トトガノート

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Tag:虚構

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理不尽を満載した漂流船の中で、彼を救ったものは信仰という虚構…

近代的合理主義のもとに構築されているはずの今日の社会なのですが、空海の時代にも増して理不尽な気がする。

しかし、理不尽の「理」とは飽くまでも人間の「理」。他の動物・植物・無生物の一切合財を含めた総合的な「理」は、人間の「理」とは程遠いということなのでしょう。つまり、人間が人間の「理」にこだわるうちは、理不尽の苦しみから逃れることはできない。

総合的な「理」とは、仏教で言うところの「法」にあたるでしょうか。法を人は完全には理解しえない。その法に立脚して現実という現象が起きている以上、現実が理不尽に見えないのはむしろおかしい。また、人が理不尽の無い社会を創ろうとすることなど、思い上がりもはなはだしい。

とすれば、尽きること無き理不尽といかに付き合うか…方策があるとすれば、それは、やはり、虚構ではないか?

この世の「理」と人間の「理」との間の乖離構造、これが理不尽を生み出すならば、この乖離を「あそび」と捉え、そのすきまで許される自由を存分に生かして、自分だけのストーリーを描いてみる。

夢を抱き、その実現を自分が担う必然性を作り、実現を願い続ける。人生の出来事、良い事も悪い事も、その夢の実現のための糧であると敢えて誤解し、ストーリーを膨らませていく。

そうすれば、日常の何でもない小さな出来事にも、いろいろな意味づけができてくると思う。喜怒哀楽の振幅も大きなものになっていくだろう。

それが、理不尽の荒波を超える力となるのではないだろうか…漂流から長安までの空海の生き方を見て、そんなことを感じた。
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漂流する船の中で人々が絶望に包まれる中、空海は自分の目標を捨てず、「自分が大きな使命を負っている以上、自分が助からないわけがない」という確信を持っていた。「自分が助かる以上、この船に乗っている人たちも助かる」

これは事実かもしれないし、司馬遼太郎の虚構かもしれません。でも虚構なら虚構で、それが司馬遼太郎のものであるならば、検討する値打ちがあります。

山などで遭難しても助かる人というのは、「ここで死ぬわけにはいかない」という強い意志があって、何とか生き延びる方法を考え出すわけです。それに救助が間に合えば…という「運」の部分もありますが、これは足し算ではなく掛け算のような気がします。つまり、いくら運が良くても、意志がゼロならば助からないのではないかと。

強い意志をもたらすものも「虚構」…僧侶であるならば「信仰」という言葉になるかもしれません。でも僧侶に限らず、一般化できる話です。

遣唐使船のように漂流する現代社会において、力強く生きていくにはこのような「虚構」が必要なのではないでしょうか?たとえ何も立たないような地面でも、たとえ何も手にしているものが無くても、「虚構」ならば立てることができるし、創りだすこともできる。


どんな小さなことでもいいから自分の夢を決めて

それが頼りなくて消え去りそうなら

言葉にして呪文のように唱えてみればいい

何度も何度も…毎日毎日…

その夢に夢中になるまで続ければいい

何もないところに取りあえずこじつけで決めたような夢でも

いつしか自分を支える強い柱になるはずだ

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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の十」を読みました。

当時の遣唐使船は、羅針盤のような物は一切なく、占いで進路を決めていたというのですから、ゾッとします。

《以下引用》…
倭人どもがこの中国式天文学のばかばかしさに気づくのは、このあと時間を経ねばならない。空海の時代より九百年を経、十八世紀初頭になってようやく西川如見が『天文義論』を書き、「唐土の占星というのは、多くは人事の吉凶禍福に符合させるためにある。考えてもみよ、一人一家の吉凶を天体が感ずるであろうか」と迷蒙をひらいた。
《引用終わり》

「考えてもみよ」というところが気に入りました。占いに頼るくらいなら、他にいくらでも何かありそうですけどね…。遣唐使船のように人生を占い、遣唐使船のように人生を漂流している人が、現代でも少なくないのではないでしょうか。

船の中では、占いや僧侶による誦経が繰り返されていました。空海は「そんなもの効くものか」という思いで見ていたことだろうと司馬遼太郎は推理しています。

体も疲れ、心も疲れ、人々は次々と倒れていきます。効果があるとも知れない方法にすがらざるを得ず、右往左往しながら消耗していく様は、今日の日本そのものです。

《以下引用》…
空海はおもっていたであろう。
「…仏天は自分に密教を得しめようとしている。風も浪も船もことごとく仏天の摂理のなかにあり、この風浪もこの航海も、そして船艙にたおれ伏している病人たちも、その摂理のまにまに在り、そのほかのものではない。摂理の深奥たるや、密なるものである。その密なるものを教えるものは密教のほかなく、その密教は長安にまできている。自分は倭国からそれを得にゆく。わが旅たるや、わが存在がすでに仏天の感応するところである以上、自分をここで水没させることはないであろう。この船は、そういう自分を乗せているがために、たとえ破船になりはてようとも唐土の岸に着く。このこと、まぎれもない。…」
《引用終わり》

そんな中でも挫けないでいるためには、こういう使命感とか、信念とか、大望とか…、夢とかロマンとか、…「虚構」が必要なのかもしれません。それを持ち続けられる人が、やはり強い。

今日、最も有効な「虚構」とは何だろう?

《つづく》
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天気屋になった天気を「異常」と呼ぶ心理…妄念の一端を垣間見る気がします。

そもそも、この範囲内にいますという保証が全くないものが、自分たちが勝手に決めた範囲から逸脱しそうになると、大騒ぎを始める。

天気の問題でさえ、「温暖化」という名のもとに、やれ発展途上国が悪い、やれ先進国が悪い、という醜い争い。

おそらく人間は、無意識のうちに、あらゆることに対して、こういうことをやっているんでしょうね…

例えばアメリカとか中国のような外国、例えば総理大臣のような政治家、例えば仕事で関わる人たち、例えば友人とか家族…

勝手に範囲を決めて、押しつけていませんか?

法律のように、みんなで相談して範囲を決めて、それを守らなかったらどうするかということも決めたものならば、まだいいでしょう。でも、それさえも絶対ではないということは覚えておくべきでしょう。

そういう「範囲」、「形」「虚構」というようなものを一切ナシにして、あらゆるものを一旦は受け入れるべきなのでしょう。

そうでなければ、例えばテロリストを救うことはできません。

それは、テロ行為を是認するとか、許容するとか、宥和するとか、そういうことではありません。最も悲しいケースのひとつとして、その人がそんなふうになってしまったこと、他の人もそんな風になり得ることを受けとめるということです。

それはとても難しいことだけれども、それが大乗が「大」を名のる所以だと思うし、であるがゆえに尊いのだと思う。
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先日、観音様や阿弥陀様をサンタクロースに例えた書き方をしまして、軽過ぎたかなと反省する機会がありました。

毎日、子供と接する身としましては、クリスマス前のサンタクロースというのは絶大な力を持っておりまして、「そんなことしたら、サンタさんが何も持ってきてくれないよ!」という一言は「南無観世音菩薩」とか「南無阿弥陀仏」と称える以上に効果があります。それだけ、サンタクロースというのは子供にとって紛れもない現実なのかもしれません。

とは言え、軽過ぎたかなとは思っています…

さて、そんな折、司馬遼太郎の本を読んでおりまして、「おや!?」と思う一文に出くわしました。

「おそらく人類がもった虚構のなかで、大日如来ほど思想的に完璧なものは他にないであろう。」

仏教を哲学として見た時に大日如来が最も完璧な思想であろうという意見には全くもって賛成なのですが、上記のようなことを考えていた折でしたので、「虚構」という言葉にちょっと引っかかったのでした。

ただ、サンタクロースの場合もそうであるように、人それぞれ言葉の重みは違うかもしれないな…と思いました。

考えてみれば、小説家というのは「虚構」をメシの種にしている人たちです。日々、自分の頭の中の構想という「虚構」をいじり続けているはずです。ある意味において、目の前の現実よりもずっとずっと現実的なものかもしれません。

科学者であれば仮説という「虚構」に身を置くことになるでしょう。寝ても覚めても、原子核と電子の間を行ったり来たりしているかもしれないし、宇宙の果てのブラックホールの中を覗き込んでいるかもしれない。

宗教であるならば、その宗教が主張する「虚構」の中に身をおき、それを現実よりも現実的なものと捉えることが信仰ということなのだと思います。

経済社会の中で生きている一般人も、お金という「虚構」の中に、言うなれば、紙きれの中に金(金が持つ値打ちもまた「虚構」なのでしょうが)にも相当する値打ちを見出し、命を削って働いているわけです。経済活動において、紙きれが内包する価値は全くもって疑いようのない現実なのであります。

いずれにしても、一時的にその「虚構」という超現実にのめり込むことはあったとしても、「虚構」として素に帰る器用さ(虚数軸と実数軸を使い分ける器用さ)は持っていないといけないということでしょうか…
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