トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:空

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「唯識入門」(春秋社)
「第六章.唯識の修行論」の「一.修行の階梯」の前までを読みました。

第六章に入る前に、唯識説についてまとめてあるので、メモっておきます。

《以下要約》
唯識説の三本柱は、以下の内容。
(1)アーラヤ識を基本とする識の体系
(2)一切法についての見方としての三性説
(3)唯識観(一切法は識の現わし出したものにほかならないという見方)の体得

この学説は、竜樹によって大乗の空思想が確立したあとで、瑜伽行派の間で形成された思想。『華厳経』「十地品」で説かれていた「三界は唯心」「十二因縁分はただ一心によっている」という教えに基づいて、その唯心の理の観得の方法として発達した。瑜伽行派は唯識観をその観法(瑜伽行)の基本とする学派。

この唯識観を理論的に説明するべく、一切法については迷悟によって三種の見方があるという学説が立てられ、それが竜樹の「一切法は縁起したもので、空である」という説を展開するものであることが標榜された。

一方、生死輪廻のかなめとなる識の性格についての考察もすすみ、個体存続、身心の維持者、業の担い手としてのアーラヤ識の説が発達する。これと認識の主体、三性の見方の転換のかなめとなる識の機能の考察が加わって、唯識の学説は完成する。

唯識の三本の柱は、『解深密経』『摂大乗論』を経て『唯識三十頌』によって確立される。『瑜伽師地論』『大乗荘厳論』『中辺分別論』などでは散発的に説かれるが不十分な点がある。
《以上要約…詳しくは本書参照》

さて、次から実践編ということかと思います。

《つづく》
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「唯識入門」(春秋社)
「第一章.虚妄分別とはなにか」の「五.空性と有」を読みました。

虚妄分別の有

唯識説で「虚妄分別は有り」と言っているのは、自性をもって存在するという意味ではありません。虚妄に分別したり、ひるがえって正しい判断をしたりする主体、修行の実践主体を眼目において「有る」と言っています。実践主体とは我々一人一人であり、そのあり方は縁起(「依他」)しています。

唯識説では、実践主体(を指示する「虚妄分別」)を除いて、あらゆる法を、我の観念とともに、縁起したものではなく、ただ概念として設定されたもの、仮構されたものとみなします。

竜樹は、すべての縁起したものは概念として設定されたものとしました。唯識説は、縁起したものと、概念として設定されたものを再び分けました。ただ、仮構されたものの存在性を徹底的に排除し、仮構する機能の中に吸収してしまいました。「仮構されたあり方」のものが、「縁起したあり方」のもののほかに別にあるのではありません。

空性の有

「虚妄分別に空性がある」=「虚妄分別は空性について不空」というのは、竜樹のように無自性の意味にとっても、唯識説のように虚妄分別に二つのないことの意味にとっても、その空性なるものが諸法なり虚妄分別なりのほかに実在するわけではありません。それは空であることという道理という意味で真実ではありますが、存在するものではありません。
空性のあり方が、空なるもの(諸法なり虚妄分別なり)を貫いているということです。

さとりとしての空性

空性にはさとりの意味もあります。さとり、つまり円成実性のあることを認めないと修行が無意味になってしまいます。虚妄分別が、その意識から所取・能取の二の実在という観念を捨てることによって実現する境地として、虚妄分別と別ではありません。このような「完成したあり方」としての虚妄分別は、そのとき智と呼ばれます。虚妄分別は智に転換します。

同じことを、この智(無分別智)は空性を見る(さとる)とも表現します。このあり方は、さとりによって(さとったものの智の内容として)はじめて現われますが、さとっても、さとらなくても、ものの真実のあり方としては不変である道理です。その意味で実在とも言えると、瑜伽行派は考える傾向がありますが、中観派は徹底的に排除します。

このようなさとられた真実としてのあり方としての空性は、「真如」とか「法界」とか「実際」などと表現されます。

ブッダとしての空性

この空性をさとったもの、つまり仏は、そのさとりにおいて、能所の二が空となった方ですから、その智と空性とがひとつとなっていると解釈します。法(真理)とひとつになった身という意味で「法身」と呼びます。

これは如来蔵思想の基本をなしている考え方で、唯識説も、仏身観においては同じ考えを示しています。この法身は、「法界」という言葉同様、全てに遍くゆきわたっているとされ、「どんなものでも、法身(法界)の外にあるものではない」。「虚妄分別(個々の実存者)はすべて空性においてある」(空性はすべての存在に通徹している)ということになります。

電磁気学とかでも、電荷というミクロからのアプローチと、電場というマクロからのアプローチがありますが、唯識説と如来蔵思想の間にも、何かアプローチの違いのようなものを感じます。

《つづく》
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「唯識入門」(春秋社)
「第一章.虚妄分別とはなにか」の「四.中道と三性説」を読みました。

竜樹は、すべて概念的存在にすぎない、と言ったうえで、それを「中道」だと言っています。その意味は「非有非無の中」すなわち、自性が無い、空、という意味で、それら一切の法は「非有」であるが、概念として想定されているという意味で非無だと言っています。同じものが有でもあり無でもあるということです。

『中辺分別論』でも、「中道」が非有非無の中を表しているのは同じですが、三性という三つの角度から見つめ直しています。

1.「遍計所執性」(へんげしょしゅうしょう)
「仮構されたあり方」(パリカルピタ・スヴァバーヴァ)という意味です。
遍計所執性の中に能所のふたつ(〔能〕分別するもの・主体・我 vs 〔所〕:分別されるもの・客体・法)があります。さらに、その遍計所執性〔所〕は、虚妄分別〔能〕と能所の関係にあります。つまり能所の二重構造が成立しています。

2.「依他起性」(えたきしょう)
「他に依存している」(パラタントラ・スヴァバーヴァ)という意味です。
虚妄分別を指します。虚妄分別は我々ひとりひとりの意識のあり方をさしており、ひとりひとり千差万別です。それぞれの過去の経験、知識に基づいて、みな異なった意識内容をもっています。これは他に依存しているということであり、縁起しているということです。

3.「円成実性」(えんじょうじつしょう)
「(修行によって)完成されたあり方」(パリニシュパンナ・スヴァバーヴァ)という意味です。
正しい判断(正智)によれば、「我と法は実在しない」、あるのは「我と法を実在すると考えるところの意識のみ」。即ち「唯識」です。

正しい判断とはさとりのことですから、さとりにおいては虚妄分別は機能しなくなります。しかし、正しい判断として機能しますから、正しく判断するものはそこに残ります。

竜樹の「空」の定義は「一切法には自性がない」ということです。しかし唯識では、「空性とは虚妄分別に所取・能取の二つがないこと」と定義されます。


《つづく》
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「唯識入門」(春秋社)
「第一章.虚妄分別とはなにか」の「三.主観と客観」を読みました。

前出の「能取」と「所取」は、それぞれ「主観」(知るもの)と「客観」(知られるもの)と言い換えることができます。前者は我・私・自己であり、後者はその自己によって知られ、見られ、聞かれ、触られ、経験される一切です。これを仏教では「法」と言います。

但し、木とか石とか個別的存在を区別はせず、色(色や形)、声(音)、香、味、触、心(意識)をそれぞれ法として数えます。

そして「すべての法は実在する」という主張を立てたのが、「説一切有部」です。有部は我という実体は存在しないが、その内容を構成している色などの諸要素(つまり法)は実在する、と解釈しました。能取たる我は実在しないが、所取たる法は実在する、という主張になります。

これに対し、「法も実在しない」というのが大乗の主張であり、『般若経』であり、竜樹でした。

自性(スヴァバーヴァ)というのは、固有のあり方、あるいは自立的存在ということで、他の力をかりずにそれ自体存在しているもの。それは永遠不変に有り続けるはずであるが、そんなものはこの世には何も存在しない。なぜなら、ブッダが教えられたように、全ては縁起したもの、他の力をかりて成立しているものであるから。それは無自性であるということ。この「自性の無い」ということを、自性が欠けているという意味で「空」と表現します。

まとめると、
1.有部は、我は存在しないが法は有る(自性、自己存在、固有、特定のあり方をもった存在である)と主張。
2.大乗は、我もないが、法も実有ではない(自性がない、空である)と反論。
3.その根拠は、すべてのもの(法)は縁起しているから。
4.縁起している=自性が無い=空。

まさにこれが竜樹『中論』の三諦偈「因縁所生の法、我即ち是れ空なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦た是れ中道の義なり」の意味するところです。

『中論』の内容がやっと少し分かったような気がします。

《つづく》

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IT革命に付随した波がいろんな業種に方向転換を迫っています。人々のライフスタイルも変わってしまいましたから、今までの商売のやり方が通用しなくなっている…。

ひと月ほど前の「クローズアップ現代」では、新聞業界の苦悩が取り上げられていました。新聞が無くなってしまうのではないか?という業界の不安に対して、ゲストの立花隆さんは、絶対に無くならないと断じました。「必要なものだから」というのが理由でしたが、未来を見据えた前向きな意見というよりは、新聞で育ったジャーナリストとしての過去を懐かしんだ祈りのように感じました。

新聞が全く無くなってしまうとは私も思いませんし、それを望みもしませんが、今のような形は維持できないだろうと思います。

数年前まではネットでニュースを見るというスタイルにはどうしても馴染めなかったし、ましてやどこのだれが書いたか分からないブログから情報を得るなんてことは考えてもみませんでした。でも、最近は違っている…。

紙の新聞の購読は止めて、ネットで流れるニュースだけでも何とかやっていけるんじゃないか?と最近考え始めています。一般人が書くブログのほうが、速くて説得力のある情報だったりすることもある…。

立花さんに言わせれば、新聞の情報は信頼性が高いし、結局ネットに流れている情報もおおもとを辿れば新聞のようなマスメディアでしょう?ということでした。だから新聞は無くならないという論法なんですが、新聞をおおもととする情報がネットに流れているんだとしたら、新聞の情報をアップするサイトさえ読めば新聞は読まなくてもいいということも言えます。

だから、新聞はある程度の部数は売れるでしょうから、全く無くなるということはないかもしれないけれど、今までのように売れるということもないでしょう。要は、新聞社の採算ラインを超えるだけの売り上げを確保できるかどうか…。

採算ラインを超えられないとなれば、いわゆる新聞という形態は成り立たなくなるわけで、新聞の絶滅もありえない話ではない。

そうなれば、新聞の記事を書いていたようなジャーナリストが有料のサイトやメールで情報発信するような形が多くなってくるかもしれません。

「○○新聞」という看板の下に囲われていたジャーナリストたちが、そういう看板無しで勝負することになるとしたら、それはむしろ良いことなんじゃないかな?というのが、今回言いたかったことです。

現状では、新聞社の意向で掲載されない記事もあるでしょう。「○○新聞」という形で束ねるためには、どうしてもある種の情報操作は避けられないと思うのです。そのふるいのお陰で高い信頼性も保たれるのでしょうが、弊害として必ず情報には偏りが生じるはずです。これは検閲と本質的には同じです。

いくつかの新聞社や放送局があって、それぞれが違った特色を出しているからいいじゃないか、という反論は有るでしょう。が、そういう点では、新聞社や放送局の数が十分多いとは思えないし、それぞれが自由な主張をしているようにも見えません。

ひとつの大事件が起こると、どこのチャンネルでもそればかり扱ってるというのが普通ですから…。

それぞれの新聞社が180度違う意見を発信するというケースも少ない。もっともっと無ければおかしいです。

社会を行き来する情報のすべてを集めたとき、その中にあらゆる方向の論説が含まれていなければ、健全な情報群とは言えないと思います。(敢えて言えば、「空」の状態ではない)

邪な情報が行き来することもありましょうが、発信者の邪な部分をそのまま伝えるのも情報の務め…尤も、正邪の判断は主観的なものであり、基本的には受け手の判断に委ねられます。邪と判断して途中で遮断(フィルタリング)してしまうのは検閲…尤も、ウイルス駆除も広い意味では検閲の一種ですから、検閲の是非もまた主観的なもの…。

質の低い情報に翻弄されることは増えるでしょうが、そうしなければ情報を見極める力は養われないし、それが情報化社会で洗練されるということでしょう。

社会のこの大きな流れは、いつかは平衡点を見つけて、落ち着くこともあるかもしれません。でも、その社会が、今までのマスメディア中心の情報化社会と比べて良いと言えるかどうか、もっと遡って、かわら版から情報を得ていた社会と比べて良いと言えるかどうか、それぞれ長所短所があって優劣はつけられないそんな程度のものなんじゃないかとは思います。

それでも、この流れは止められない…。

IT革命と言っても、結局はテクノロジー(「T」の部分)の革命だったわけですが、その革命がITの本丸たるインフォメイションそのもの(「I」の部分)まで、いよいよ波及してきたということなのかもしれません。
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2月7日の日本経済新聞、サイエンスの欄で、金(ゴールド)に関する記事を読みました。化学反応が起きにくい安定した金属ですが、ナノメートル(nm:ナノは10億分の1)単位の超微粒子になると、かなりラジカルなものに豹変するという話。

色も変わるというのが面白かった。直径50〜100nmで紫、20nmで濃い赤色、10nm以下では黄に近づくそうです。

例えば20nmで、なぜ赤く見えるかと言えば、金属の周りを巡る電子が振動し緑の光が吸収され、緑と「補色」の関係にある赤が強調されて見えるから…

この色の見え方の説明が良かった。初めて出くわしたわけではありませんが、今回はとっても示唆的に響いたのです。

赤い物が赤く見えるのはなぜか?緑の光を吸収するから。ここまでが科学の話。ここから先が「念中仏仏」です。

全く偏りのない光が、皆に平等に、降り注いでいる。しかし、緑に執着するモノは緑の光を放さない。故に、そのモノが発する(反射する)光には緑が欠落している。そのモノは偏った存在として見えることになる。つまり、赤いモノとして見えることになる。

全く偏りがない光とは、いわゆる白い光です。光の三原色(Red,Green,Blue)がバランス良く配合された色。全てを含む色。言うなれば「」の色です(「そら」と読まないでね)。

光の緑成分を蔽うと考えれば、客塵煩悩のようでもあります。執着を無くせば、偏りは無くなり、「空」の境地に近づく…これが、第一の教訓です。

赤いモノ、赤に偏っているモノとは、赤の成分が突出していると捉えるのが普通の見方です。だから、赤いモノを更生させるには、赤い成分を抑えてやろう、削ってやろう、妨げてやろう、と発想するのが普通です。

赤いモノを矯正するには、教育するには、救済するには、赤い成分を抑えることだ…。でも、これは、緑に執着していたモノに、さらに赤に対する執着をも植えつけることにはならないでしょうか?

煩悩を減らそうとして、実は煩悩を加えている

赤いモノには、赤を削るのではなくて、緑を補ってあげなければいけない。緑を補い、緑への渇望を癒し、執着を無くしてあげなければいけない。

これが第二の教訓。まあ、教育やカウンセリングの現場で応用するには、全く参考にならない、具体性の無い話ではありますが、例え話としては面白いんじゃないでしょうか。
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規制緩和ということなのでしょうか。

例えば歯医者さんは非常に増えたらしい。その弊害として「年収200万以下の歯科医がいる!」という週刊誌の見出しを見たことがあります。市場規模(患者さんの数)に対して、供給過剰状態になっているということなのでしょう。

これは決して私の場合も他人事ではないのでありまして、鍼灸師も同じなのです。養成のための専門学校の設立に関する規制が若干自由化されたということだと思うのですが、学校が増え、卒業生も増え、資格を取得した人も増えました。歯医者さんと同じく、戦国時代に突入したとも言われているようです。

これは、こういった業種に関わらず、ほとんどの業種で見られることかもしれません。有名なのは、タクシーでしょうかね…

競争の激化を招くため、利用者の利益にはなるかもしれませんが、働く方は大変になります。料金の下落は賃金の下落につながります。かくして、ワーキング・プアが増加するわけです。

これは儲かりそうだ!という業種があると、みんなこぞって参入してきます。そうすると結局、上記の現象が起きまして、ワーキング・プアを生まない業種はどんどん減っていく。

さらに最近は不景気ですから、デフレという点でも料金の下落は加速し、賃金は上げられなくなっている。

格差社会というのが一時期問題になりましたが、格差は大きくてもいいのです、豊かな人が多ければ。プアな人が多いから深刻なのです。ワーキング・プアどころか、ワークもできない人まで増えている…

ワーキング・プアの一人としまして、まず、仕事は選ばずにやることでしょう。さらに、一つだけではやっていけないから、掛け持ちのできる仕事を組み合わせてやっていくしかないかな…と思っています。

先日から展開しております「純粋でない」=「空」という強引な理屈に基づきますと、これは「空」に近いですね。何でもやっているので、何屋さんなのか分からない状態。「無職」ならぬ「空職」。これが理想的だとは思わないけれど、人間の幅は広がりそうですね。

空の職業と言えば、JALも大変なようです…。
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空の剪定…あらゆる方向に根を伸ばし幹を伸ばし枝葉を伸ばし得る私たちが、この世に生まれ、人として育つ中で、空から離れ、アンバランスな存在性を獲得していく。

教育も、この剪定作業のひとつなのかもしれない。今の時代をより良く生きるために、子供の頭や心を、「良かれと思う形」に整えていく作業。

この「良かれと思う形」は、時が経てば変わるし、場所が違っても変わる、「一時的な価値観」。例えば、この国の「ゆとり教育」が方向転換を迫られるのに数年しかかからなかった。国の教育方針なんて、この程度のもの。紛れもない「虚構」

切断したはずの指が痛むことがあるらしい。もう切り落とされたはずなのに、確かにその場所が「痛い」。煩悩とは、剪定で切り落とされた枝葉の叫びではないだろうか…。

例えば、多細胞生物であるがために切り落とされるポテンシャルならまだしも、国の教育方針なんかで切り落とされるポテンシャルはたまったものではない。そこに溜まった煩悩を、単に不浄のものとして片付けていいものなのか…。

ゆえに、真の教育者とは、子供の全てのポテンシャルが見えなければいけないのだと思う。その子を空なる存在として見通した上で、その子のポテンシャルの何が切り落とされたのか、あるいは何が健在なのかに気づかなければいけないのだと思う。

そして、煩悩の疼きをも、受けとめてあげなければいけないのだと思う。

それでもやはり、教育とは剪定であるから、子供が「なるべき形」を示し、その形に近づいていくことを促すために競争を仕向けることもあるだろう。

でも、その「なるべき形」とは「一時的な価値観」であることも教えるべきである。そうすれば、競争に負けたとしても、不必要に過剰な劣等感は持たないだろう。また、勝ったとしても、過剰な優越感を持って敗者を差別することもないだろう。

つまり、教育者はその心を空に保ち、子供の心を空に導かねばならない…。
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これを「」と呼ぶのが正しいのか、少し迷いはあるのですが、強引にそう呼ばせていただきまして、今日も書きたいと思います。すなわち、すべてのポテンシャルを含む状態、これを「空」とします。

すべてを含んでいるとき、それは最もバランスがいい状態ですから、この世に存在することはできません。何かを捨て去ってバランスが崩れた状態、つまり対称性が破れたとき、おそらく物質としてこの世に現れます。

ウイルスでさえ、モラルのようなものがあるらしい。そのために捨て去るべきポテンシャルというのもあるでしょう。

さらに多細胞生物として生まれた場合、反社会的ポテンシャルを捨て去るほうがいい。より社会的な方向にバランスを崩したほうが、多細胞生物という自分の立場との整合性が良くなります。

そのうえ人間である、ということになると、捨て去るべきものが多分にあるのだろうと思います。その時代や国・地域での社会的制約、風習とか思想とか…いろいろなものが複合する中で、いろいろなものを捨て去っていかなければならなくなる。

そんなふうに勝手な「空」想をしたとき、それは植物の剪定みたいなものだなと思いました。

あらゆる方向に伸びていこうとする植物。最初に、天と地の制約に出くわします。地に根を張り、天に向かって芽を出す。天にも根を伸ばそうというポテンシャルは捨て去らなければいけません。

芽を出し、順調に育っているようでも、日当たりや雨風の影響で何らかのポテンシャルは捨て去って、成長していきます。

そして、実をたくさんならせようとしたとき、その作物ごとに剪定の仕方は異なります。

本当はあらゆるポテンシャルが、ポテンシャルとしては「有り」なんだけれども、現実世界の制約と突き合わせたときに、相克関係になってしまうものがある。つまり、捨て去った方がいいポテンシャルがある…

雪が解け始めると、東北の果樹畑では剪定作業が始まります。
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「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナ以後」の「2比較思想からみたナーガールジュナ」を読みました。

最初に結論を引用します。
《以下引用》…
西洋においては否定神学や神秘主義は何といっても付随的なものであり傍流にすぎなかったが、東アジア・南アジアにおいては、少なくとも教義的には主流となっていた。空観のような思想は、西洋ではひろく根を下すことができなかったが、東洋では大乗仏教を通じて一般化した(浄土真宗の教学といえども、空の理論を基礎としている。少なくとも教義の上では表面的には基本思想とみなされていたのである)。ここに、東と西では重点の置き方が異なっていたといいうるであろう。
…《引用終わり》


西洋では空観のような議論としてはどんなものがあったか、ということですが、アリストテレスの実体の観念に対するラッセルの実体批判は興味深いです。

《以下引用》…
『実体』という観念は、真面目に考えれば、さまざまな難点から自由ではあり得ない概念である。実体とは、諸性質の主語となるもので、そのすべての性質から区別される何物かである、と考えられている。しかし諸性質をとり去ってみて、実体そのものを想像しようと試みると、われわれはそこに何も残っていないことを見出すのである。この問題を別な方法で表現すれば、ある実体を他の実体から区別するものは何であるか、ということになる。それは、性質の相異ではないという。なぜなら実体の論理によれば、諸性質の相異ということは、当の諸実体の間に数的多岐性を前提としていることになるからだ。したがって二つの実体は、それ自身どのようにも区別し得ることなしに、ただ単に二つでなければならないという。それではどのようにしてわれわれは、それらのものが二つであることを見出し得るのであろうか?実際には『実体』とは、さまざまな出来事を束にして集める便宜的方法に過ぎない。…
(例えば)『フランス』というような語が単なる言語的便宜であり、その地域のさまざまな部分を超越して『フランス』と呼ばれるような事物は存在しない…それは、多数の出来事に対する一つの集合的な名称なのである。…一言にしていえば、『実体』という概念は形而上学的な誤謬であり、主語と述語とから成る文章の構造を、世界の構造にまで移行させたことにその原因があるのだ(『西洋哲学史』市井三郎訳、上巻、205ページ)
…《引用終わり》


否定的捉え方について

《以下引用》…
インドで『リグ・ヴェーダ』以来、ことにウパニシャッドにおいて絶対者は否定的にのみ把捉されると説いていた。これはとくに般若経典が繰り返し説くところであるが、とくにナーガールジュナはこの点を『中論』で明言していう。
「心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである」(第十八章・第七詩)
古代西洋の哲学者たちは実体を何らかの意味で承認していたけれども、究極の実体は概念作用をもって把捉することができないという見解は、非常に古く、おそらくナーガールジュナからあまり遠く隔たらない時代に現われている。
…《引用終わり》


例えば、ディオニシウス・アレオパギタの場合。

《以下引用》…
万有の原因は霊魂でもなく、知性でもなく、また説いたり考えたりすることのできないものなのである。絶対者は、数もなく、順序もなく、大いさもない。その中には、微小性、平等、不平等、相似、不相似は存在しない(――まさに般若経典の文句である――)。それはいかなる叙述をも超えている。ディオニシウスはこれらの限定をすべて否定する。それは、真理がそれらを欠いているからではなくて、それらをすべて超えているからである。
…《引用終わり》


ナーガールジュナは<空>という原理さえもまた否定しています。否定そのものの否定(「空亦復空(くうやくぶくう)」)です。
《以下引用》…
この観念を継承して、中国の天台宗は、三重の真理(三諦)が融和するものであるという原理をその基本的教義として述べた。この原理によると、
(1)一切の事物は有論的な実在性をもっていない、すなわち空である(空諦)。
(2)それらは一時的な仮の存在にほかならないたんなる現象である(仮諦)。
(3)それらが非実在であってしかも一時的なものとして存在しているという事実は中道としての真理である(中諦)。
存在するいかなる事物もこの三つの視点から観察されねばならない、と説く。
…《引用終わり》


否定ばかりでは何事も始まらないではないか!と思われるわけですが、そうではなくて…
《以下引用》…
<空>はすべてを抱擁する。それに対立するものがない。その<空>が排斥したり対立するものは何もないのである。実質についていえば、「空」の真の特質は、「何もないこと」であると同時に、存在の充実である。それはあらゆる現象を成立せしめる基底である。それは生きている空である。あらゆる形がその中から出てくる。空を体得する人は、生命と力にみたされ一切の生きとし生けるものに対する慈悲をいだくことになる。慈悲とは、<空>――あらゆるものを抱擁すること――の、実践面における同義語である。大乗仏教によると、あらゆるものが成立する根本的な基礎は<空>である。だから「空を知る」ということは<一切智>(全智)とよばれる。
…《引用終わり》


空は実践は基礎づけるもの…
《以下引用》…
『金剛経』では「まさに住するところなくして、しかもその心を生ずべし」という。菩薩は無量無数無辺の衆生を済度するが、しかし自分が衆生を済度するのだ、と思ったならば、それは真実の菩薩ではない。かれにとっては、救う者も空であり、救われる衆生も空であり、救われて到達する境地も空である。この思想は中国の道教にも承継されている。「汝は汝の能力で他人を救うことを自慢してはならない」(道士、第百四十五則)
…これに類する思想は西洋ではパウロによって説かれている。すなわち、内面的に世界から自由であることを外面的に表示する必要はない、ということをパウロは次のように記している。
「妻のある者はないもののように、泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、世と交渉のある者はそれに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである」(「コリント人への第一の手紙」7・29-30)
…《引用終わり》


気に入った箇所が多くて、引用ばかりになってしまいました。本当に得るものの多い本でした。空っぽだった頭に<空>が少しだけ入りました。これから何度も読み返すことになるでしょう…

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