トトガノート

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空海

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漂流する船の中で人々が絶望に包まれる中、空海は自分の目標を捨てず、「自分が大きな使命を負っている以上、自分が助からないわけがない」という確信を持っていた。「自分が助かる以上、この船に乗っている人たちも助かる」

これは事実かもしれないし、司馬遼太郎の虚構かもしれません。でも虚構なら虚構で、それが司馬遼太郎のものであるならば、検討する値打ちがあります。

山などで遭難しても助かる人というのは、「ここで死ぬわけにはいかない」という強い意志があって、何とか生き延びる方法を考え出すわけです。それに救助が間に合えば…という「運」の部分もありますが、これは足し算ではなく掛け算のような気がします。つまり、いくら運が良くても、意志がゼロならば助からないのではないかと。

強い意志をもたらすものも「虚構」…僧侶であるならば「信仰」という言葉になるかもしれません。でも僧侶に限らず、一般化できる話です。

遣唐使船のように漂流する現代社会において、力強く生きていくにはこのような「虚構」が必要なのではないでしょうか?たとえ何も立たないような地面でも、たとえ何も手にしているものが無くても、「虚構」ならば立てることができるし、創りだすこともできる。


どんな小さなことでもいいから自分の夢を決めて

それが頼りなくて消え去りそうなら

言葉にして呪文のように唱えてみればいい

何度も何度も…毎日毎日…

その夢に夢中になるまで続ければいい

何もないところに取りあえずこじつけで決めたような夢でも

いつしか自分を支える強い柱になるはずだ

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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の十」を読みました。

当時の遣唐使船は、羅針盤のような物は一切なく、占いで進路を決めていたというのですから、ゾッとします。

《以下引用》…
倭人どもがこの中国式天文学のばかばかしさに気づくのは、このあと時間を経ねばならない。空海の時代より九百年を経、十八世紀初頭になってようやく西川如見が『天文義論』を書き、「唐土の占星というのは、多くは人事の吉凶禍福に符合させるためにある。考えてもみよ、一人一家の吉凶を天体が感ずるであろうか」と迷蒙をひらいた。
《引用終わり》

「考えてもみよ」というところが気に入りました。占いに頼るくらいなら、他にいくらでも何かありそうですけどね…。遣唐使船のように人生を占い、遣唐使船のように人生を漂流している人が、現代でも少なくないのではないでしょうか。

船の中では、占いや僧侶による誦経が繰り返されていました。空海は「そんなもの効くものか」という思いで見ていたことだろうと司馬遼太郎は推理しています。

体も疲れ、心も疲れ、人々は次々と倒れていきます。効果があるとも知れない方法にすがらざるを得ず、右往左往しながら消耗していく様は、今日の日本そのものです。

《以下引用》…
空海はおもっていたであろう。
「…仏天は自分に密教を得しめようとしている。風も浪も船もことごとく仏天の摂理のなかにあり、この風浪もこの航海も、そして船艙にたおれ伏している病人たちも、その摂理のまにまに在り、そのほかのものではない。摂理の深奥たるや、密なるものである。その密なるものを教えるものは密教のほかなく、その密教は長安にまできている。自分は倭国からそれを得にゆく。わが旅たるや、わが存在がすでに仏天の感応するところである以上、自分をここで水没させることはないであろう。この船は、そういう自分を乗せているがために、たとえ破船になりはてようとも唐土の岸に着く。このこと、まぎれもない。…」
《引用終わり》

そんな中でも挫けないでいるためには、こういう使命感とか、信念とか、大望とか…、夢とかロマンとか、…「虚構」が必要なのかもしれません。それを持ち続けられる人が、やはり強い。

今日、最も有効な「虚構」とは何だろう?

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の九」を読みました。

《以下引用》…
空海がやったことは国家がやるべき事業でありながら、空海個人の負担によっておこなわれた。最澄の場合、天台教学を移入することは国家が公認している。その経費は国家もしくはそれに準ずる存在から出たが、空海はそうではない。このことは、空海のその後の対国家姿勢にも重大な影響をあたえたといっていい。かれは帰国後、自分と国家・宮廷を対等のものと見た。ときにみずからを上位に置き、国家をおのれの足もとにおき、玉を蹴ころがすように国家をころがそうという高い姿勢を示した。その理由のひとつとして、自分こそ普遍的真理を知っている、国王が何であるか、というどすの利いた思想上の立場もあったであろう、そのほかに、
「自分の体系を国家が欲しいなら、国家そのものが弟子になってわが足もとにひれ伏すべきである」
という気持ちがあった。さらにその気持をささえていたのは、遣唐使船に乗るにあたってかれが自前で経費を調達し、その金で真言密教のぼう大な体系を経典、密具、法器もろとも持ちかえったという意識があったからにちがいない。空海は私学の徒であったとさえいえる。
《引用終わり》

最澄と空海は好対照な点が多々あるようですが、上記の点について着目すると、「官」の最澄、「民」の空海、と言えそうです。

唐への滞在費用から、お土産、日本に持ち帰るもの一切を調達する費用等々、莫大なものです。最澄の場合は、それら全てを国家から準備してもらい、しかもすぐに帰国する予定です。ところが、空海は全部自前である上に、滞在予定は20年。

尤も20年というのは建前で、空海自身はすぐに帰ってくる腹づもりだっただろうと司馬遼太郎は推理しています。したがって、20年分の滞在費用を惜しげもなく必要なものに投入できたのだろう、と。

それにしても、どうやって資金を集めたのか。この能力だけでも素晴らしい。そして、集めた大金をドンと使う度胸の良さ。現代ならば、一代で大企業を創ってしまうような才覚です。

だから、強力なパトロンがいたんじゃないか?という気もします。しかし密教の体系を構築するに際し、遠慮しなければいけないようなパトロンがいれば、かくも完璧な体系は出来上がらなかったような気もします。千利休と秀吉のようなことになりかねないですから…。

謎は尽きませんが、空海は間違いなく超人です、俗世においても。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の八」を読みました。

空海は、遣唐使という形で、7〜9年の空白の中から、突如現れます。

《以下引用》…
かれが正規に得度をして官僧になるのは、遣唐使船に乗る前年である。このころになってようやく僧になる自信を得たかとおもえる。禁欲についての自信を得たということではなく、禁欲という次元からはるかに飛翔し、欲望を絶対肯定する思想体系を、雑密を純化することによってかれながらに打ち樹てることができたときに、僧になってもいいと思ったにちがいない。
しかし、その思想体系は唐にゆかねば日本において公認されないのである。唐の長安には、インドの純密の正系を伝える人物がいるはずであった。多くの未移入の経典をもちかえることも必要であり、あるいはまた密教が冥々のうちに宇宙の意思と交感する以上、どういう所作をすればよいかということを知る必要もあった。さらには所作のための密具も必要であるであろう。それらを持ちかえらねばならないし、それ以上に必要なのは、空海自身がインド密教の伝承を長安において正統に受けることであった。
もしそれをしなければ、空海はただの官僧にされてしまうであろう。

空海はそういう官僧の世界からのがれたいと思っていたし、げんにそれを避けるために得度を遅らせていたのであろう。空海は、かれが展開させようとする野望的世界をもっている。…そのためにはみずから密教を創始せねばならない。しかしそれを日本に居っぱなしでおこなうことはできなかった。
《引用終わり》

遣唐使は、国産の船を、国内の操船技術で動かしていかねばならず、非常に危険なものでした。最低限、死ぬ覚悟は必要で、それだけのリスクを冒してでも唐に渡りたいという人が希望したわけです。行ける人数は今の宇宙飛行士よりも多いでしょうが、生還の確立はずっと低かったことでしょう。

最澄を乗せた遣唐使船は、暴風に遭い、一度断念しています。再度出航する機会を、空海は狙って、得度し、乗船の資格を得るための運動を行ったと司馬遼太郎は推理しています。

《以下引用》
…最澄は、それだけ大仕事をするための一団を組んでいるのである。
最澄自身は還学生といういわば視察者として短期で帰ってくるが、留学生という長期滞在者も連れ、そのうえ、最澄が唐語にくらいというので通訳までついているのである。

《引用終わり》

空海の立場に比べると、かなり恵まれています。こういう人には、どうしても応援したくなくなります。最澄自身が望んでそうなったわけではないということですが…。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の七」を読みました。


最澄について書かれています。

《以下引用》…
最澄の生涯をみて、極端な言い方がゆるされるなら、かれは教団の形成というもっとも世俗的なしごとをしたわりには――もっともその完成となると、弟子やさらにそのあとあとの人々がやったのだが――およそ世俗の機才にとぼしかった。そのくせ、かれは世俗の棟梁である国王から手厚い庇護をうけ、大官たちがすすんでかれのために便宜をはからい、かれが何か希望を持っているということがわかると、世俗のほうから進んで走り寄ってくるというぐあいになるのである。とくに前半生が、そのようであった。

《引用終わり》

その理由については司馬遼太郎がいろいろ推理していますので、本書を読んでいただくことにします。ただ、平安京遷都前に、京都の鬼門に当たる比叡山に最澄が寺を構えていたということだけ、ここではメモっておくことにします。

長岡や平安京への遷都は、仏教の巣窟である奈良から逃げ出すための桓武の政策とも言われ、奈良仏教に代わるものとして桓武に選ばれた天台はとてつもなく強引に優遇されます。

《以下引用》…
かれら(奈良六宗の学匠たち)はくやしさを噛みころして、微笑していたにちがいない。やがて最澄の後半生はかれら奈良六宗の復讐的な反撃のために暗いものになってゆくのだが、その因のひとつは、この最澄にとって幸福すぎる事態がつくった。

《引用終わり》

さて、空海は…

《以下引用》…
最澄以上に経典を渉猟したであろう空海にとって、天台はすでに取捨の対象の中にあったはずであった。かれは経典の比較検討について長じていた。この能力については後世数千万の僧が出たが、かれを越える者がない。そういうかれが、天台の諸典籍について無知であるはずがなかった。知っている以上は、天台がすでに唐にあっても古色を帯びて色が褪せているということも知っていたにちがいなく、ひるがえっていえばそういう利き目の鋭どさが、空海の身上のひとつでもあった。後年、空海は教学としての天台をはげしく攻撃した。空海からすれば天台は顕教にすぎず、読んであからさまにわかるというものにすぎない。天台は「宇宙や人間はそのような仕組になっている」という構造をあきらかにするのみで、だから人間はどうすればよいかという肝腎の宗教性において濃厚さに欠けるものがある。そのことを空海は後年やかましく論ずる。

《引用終わり》

天台が所依の経典とする法華経については…

《以下引用》…
法華経は西北インドで成立した。詩的修辞の才の横溢した人物が書いたらしい。作者は一人ではなかった。時代が降るにつれて次々に増補され、ついに二十七章というぼう大なものになった。多数の手で編まれたにしてはその華麗な文体が統一されており、また釈迦の本質を詩的に把握したという点でどの経もこれに及ばないであろう。さらにこの経は最澄の疑問とする小乗的な教理からまったく離れてしまっている。釈迦の教説として伝承されてきたものを下敷にし、体系としては般若経の空観の原理を基礎としている。空観を唯一の真理とし、それを中心に世界把握の体系を構築しているもので、見様によっては華厳経よりさらにすすんだものであるかもしれない。空については、先蹤の経典として般若経がある。般若経においては、数学のいう零(空)にこそ一切が充実していると見る。その零の観念が、法華経に発展したときには壮大なものになる。零こそ宇宙そのものであり、極大なるものであり、同時に極小なるものである、という。すべての世界現象は零のなかに満ちみち、しかもたがいに精巧に関連しあって組み合わせられている。さらにいえばその極小なるものの中に極大という全宇宙が含まれ、同時に極大なるものの中に極小がふくまれ、そこに一大統一があるというのである。しかもこの経はインド的性格ともいうべき哲学理論におちこむことなく、おのおのの構造を説きつつも仏陀をもって永遠の宗教的生命であると讃美し、その讃仰の姿勢のなかに、「論」の奈良仏教がもたなかった宗教性をもっている。さらにいっそうに宗教的であることは、仏陀の偉大さと恩寵を説くについては宝石のようにきらびやかな詩的修辞をつかい、感性をもってその世をひとびとにさとらしめるだけでなく、比喩や挿話をもって神話的世界に誘いこむという点で、ひとびとを恍惚たらしめる。

《引用終わり》

ということだったんですか…もう一度、法華経を読まなくちゃ。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第四章 室戸岬」を読みました。

空海が修行した洞窟、神明窟(修行の場)・御厨人窟(住処)の近くにあるという、お遍路宿のおばさんが語った話が印象的でした。
《以下引用》
…「円海さんやったかね。その人の名は。
もともと九州のキリスト教の高校出身、目が悪くてな、やがては失明するとお医者さんから宣告されて、そんで祈祷してもらったところが、なぜか目が見えるようになったんですって。その人は感動して、それなら仏道に入って、そういうパワーというかね、人を治せる、奇跡がおこせる僧になりたいと願って高野山大学に入ったそうです。
でも、大学は出たけれども、そういうパワーは全然いただくことができなくって、それで弘法大師が修行なさったように、ここに来て一年半ぐらいおったかな。ボロのキャンプを張っていたんだけど。親御さんが心配してお金持ってきても受け付けないで追い返してしまう。行き倒れのような乞食遍路に会うと、円海さんがそんな人を食堂に連れてゆく。食堂のおばちゃんが言うには、すいませんがこの人らの注文するもの何でも食べさせてやってくれませんかって言って、自分で払って食べさせてあげる。あんなことは普通の人ができるもんやないわねえって言うてました。
ほんで、そのころちょうど『空海祭』というのが始まってね。もう二十年くらい前になるわねえ。祭のときにはお坊さんの列がありますわね、みんな本山やら偉い寺から来てるからもう錦のすばらしい衣装を着ている中で、円海さんだけが、いちばん最後に僕も加わらせてください、言うて、列に入ったのはいいけど、汚い(笑)。みんな笑うほどの茶色かね、黄土色かね、そういう汚い身なりでその行進についていったんです。
私らもその時は、ひとりだけあれやねえ、みすぼらしいねえ、と言うて見ていたんだけど、なんかその姿に妙に感動するというかねえ。なんか私は、もし弘法さんがおったとしたら、生きとったとしたら、こういう人やないかなあと思うてた」

円海さんは、その後、跡取りのいない寺の養子になって住職になられたという。それまでかれの修行は続けられた。昼間は観光客や他のお遍路の邪魔になっては申しわけないと遠慮して、夜、あたりが暗くなってから「神明窟」で座禅を組み続けていたらしい。
話には、かれがここを去ることになったときの続きがある。

「私らが夜中にたまたま、月を見に散歩していた時のこと。真っ暗闇の洞窟の中でこうジーッと、本当に本当に真面目に座禅を組んでおったんです。朝、明けの明星見に行った時も、白々としてくる明け方まで、ずうっといつから座り続けているか知らんけれど、ちゃんと座禅組んで、修行しよってけんね。凛としてね。
多分うんと正直な人やと思う。僕はこれだけ修行したからこんな奇跡があった、能力を授かったって言うことがなくてね。僕はこんなに修行をしたけれども、そういう力はいただけなかった、言うてました。
正直な人やと思う。その言葉でね、あ、この人は信用できるなあ、と思いましたけどね」

《引用終わり》

私の弘法大師のイメージは、こうではありません。こんなに修行しなくても何らかの力を持っていただろうし、多少誇張するような狡猾さはお持ちではなかったかな…と。

でも、この円海さんの生き様も凄いなと思いましたので、引用させていただきました。一人でも多くの人に、こういう人もいるということを知って欲しいので。

安っぽい手品をみせつけて「これが奇跡だ!どうだ!どうだ!」みたいに驚かして信仰を迫る新興宗教もあるようです。空海の時代には、むしろ一般人のほうが仏教に奇跡を求めたようでもあります。

円海さんは、これとは全く逆なわけです。読んでいて涙が出ました。円海さんにお会いしたいな、と思いました。奇跡なんか起こせなくても、この人は自分の生き様を見せるだけで、多くの人を救えるような気がします。これも、立派な奇跡です。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の六」を読みました。

まずは華厳経についての記述。私が探し求めている「古き良き日本」の根源、武士道なのか仏教なのかと彷徨っていましたが、華厳経の中に見つかりそうな気配がします。

《以下引用》
…中国および日本の思想にこの経ほどつよい影響をあたえたものもないのではないかとおもえる。一個の塵に全宇宙が宿るというふしぎな世界把握はこの経からはじまったであろう。一すなわち一切であり、一切はすなわち一であり、ということも、西田幾多郎による絶対矛盾的自己同一ということの祖型であり、また禅がしきりにとなえて日本の武道に影響をあたえた静中動あり・動中静ありといったたぐいの思考法も、この経から出た。この経においては、万物は相互にその自己のなかに一切の他者を含み、摂りつくし、相互に無限に関係しあい、円融無碍に旋回しあっていると説かれている。しかもこのように宇宙のすべての存在とそのうごきは毘盧遮那仏の悟りの表現であり内容であるとしているもので、あと一歩すすめれば純粋密教における大日如来の存在とそれによる宇宙把握になる。さらにもう一歩すすめた場合、単に華厳的世界像を香り高い華のむれのようにうつくしいと讃仰するだけでなく、宇宙の密なる内面から方法さえ会得すれば無限の利益をひきだすことが可能だという密教的実践へ転換させることができるのである。…空海はのちに真言密教を完成してから、顕教を批判したその著『十住心論』のなかで華厳をもっとも重くあつかい、顕教のなかでは第一等であるとしたが、このことはインドでの純密形成の経過を考えあわせると、奇しいばかりに暗合している。…
《引用終わり》

つづいて大日経について。

《以下引用》
…毘盧遮那仏は釈迦のような歴史的存在ではなく、あくまでも法身という、宇宙の真理といったぐあいの、思想上の存在である。…この思想を、空海ははげしく好んでいただけでなく、さらに「それだからどうか」ということに懊悩していたはずであり、その空海の遣り場のなかった問いに対し、『華厳経』は答えなかったが、『大日経』はほぼ答え得てくれているのである。大日経にあっては毘盧遮那仏は華厳のそれと本質はおなじながらさらにより一層宇宙に遍在しきってゆく雄渾な機能として登場している。というだけでなく、人間に対し単に宇宙の塵であることから脱して法によって即身成仏する可能性もひらかれると説く。同時に、人間が大日如来の応身としての諸仏、諸菩薩と交感するとき、かれらのもつ力を借用しうるとまで力強く説いているのである。…
《引用終わり》

空海の足跡の中での謎の七年間、私度僧として、社会的に肩身は狭いながらも自由な立場で、むしろそれを存分に利用して、大安寺や久米寺に出入りし、多くの経典に触れたようです。

《以下引用》
…かれは釈迦の肉声からより遠い華厳経を見ることによってやや救われた。死のみが貴くはなく、生命もまた宇宙の実在である以上、正当に位置づけられるべきではないかと思うようになったはずである。生命が正当に位置づけられれば、生命の当然の属性である煩悩も宇宙の実在として、つまり宇宙にあまねく存在する毘盧遮那仏の一表現ではないか、とまで思いつめたであろう。この思いつめが、後年、「煩悩も菩薩の位であり、性欲も菩薩の位である」とする『理趣経』の理解によって完成するのだが、その理解の原形はすでにこの久米寺の時期前後にあったであろう。…
《引用終わり》

私度僧になるということは、通常は「脱落」になります。でも、空海の場合はこの時期に思想の原形が出来上がったようです。

善無畏三蔵が725年に翻訳を終えた『大日経』が5年後には日本に伝わっていました。多くの経典の中に埋没していたものを私度僧空海が発見します。そして諸仏・諸菩薩との交感の方法を身につけるために、唐を目指します。

純粋密教は、中国でもインドでも消滅し、チベットでは変質してしまっているので、空海が確立したもの以外は残っていないそうです。

これほど有意義な「脱落」は世界史的にも稀でしょう。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の五」を読みました。

この章はインド孔雀で始まります。孔雀は毒蛇や毒蜘蛛も容赦なく食べてしまうそうで、この解毒作用にドラビダ族(非アーリア人の一種族)の人々は驚き、自分たちもそうなりたいと思った。そのために孔雀の咒をとなえた。

《以下引用》
…咒は、言語である。しかし人語ではない。自然界が内蔵している言語であり、密語の一種であり、人間がその密語をしゃべるとき、自然界の意思がひびきに応ずるがごとくうごく。もっとも咒が息づいていたころのインド土俗にあっては自然と人間は対立するものでなかった。人間の五体そのものがすでに小宇宙であるとし、従って、小宇宙である人間が大宇宙にひたひたと化してゆくことも可能であり、その化する場合の媒体として咒がある。…
《引用終わり》

バラモンたちも大量の咒を使っていたが、釈迦はそれを嫌った。教義上嫌ったのか、僧が咒で衣食することを嫌ったのかは分からない。咒には、ひとの病気をなおしたりする修行者の護身のための善咒と、他人を呪い殺したりする悪咒とがある。釈迦が禁じたのは悪咒で、善咒は時と場合によってはやってもかまわない黙認のかたちだったらしい。

《以下引用》…
釈迦の仏教は、インドにおいてはながくつづかなかった。釈迦教に従ったところで、人間が肉体をもつことによる苦しみから解脱するというきわめて高級な境地が得られるのみで、しかも解脱に成功する者はすくなく、あるいは天才の道であるかもしれなかった。平凡な生活者たちは現世の肯定をのぞんだ。そういう気分が咒を核とする雑密を生み、仏教の衰弱とともにそれらが活発になり、さらにはそれら雑密が仏教的空観によって止揚され、統一され、ついに純粋密教を生むにいたる。さて、そういう過程において、孔雀についての思想も変化してゆくのである。
《以下引用》

孔雀の解毒機能が、人間の解脱を妨げる精神の毒(貪ること・瞋ること・癡かしいこと)にも作用するとして、「孔雀明王」が成立。やがて、密教の中に合流していく。

《以下引用》…
紀元一世紀ごろから六、七世紀ごろまでのこの亜大陸のアラビア海に面する西南海岸では、地中海とのあいだの貿易がさかえて多くの港市が発展し、後世のインド人からは想像しがたいほどに精力的な商人が活躍していた。…

釈迦は商利の追求を貪りとして人間の三毒のひとつとしたが、現世の栄耀を否定するかれの宗教がかれの死後二百年後で力をうしない、とくにこの西南海岸の諸港市において変質もしくは他のもの――密教――に変らざるをえなかったのは当然であったかもしれない。…

この商業的世界に当然ながら無数の土俗的雑密が流入していた。そして商人たちに福徳をあたえていた。雑密を好むくせに、一面では宇宙的構想を好むインド人たちは、たとえば星屑のように未組織のままに、カケラとして存在している雑密の非思想的な状態に耐えられなくなったらしい。これらカケラのむれを、哲学的磁気で吸いあつめ、壮大な宇宙観のもとに体系づけようとした。…

その作業のためには、たとえばキリスト教が神という唯一絶対の虚構を中心に据えてその体系に真実をあたえたように、インド的思考法もまた絶対的な虚構を設定せざるをえなかった。…このため、生きた人間として歴史的に存在した釈迦をも否定し、あるいは超越せざるをえなかった。
「この大いなる体系を、大日如来が密語(宇宙語)をもって人間に説法した」

…おそらく人類がもった虚構のなかで、大日如来ほど思想的に完璧なものは他にないであろう。大日如来は無限なる宇宙のすべてであるとともに、宇宙に存在するすべてのものに内在していると説かれるのである。太陽にも内在し、昆虫にも内在し、舞いあがる塵のひとつひとつにも内在し、あらゆるものに内在しつつ、しかも同時に宇宙にあまねくみちみちている超越者であるとされる。
…《以下引用》

壮大な思想体系がどんなふうに出来上がっていったか…推理するのは楽しいものです。司馬説によれば、密教は現世的であり、現代のような経済社会とも相性がいいことになります。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の四」を読みました。

《以下引用》
…中国文明は宇宙の真実や生命の深秘についてはまるで痴呆であり、無関心であった。たとえば中国文明の重要な部分をなすものが史伝であるとすれば、史伝はあくまでも事実を尊ぶ。誰が、いつ、どこで、何を、したか。そのような事実群の累積がいかに綿密でぼう大であろうとも、もともと人生における事実など水面にうかぶ泡よりもはかなく無意味であると観じきってしまった立場からすれば、ばかばかしくてやる気がしない。

インド人は、それとは別の極にいる。

この亜大陸に成立した文明は奇妙なものであった。この亜大陸には、史伝とか史伝的思考とかいった時間がないのである。生命とは何かということを普遍性の上に立ってのみ考えるがために、誰という固有名詞の歴史もない。いつという歴史時間もなかった。すべて轟々として旋回する抽象的思考のみであり、その抽象的思考によってのみ宇宙をとらえ、その原理をひきだし、生命をその原理の回転のなかで考える。自分がいま生きているということを考える場合、自分という戸籍名も外し、人種の呼称も外し、社会的存在としての所属性も外し、さらには自分が自分であることも外し、外しに外して、ついに自分をもって一個の普遍的生命という抽象的一点に化せしめてからはじめて物事を考えはじめるのである。…
《引用終わり》

人生のツボを外し、道を外した私にピッタリ?中国文明は確かに、今も、人種にこだわってますね…

《以下引用》…
空海とは別な方法で科学を知ってしまった後世が、この空海をあざけることは容易であろう。しかし密教の断片において科学の機能を感じた空海のそれと、後世が知ったつもりでいる科学との、はたしてどちらがほんものなのか。つまり自然の本質そのものである虚空蔵菩薩に真贋の判定をさせるとすればどちらがその判定に堪えうるかということになると、人間のたれもが(つまりは所詮自然の一部であるにすぎない人間としては)、回答を出す資格を持たされていない。
《以下引用》

結局、20世紀の物理学者たちも現代科学に虚しさを感じ、インドにその答えを求めたりしました。

《以下引用》…
…十九歳の空海は、文明の成熟の遅れた風土に存在しがちな巫人能力(超自然的な力に感応しやすい能力)をもっていたかと思われる。言葉をかえていえばその感応しやすい体質でもって天地を考えたあげく、それに応えようとしない儒教的な平明さという世界が食い足りなくなったともいえるであろう。おなじことを別の面からいえばかれに儒教的教養があったればこそただの土俗的巫人にならず、ぼう大な漢字量のかなたにある仏教に直進したといえるかもしれない。…
空海はその生来の巫人的体質によって諸霊の存在を積極的に肯定していた。ただかれが、のちにインドにも中国にも見られないほどに論理的完成度の高い密教をつくりあげるころには、そういう卑小の諸霊たちはすべて形而上的になり、ほとんど記号化され、ついにはその体系のなかに消えこんでしまっただけのことである。

《以下引用》

そういう能力の人、めっきり少なくなりました。文明が成熟したということなのでしょう。

《以下引用》…
…諸霊をしずめる方法として、当時の日本には古俗的な鎮魂の作法があったが、しかしどうにも効き目がうすく、そういう神道にかわるべきあらたな効能として仏教が国家的規模でうけ容れられた。日本における仏教の受け容れ態度はあくまでも効能主義であった。たとえば医薬のように効能として仏教がうけ容れられるということは、この思想をつくりあげたインド文明の正統な思想家たちにとって意外とすべきものであったにちがいない。仏教の祖である釈迦はこの点ではとくに厳格で、弟子たちが庶人に乞われて呪術をほどこしたりすることをかたく禁じた。釈迦はあくまでも理性を信じ、理性をもって自己を宇宙に化せしめようとする思想の作業によって解脱の宗教をひらいた。…
《以下引用》

仏教に効能を求めたのは、唐も同じだったようです。中国でもインドでも衰退していく仏教が、空海たちに身を委ね、海の向こうの小国に疎開した…そんなふうにも感じます。

《以下引用》…
仏教が日本に入って二百年になる。
最初のころこそ、壮麗な伽藍と芸術的な礼拝様式、そして金色のかがやきをもつ異国の神々に対して日本人たちは効能主義であったが、しかしやがて冷静になった。正統の仏教が組織に入ってくるに従って仏教が即効的な利益をもたらすものでなく、そのぼう大な言語量の思想体系に身を浸すこと以外に解脱の道はないということを知るようになった。日本人の知性が、知識層においてわずかに成熟した。仏教における六つの思想部門が、奈良に設けられた。華厳、法相、三輪、倶舎、成実、律である。しかしながらそれらは多分にインド的思考法を身につけるための学問であり、「だからどうなのか」という、即答を期待する問いにはすこしもこたえられない。

そういう日本的環境のなかで、空海は雑密というものをはじめて知る。
雑密は純密のかけらでしかないにせよ、南都の六宗などとはちがい、効能という点ではおどろくべき即効性をもっていた。論理家である空海が、それとは一見矛盾する体質――強烈な呪術者的体質――をもっていたことが、この即効性をはげしく好んだことでもわかるであろう。…
《以下引用》

仏教にもいろいろな顔があります。「哲学としての仏教」というか、インド的思考法の断片がじんわりと浸透し、ゆっくりとこの国の国民性を作り上げて来たように思います。そういう意味で、仏教は、この国をここ何百年と守り続けてきたと言えます。

しかしながら、当時の人が望んだのは即効性だったようです。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第三章 奈良」を読みました。

《以下引用》
…男山の南麓、交野は788年(延歴7年)に桓武が中国の皇帝を真似て、天壇を築き、生贄の牛をささげた地である。のちに坂上田村麻呂が連れ帰った蝦夷の将、アテルイとモレをだまし討ちにしたのもこの地だったという。…
《引用終わり》

東北の人間としては微妙ですが…京都周辺に行ったことがないので、航空写真はワクワクします。

確かに平城京よりも長岡京の方が海(大阪)に近くて、便利そうですね。ただ、京都盆地を意識すると偏った場所です。琵琶湖に引っ張られるようにして、平安京に移って行ったんですね…


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《以下引用》
…ひとたび人間とは何か、という哲学的問いを立てたならば、本質的な問いを回避した所に積み上げられる知識や規範などは、逆にみずからの精神を束縛しようとするものだと感じられる。さらに、世の中の秩序が、大衆を奴隷的精神の持ち主へと貶め、管理することによって成り立っていると考えたならば、高級官僚など、いわばその精神的な奴隷たちのリーダーに過ぎないと思い至ったであろう。…
《引用終わり》

24歳の空海の著作『聾瞽指帰(ろうこしいき)』『三教指帰(さんごうしいき)』に、こういった思索の経過がまとめられているのでしょう。いつか読みたいです。

《以下引用》
…密教は7世紀のインドで成立したとされる。釈迦仏教、すなわち厳しい修行によって煩悩をたちきり解脱をめざす宗教からは大きく変質し、現世を肯定、欲望をも否定しない。少なくとも印象においては、まったく新しい宗教であった。

密教が生まれたころの世界において、釈迦の教えはすでに少数の修行者だけのものではなくなっていた。しかし教えを受ける庶民たちの多くは、欲望を断ち切ることなどできない。到底たどりつけない解脱の境地と照らして、みずからが当然の本能としてもっている煩悩の大きさに精神の負い目を抱かずにはいられなかったであろう。密教を生み出した哲学者たちは、おそらくこのような人間精神のありようを、惨憺たるものだと感じたであろうし、だからこそ、釈迦の思想を昇華させることで、生に対して肯定的な宗教を作り出そうとしたのかもしれない。かれらがその思想の中心に据えたのが、大日如来という宇宙の真理を体現する絶対的な「虚構」であった。…
《引用終わり》

人間とは何か、という哲学的問いの答えを「あの世」に求めている宗教・宗派は多いのではないでしょうか?これは逃げであり、ごまかしではないかと思います。

でも、空海は逃げません。

《つづく》
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