トトガノート

All about TOTOGA

科学

遺伝子組み換えの倫理について、私は巷の議論とは違う意見を持っています。もちろん、積極的に大賛成!と考えているわけではありません。遺伝子組み換え技術を、神に対する冒涜みたいに特別視するのはどうかな?ということです。

確かに、顕微鏡などを使って受精卵に直接手を加えたりする技術と聞けば抵抗はあります。でも、今までにも品種改良ということは行われてきました。馬とロバを掛け合わせたりということも、遺伝子組み換えの一種だと私は思います。縄文時代の遺跡で発見された栗の品種が一つであることから、その品種を選択的に栽培していたと考えられていますが、それは品種改良も行っていたということでしょう。そもそも、私たちが今、口にしている農作物で品種改良がなされていない物ってあるんでしょうか?

これまでの品種改良と最近の遺伝子組み換えとの違いは、人手が加わっている度合いが違うだけだと思います。つまり、程度の差であって、本質的に違うものではない。だから、技術内容ではっきりと区別することはできるにしても、倫理性とか食の安全性という観点ではっきり線が引けるのか、疑わしいところです。

この本を読んで最後に思ったことは、科学と倫理は全く別のものだということです。だから、将来的にも科学が進歩することによって倫理性を内包していくことはないだろう、と。我々は、科学のほかに倫理についても考察し追及していかなければいけない。物と心、知識と幸福、科学と精神性の探求は、相補的にバランス良く組み合わせて行かなければいけないようです。

初め(10%)を見る
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

仏教心理学では理性的か感情的かという区別がない。心が苦しいか苦しくないかという視点で分析されているそうで、面白いと思いました。また仏教では「ポジティブ・シンキング」のようにシンキングだけでは扱わずに、思考から生じる行動までを一緒に扱い、その行動がどういう影響を及ぼすかまでを考えるという点も面白いと思いました。

これは、心をどうモデリングするかという違いかと思います。そして、どういう心理状態を望ましいと位置付けるかが重要だと思います。でもこれは科学の仕事ではないと私は思います。宗教の仕事だと。ダライ・ラマは科学と宗教の融合をを模索しているように思えるのですが、それはどうかと私は思います。

続き(100%)を見る

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

量子というミクロの世界から宇宙というマクロの世界まで取り上げ、ついに意識の問題に至りました。何事よりも、これが最も根本的なテーマかもしれません。宇宙とか原子とか考えるのも、物とか心とか区別するのも、意識ですから。意識というスクリーンに投影されたものだけを私たちは認識しています。

第三者的な方法を取る科学は、皆の意識の最大公約数しか扱えないものと言えます。最も身近で、最も根本的な部分には、科学は全くお手上げなんですね、少なくとも今のところは。

私も十年ほど前にこのことに気づいて、買った本が「ペンローズの量子脳理論」です。久しぶりに書庫から引っ張り出してみたら、訳&解説が茂木健一郎さんでした。相対論,量子論,ゲーデルの不完全性定理など私の好きな言葉が目白押しで、再び読んでみたくなりました。

続き(80%)を見る
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

恥ずかしながら十無記という言葉を初めて知りました。お釈迦様が答えなかった問題(わからなかったのか、敢えて答えなかったのか)です。ウェブ上から拾ってきました。

(1)世有常(この世は永遠か)
(2)世無有常(この世は永遠でないか)
(3)世有底(この世は有限か)
(4)世無底(この世は無限か)
(5)命即是身(魂と身体は同じか)
(6)命異身異(魂と身体は別物か)
(7)如来終(如来は死後存在しないか)
(8)如来不終(如来は死後存在するか)
(9)如来終不終(如来は死後存在し、かつ存在しないのか)
(10)如来亦非終非不終(如来は死後存在せず、かつしないでもないか)

という内容らしいです。

私が宗教に求めるものは、人々が平和の中でストレスなく生きていく考え方を示すこと、です。宇宙の起源などという問題は、わからなければ「わからない」でいいと思います。「この教えを信じれば何もわからないことはありません!」というような人が、私がこれまで会った新興宗教に夢中になっている人に多いのですが、こういう宗教は無条件で×ですね。

宗教に求められるのは、答えの得られない問題に当てずっぽうの答えを用意して無理に信じさせることではなくて、答えが得られなくてもストレスにならない心(考え方)を養うことだと思います。

続き(50%)から見る
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

科学に興味を持ち始めたダライ・ラマに、あるアメリカ人女性がした忠告は私も面白いと思いました。「科学が宗教を殺す」ということ。神は死んだそうですが、殺したのは科学なのかな…と私も思っています。

ただ、だからと言って科学に近づくのを恐れてはいけないと思います。科学をこれ以上野放し状態にしておくことは全人類にとっても危機です。「科学は人類をも殺す」だろうから。ダライ・ラマの勇気をたたえたいです。

私見ですが、科学とは客観性(あるいは再現性)のある事象から帰納的に真理を探究していくもの。宗教とは、人を幸せにする真理を示すもの(あるいは探究すべきもの)。そして真理とは絶対普遍のものなどあり得なくて、時代とともにあるいは人とともに相対的にあるものです。昔と現代で違うし、科学者と宗教者でも違う。だからこそ、歴史を振り返り、いろいろな分野の人と影響を及ぼしあいながら、永遠に追及し続けなければいけない。

さてさて、先が楽しみです。

つづき(20%)から見る

ダライ・ラマ科学への旅―原子の中の宇宙
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

最近、爆笑問題が面白いなあと思っています。特に「爆笑問題のニッポンの教養」という番組。と言っても最初から最後まで見れたことは一度もないのですが。福岡伸一先生はいいことおっしゃいますね。

新年の特番もたまたま目にしたのですが、福岡先生も出演されていて「科学は因果関係と相関関係を混同している」というような発言をされました。人間なんて相関関係しかわからないのに、因果関係を解明したような気になっている!というような指摘でした。全く素晴らしい!というか、全く同感です。

以下は私の考えです…

例えば「リンゴが木から落ちるのを見て引力を発見した」という話。これは落体の法則性を発見したのであって、物が落ちるメカニズムを解明したわけではありません。全くわかっていません。だから、因果関係も全然わかっていないんです。

わかっているのは「リンゴを木の枝から切り離す」と、その後に「リンゴが落ちる」という現象がほぼ確実に発生するということだけ。その落下のスピードが、ある方程式で計算した数値に非常に近いものになることが多いということだけ。

因果関係がわかっていないから、「明日から地球の重力が無くなるよ!」と言われてもそれをはっきり否定する根拠を我々は持ち合わせていないんですね。

明日から科学は全く意味を成さなくなるかもしれない。理系の学生が聞いたら勉強する気がなくなるかもしれない。理科大嫌いの人は大喜びするかもしれない。でも、これが本当のところだと思いますよ。

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ