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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナ以後」の「2比較思想からみたナーガールジュナ」を読みました。

最初に結論を引用します。
《以下引用》…
西洋においては否定神学や神秘主義は何といっても付随的なものであり傍流にすぎなかったが、東アジア・南アジアにおいては、少なくとも教義的には主流となっていた。空観のような思想は、西洋ではひろく根を下すことができなかったが、東洋では大乗仏教を通じて一般化した(浄土真宗の教学といえども、空の理論を基礎としている。少なくとも教義の上では表面的には基本思想とみなされていたのである)。ここに、東と西では重点の置き方が異なっていたといいうるであろう。
…《引用終わり》


西洋では空観のような議論としてはどんなものがあったか、ということですが、アリストテレスの実体の観念に対するラッセルの実体批判は興味深いです。

《以下引用》…
『実体』という観念は、真面目に考えれば、さまざまな難点から自由ではあり得ない概念である。実体とは、諸性質の主語となるもので、そのすべての性質から区別される何物かである、と考えられている。しかし諸性質をとり去ってみて、実体そのものを想像しようと試みると、われわれはそこに何も残っていないことを見出すのである。この問題を別な方法で表現すれば、ある実体を他の実体から区別するものは何であるか、ということになる。それは、性質の相異ではないという。なぜなら実体の論理によれば、諸性質の相異ということは、当の諸実体の間に数的多岐性を前提としていることになるからだ。したがって二つの実体は、それ自身どのようにも区別し得ることなしに、ただ単に二つでなければならないという。それではどのようにしてわれわれは、それらのものが二つであることを見出し得るのであろうか?実際には『実体』とは、さまざまな出来事を束にして集める便宜的方法に過ぎない。…
(例えば)『フランス』というような語が単なる言語的便宜であり、その地域のさまざまな部分を超越して『フランス』と呼ばれるような事物は存在しない…それは、多数の出来事に対する一つの集合的な名称なのである。…一言にしていえば、『実体』という概念は形而上学的な誤謬であり、主語と述語とから成る文章の構造を、世界の構造にまで移行させたことにその原因があるのだ(『西洋哲学史』市井三郎訳、上巻、205ページ)
…《引用終わり》


否定的捉え方について

《以下引用》…
インドで『リグ・ヴェーダ』以来、ことにウパニシャッドにおいて絶対者は否定的にのみ把捉されると説いていた。これはとくに般若経典が繰り返し説くところであるが、とくにナーガールジュナはこの点を『中論』で明言していう。
「心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである」(第十八章・第七詩)
古代西洋の哲学者たちは実体を何らかの意味で承認していたけれども、究極の実体は概念作用をもって把捉することができないという見解は、非常に古く、おそらくナーガールジュナからあまり遠く隔たらない時代に現われている。
…《引用終わり》


例えば、ディオニシウス・アレオパギタの場合。

《以下引用》…
万有の原因は霊魂でもなく、知性でもなく、また説いたり考えたりすることのできないものなのである。絶対者は、数もなく、順序もなく、大いさもない。その中には、微小性、平等、不平等、相似、不相似は存在しない(――まさに般若経典の文句である――)。それはいかなる叙述をも超えている。ディオニシウスはこれらの限定をすべて否定する。それは、真理がそれらを欠いているからではなくて、それらをすべて超えているからである。
…《引用終わり》


ナーガールジュナは<空>という原理さえもまた否定しています。否定そのものの否定(「空亦復空(くうやくぶくう)」)です。
《以下引用》…
この観念を継承して、中国の天台宗は、三重の真理(三諦)が融和するものであるという原理をその基本的教義として述べた。この原理によると、
(1)一切の事物は有論的な実在性をもっていない、すなわち空である(空諦)。
(2)それらは一時的な仮の存在にほかならないたんなる現象である(仮諦)。
(3)それらが非実在であってしかも一時的なものとして存在しているという事実は中道としての真理である(中諦)。
存在するいかなる事物もこの三つの視点から観察されねばならない、と説く。
…《引用終わり》


否定ばかりでは何事も始まらないではないか!と思われるわけですが、そうではなくて…
《以下引用》…
<空>はすべてを抱擁する。それに対立するものがない。その<空>が排斥したり対立するものは何もないのである。実質についていえば、「空」の真の特質は、「何もないこと」であると同時に、存在の充実である。それはあらゆる現象を成立せしめる基底である。それは生きている空である。あらゆる形がその中から出てくる。空を体得する人は、生命と力にみたされ一切の生きとし生けるものに対する慈悲をいだくことになる。慈悲とは、<空>――あらゆるものを抱擁すること――の、実践面における同義語である。大乗仏教によると、あらゆるものが成立する根本的な基礎は<空>である。だから「空を知る」ということは<一切智>(全智)とよばれる。
…《引用終わり》


空は実践は基礎づけるもの…
《以下引用》…
『金剛経』では「まさに住するところなくして、しかもその心を生ずべし」という。菩薩は無量無数無辺の衆生を済度するが、しかし自分が衆生を済度するのだ、と思ったならば、それは真実の菩薩ではない。かれにとっては、救う者も空であり、救われる衆生も空であり、救われて到達する境地も空である。この思想は中国の道教にも承継されている。「汝は汝の能力で他人を救うことを自慢してはならない」(道士、第百四十五則)
…これに類する思想は西洋ではパウロによって説かれている。すなわち、内面的に世界から自由であることを外面的に表示する必要はない、ということをパウロは次のように記している。
「妻のある者はないもののように、泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、世と交渉のある者はそれに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである」(「コリント人への第一の手紙」7・29-30)
…《引用終わり》


気に入った箇所が多くて、引用ばかりになってしまいました。本当に得るものの多い本でした。空っぽだった頭に<空>が少しだけ入りました。これから何度も読み返すことになるでしょう…

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