げになっていたのではないかと思うのです。
つまり、数学と区別がつかないような理論物理学の世界であっても、「意味」よりも「経験」のほうが意味(!)がある、と言えそうなのです。