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「仏教入門」(東京大学出版会版)
「十章 仏教の歴史」の後半を読みました。

渡来系氏族と密接な交渉のあった蘇我氏が、物部氏らの廃仏論者と争ったすえ、これに勝って、仏教が公認されるようになった。蘇我氏と縁の深かった聖徳太子が、法華・勝鬘・維摩の三経に対する注釈『三経義疏』を著したとされている。

太子の定めた方針を継承する大化の新政以後、仏教は朝鮮半島のみならず大陸からも直接伝来するようになり、留学僧の往来も頻繁となった。一方で、日本古来の宗教、習俗を守ろうとする勢力も根強く、仏教側は妥協策として「本地垂迹」の説を打ち立てた。このような神仏習合は、その後も長く日本仏教の特色となっている。

奈良時代はひたすら中国の仏教の吸収に努めた時代で、種々の学派が成立した。世に言う南都六宗である。

1.三論宗
高麗の慧観によって太子の時代に伝わった。

2.成実宗
百済の道蔵が721年に来日して『成実論』を講じたのが始まり。最終的には三論宗の付宗にとどまった。

3.法相宗・4.倶舎宗
唐に留学した道昭(629-700)が653年に伝えたのが始まり。興福寺を中心に、法隆寺、薬師寺などがその伝統を現在まで受け継いでいる。倶舎宗はその付宗。唯識説と倶舎の学を伝承して、長く仏教教学の中心となり、学問所として宗派を問わずに重んぜられた。

5.華厳宗
新羅の審祥が良弁(689-773)に迎えられて、東大寺で『華厳経』を講じたのが始まり。

6.律宗
唐の鑑真(687-763)が、五度の挫折にめげず日本に渡来し、四分律宗を伝え、戒壇を設立した。これによって初めて日本で正式な受戒儀式による僧侶の得度が可能となった。

・天台宗と真言宗
平安時代に入って、最澄(766-822)および空海(773-835)によって、唐から新しい仏教が輸入された。

・浄土思想
平安時代中期になると、比叡山の中に念仏による浄土往生の思想が盛んとなり、貴族を通じ、しだいに民衆にも浸透するようになる。地方における争乱の連続、末法到来(1052年が仏滅二千年)などから、厭離穢土・欣求浄土の願いを真剣に抱くようになったとされる。法然(1132-1212)が、往生のためには他の雑行はいらないと、専修念仏を唱え、天台宗からの独立を宣言したのが浄土宗の始まり。その弟子の親鸞(1173-1262)は、さらに行としての念仏に代わって、弥陀の慈悲によっても我々の往生が決定しているとの信に基づく報恩の念仏を強調して、浄土宗からも独立し、浄土真宗を創り上げた。両者とも中国の浄土教の教えを受け継ぐものとその宗旨の系譜を主張しているが、教団の運動としては純粋に日本発生のものである。

・禅宗の伝来
禅宗(北宗禅)は最澄によって伝えられたが、天台の禅というべき止観の法を基本としていたため、中国のように独立の教団を形成するには至らなかった。栄西(1141-1203)が二度目の渡宋で請来に成功。道元(1200-1253)は、叡山で得度し、建仁寺で学んだ後、入宋し、諸方遍歴の後、曹洞宗の系統に属する如浄の法を伝えた。彼自身は曹洞宗とも禅宗とも名のることを嫌い、仏心宗と称したが、後継者たちは曹洞宗の名で独立の教団を組織した。道元の主著『正法眼蔵』のなかで本証妙修、修証一如の綿密な行持の宗教を高揚している。

・日蓮宗
日蓮(1222-1282)も諸宗の祖師同様、初めに叡山に学び、そこで法華経をただ一つの所依とする宗旨を選び取って、独立を宣言した。『法華経』の題目を唱えることに行の基本を集約するという簡潔性が人々に受け入れられた。一方、日本の神々を仏教守護の神として尊崇するなど、民族主義的色彩も強かった。これは、浄土、念仏の諸宗が超越的宗教もしくは個人の内面性を重んじ、国家を下位に置こうとしたのと異なる。

以上、鎌倉時代に始まった諸宗は、その教義が、念仏とか禅とか法華経というように、一事に専らであること、国家の宗教としてでなく個人の宗教として出発していること、貴族以外の多数の民衆の間にその教団の基礎を置いた点などが共通する。

室町時代は南北朝の動乱を契機に、新仏教が全国へ普及した。総持寺の曹洞宗の拡張、真宗教団による一向一揆、法華宗の法華一揆などの動きがこれである。信長・秀吉の新体制によって、これら仏教教団の権力はいっさい根こそぎにされた。

俗世的権力を剥奪された仏教は、江戸幕府によって完全な管理体制下におかれ、檀家制度の下で戸籍係の役を果たさせられる。経済的には安定したものの、往年のエネルギーは失われ、新しい宗教運動を生むこともなく、明治時代を迎える。

明治維新前後、民族主義の台頭によって仏教は廃仏運動に直面したが、これをきっかけに仏教浄化の運動が起こり、多くのすぐれた僧侶が輩出して、各宗それぞれに近代的教団として脱皮し、今日に至っている。

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以前、「体にいい水」について調べていた時に、こう言い張る人に出会いました。
「本当にいい水は、放置しておいても雑菌は繁殖しない。それどころか、有害な菌を入れると死滅するのだ。だから、飲めば体の中の有害な菌を殺すから、体が健康になるのだ。」

この人は健康水ではなくて、聖水の話をしていたのかもしれません。

「では、悪人が飲めば、その人が死んでしまうのだろうか?」と、すぐに疑問が湧きましたが、とてもまともな回答など望めそうにないので質問しませんでした。

善悪の判断って、そんな簡単なものなのでしょうか?国や時代によっても変化する、あやふやで厄介なものだと私は思います。酸性アルカリ性の検査薬みたいに、簡単に判定できる水が本当にあるなら、どんなに楽なことでしょうか。

ですから、70年ほど前の世界的に有名な生理学者が、ガラガラヘビ,黒後家グモ,マラリアを媒介する蚊,病原菌を「神」の視点で悪者に分類している文章を読んで、唖然としてしまいました。

毒蛇や毒蜘蛛は自衛手段でしょうし、蚊は病気を運んでいるとは知らないで食事をしているだけだし、病原菌も代謝産物がたまたま人間に毒性があるというだけの話…それぞれ事情があるのに、全く情状酌量なしに神は善玉・悪玉を分別(ぶんべつ)するというのか?それが神の分別(ふんべつ)だと言うのか?

この人は、キリストは〇、イスラムは×と、神様をも当然のように分別(ぶんべつ)しているのですが、私には理解できません。理解したいとも思いません。

仏教は、善悪(に限らず全てのもの)の分別(ぶんべつ)の基準が相対的なもので、そういう分別(ふんべつ)自体を妄分別として戒めていると思います。現代のような価値観が多様な時代であれば、なおのこと無分別(無配慮)な分別(ぶんべつ)は避けるべきでしょう。

最近、親鸞さんの人気が上昇しているようで、悪人正機説がよく紹介されます。「悪人でも救われる」という趣旨には全く異論がないのですが、「そもそも悪人とは何ぞや」というところから始めるのが話の順番としては正しいような気がします。敢えて話の順番を逆にしたところが親鸞さんの独創性かもしれませんけど。

まあ、ともかく、毒蛇さんや毒蜘蛛さんたちも、人間の生存のために制裁を受けることはありましょうが、等しく生きる権利はあると思います。

♪みんなみんな♪生きているんだ♪ともだちなんだ〜♪
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