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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「勝鬘経」の「三 一乗章」を読みました。冒頭で、大乗こそが真実の教えであり、声聞や独覚のほか、世間的・超世間的善法はすべて大乗から分かれ出たものである、と宣言されています。

「潜在的無知のあるかぎり完全な涅槃はない」というところの記述が気に入りました。

《以下引用》…
輪廻の最後の生存にある(最後有)菩薩たちでさえ、潜在的無知に蔽われ、遮断され、囲まれて、迷っているため、あれこれの価値あるもの(法)を観察せず、理解できません。

…なんぴとであれ、過誤からの解放という点で残滓があり、すべての過誤から解放されたのではないもの、清浄という点で不十分さが残り、すべてにわたって浄化された性質のものではないもの、不完全な徳性の所有者で、一切の徳性をそなえたのではないもの――

こうした人々は…苦悩(苦)を観察する点でも不十分さが残ります。苦悩のよってくるところ(集)を断ずる点でも不十分さが残ります。苦悩の滅尽(滅)を体得し、実現する点でも不十分さが残ります。苦悩の滅尽を目標とする修行道(道)を実践する点でも不十分さが残ります。

…彼らは…その涅槃が部分的なもの、部分的な涅槃を獲得したものであります。
…《引用終わり》


もがきながら生きるのが人間の宿命…ならば、せめて小さな涅槃を見つけることから始めよう…

《つづく》