トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:老い

 やっと読み終わりました。6章に鍼灸が効果が有ったという話が出てきました。

 格別の病気があるわけでもないのに、肩こり、腰痛、関節痛などの慢性的な症状があって、なかなかスッキリした気持ちになれない。こういう状態は若い時からある筈なのですが、年齢と共にこの状態に入り込んでいる期間が長くなるようです。これが現代の鍼灸の適応範囲だと、私は考えています。

 病気ではないので、医者にかかっても鎮痛剤を処方されるだけで、積極的な治療は行われません。患者さんも、「医者は何もしてくれない」という不満を抱えている場合が多いようです。こういった不満を丁寧に時間をさいて聞いてあげるということは、高度医療に携わるべきお医者さんには難しいことだし、もったいないことだと私は思います。

 そういう部分も、相補的医療としての鍼灸師の守備範囲なのではないかと思います。
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 5章を読みました。原始社会から連綿とつながってきた家族というシステムが大きく変わろうとしているんだなと思いました。

 年金制度とは、働き盛りの子から年老いた親へのお金のやり取りです。家族という閉鎖系の中で行なわれていたことに国が介入したわけです。介護保険制度も、子や孫が行なっていたことに国が介入することです。いずれも家族の存在意義をぐらつかせる側面を持っています。

 今、子育てに直面している者としては、育児保険をどうして作らなかったのだろう?という疑問が湧いては来ます。でも、もちろん無くて良かったと思っていますけど。お金ばかり取られて、本当に喜ぶのは役人だけでしょうから。
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 第4章を読みました。以前聴いた精神科医の講演を思い出しました。最近はうつ病の患者が多いけれども、それは現代の座標軸が躁状態の方に傾いているからなのではないか?というお話でした。人間を評価(診断)する絶対不動の基準なんてないのだから、躁と鬱を判断する場合も、躁にずれた人と鬱にずれた人がほぼ同数になる判断基準が最も妥当なのではないか?というような意見でした。

 こういった精神の像(イメージ)とか、身体の像とか、社会の像とか。これは不動のものではなくて、時代と共に変化する無常のものです。それなのに、人はその像に無意識に縛られ、翻弄されているようです。

 現代の福祉の考え方は、健康な身体の像を絶対的な基準としていて、障害者なら欠けているものを補い、高齢者なら衰えたものを鍛えたり補ったりして、健康な身体の像にノーマライズしようというものです。隔たり(バリア)を埋めることに躍起になっていますが、それだけのコストに見合った幸福を障害者も健常者も老若男女みんなが得ているのかどうか?

 たとえば、縄文・弥生時代、平安貴族の時代、武家の時代…今よりも障害者もお年寄りも幸せだったのかもしれません。吉本隆明さんの文章を読んで、より強く思うようになりました。
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 第3章を読み終わりました。人は皆「責任」なく自然に生まれてきて、成長と共に自我を獲得していきますが、体の衰えと共にこれを失って自然に還っていくのが『老い』なのではないか?というのは興味深い意見です。

 成長と共に自然から離れ、周囲との隔絶や違和感を感じながら、鮮明な喜怒哀楽に満ちた人生をおくる。老いるということは、その鮮明さを徐々に失うことであり、自然に還ることである。

 露と落ち露と消える我が身と辞世を詠んだ太閤秀吉も、そんな人生観を持っていたのでしょうか?

 自然から離れようとしている娘たちと、自然との隔絶に悩む自分と、自然に還ろうとしている両親と…その対比は面白くもあり、つらいものでもあります。
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 84ページに「夢と現のあいだに見る夢」という言葉が出てきます。認知症の方が見る幻覚(?)を指しています。

 私のお客様でも認知症の方がいらっしゃって、奥さんのことも誰だかわからなくなってしまっています。先日は、どこかよその家に来ていることになっていたようで、
「こんなに遅くまでお邪魔してすみません」と何度も頭を下げておられました。
「○○○○と言います。こんな怖い顔してますが、心は割と優しいんです。どうかよろしくお願いします。」とおっしゃるので、「こちらこそ」と言って私も会釈しました。

 隣で奥さんの方の施術を始めましたら、
「どこが苦しいの?大丈夫か?しっかりしろ!」と、うつ伏せに寝ている奥さんを励まし始めました。聞けば、この方は軍隊時代に衛生兵として働いていたそうです。

 やがて、彼は奥さんのところに来て、奥さんの方や手をさすり始めました。
「ここは痛いの?こうするといくらか楽ですか?本人の治そうという気持ちが大切だからね。ソラウデなんかは何人も治したんだよ。隣の村からも尋ねて来るんだから」これも、満州時代の本当の話だそうです。

 私がお灸をしようと線香に火をつけると、
「ロウソクの方がいいんだがな。ロウソクは持ってないの。それならこれでもいいや。貸しなさい。後は私がやるから。呪文も私がやるから」

 私はすっかりお株を取られた形になったのですが、「夢と現のあいだに見る夢」につき合わせていただきました。戦時中の満州に研修に行ったようで私は楽しさ半分でしたが、奥さんの目には涙がありました。
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 45ページに「病気して死ぬだけのじぶん」という言葉が出てきます。病気して死ぬのを待つだけの人生に何の意味があるのか?非常に重い疑問だと思います。

 そもそも、人生に意味があるのか?という疑問の答えを私は知りません。漫画『浮浪雲』の中で、「人生に何の意味もなし!ただ生きるのみ」という一節を見つけた時に、ホッとした記憶があります。人生には、もともと意味が無いのでしょう。意味があるにしても私たち人間には理解できない次元の問題だと思います。

 それは老若男女で事情は同じなのですが、若いといろいろやりたいことがあり、恋人がいたり、子供がいたりで、ゆっくり考える暇が無いし、体の衰えも自覚されないので、悲嘆することは余りありません。しかし老いてくると、友達もひとりひとり去って行き、日々からだの衰えも感じざるを得ず、この重い疑問が毎日のしかかって来るのでしょう。

 だからこそ、老いた身で生きていくことは大きな意味があります。この疑問の重さに耐え続けているということだから。でも、こんなことを言ってもお年寄りの慰めにはなりません。「どんな言葉をかけてあげればいいのか・・・」そんな疑問に悩みながら、そして答えなど見つかりそうもないことに半ば気付きながら、私たちも老いに一歩づつ近づいていきます。
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