トトガノート

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「自己認識への道」(法蔵館)
「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第二 見跡」を読みました。

水辺の林の下で牛の足跡を見つけます。草が踏みつけられています…そんな情景でしょうか?

《以下引用》

水辺林下 跡(あと)偏(ひと)えに多し
芳草は離(り)披(ひ)たり 見たるや

現代はかつてのように一部の特権階級のみに機会が与えられていた時代とは異なり、すべての人に情報は平等に提供されている。それを手に取り、選び取るどうかはあなた自身に委ねられている。それだけ現代はいつにもまして自分の存在に自分自身が責任を持たねばならない時代と言えるだろう。…

縦(たとい)是深山の更に深き処なるも
遼(りょう)天(てん)の鼻(び)孔(くう) 怎(なん)ぞ他(かれ)を蔵(かく)さん

もちろん、第二の「見跡」では「衆器の一金たることを明らめ、万物を体して自己と為す」ところまで体験的に知るには至らない。それどころか主客(人法)の二元論の妄執(人我見・法我見)がサンサーラの世界(世間)を造り出していることさえ気づいていない。ましてこの認識の構造を断ち切ることがニルヴァーナの世界(出世間)への道であることなどまったく知らない(「二取(能取・所取=主・客)の随う眠はこれ世間の体なり。唯しこれのみをよく断ずるを出世間と名づく」)。ここでは数多の覚者が辿った道を尋ねるところで、まだ真理(真如門)に足を踏み入れてはいないから、仮に足跡を見たところと言われるのだ(「未だ斯の門に入らざれば、権に見跡と為す」)。
《引用終わり》

現在も仏教はある程度のブームなのかもしれません。毎日の暮らしの中に疑問を覚える人が少なからずいるということだと思います。

「私とは誰か」とかいう究極的なものでなくとも、「これでいいのかな…」という漠然としたもの。この違和感のようなものから出発して、これを解消あるいは解明すべく、本を見たり、ネットで検索したり。それは『尋牛』と言っていいと思います。

本もたくさん出版されているし、ネット上の記事もたくさんあります。「これかな?」と思う内容のものに出会うことも多いと思います。それが今回の『見跡』という段階かと思います。「これかな?」と思って読み始めてみても、読んでいるうちにやっぱり違和感が湧いてきて追跡を止めてしまうことも多いと思います。実際、私がそうでしたから。

仏教の有名な解説者とか、とても有名なお坊さんの講話とか、いろいろ試してみましたが、違和感が必ず湧いてきました。

二元論を超えるところに仏教の真髄があると考えると、この広く深い仏教哲学の世界もシックリとシンプルに整理できるような気がします。それに比べれば、巷で話題の仏教書という類のものは、この核心を外しているものが多いような気がします。まさに「未だ斯の門に入らざれば」の段階なのです。

『見跡』の段階の人々に対しては、真如門の中からの説明では受けない(売れない)ということなのだと思います。敢えて、相手のレベルに合わせて説いていくのも、菩薩としては重要なこととは思いますけど…。

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第一 尋牛」を読みました。

《以下引用》
…さて『十牛図』に登場してくる「牛」が心を象徴していることは次第に明らかになっていくと思うが、第一「尋牛」ではまだ牛は姿を見せていない。ということは、この段階でまだ悟りへの道が自らの心を如実に知ること(如実知自心)だということが理解されておらず、どこを捜せばよいのか、その手掛かりも分からず、全く取り付く島もない状態にあることを示している。

忙忙として草をはらう撥(はら)い去(ゆ)いて追尋す
水闊(ひろ)く山遥かにして路(みち)更に深し

どんな人も一度は生の意味は何かと自問自答したことがあるだろう。いや、その意味が分からなくて途方に暮れたことがあるかもしれない。しかし、殆どの人の場合、結局は手近な目的や計画が意味に取って代わられ、今日したいことを自分はするだけ、今日という日は二度と来ないのだからと思ってか、思わずか、深く生の意味を尋ねることもなく、やがて人の生は使い果たされる。そんな恣意的な願望や野心の中に生の意味があるとはとても思えないが、生の意味というか、目的がどこにあるかを説いてきたのが宗教なのだ。宗教の存在意義はここにあり、またそれだけで充分なのだ。しかし、われわれはそれが分からないために忙忙とあれもこれもと試してみるが、本当に覓むべきものが見つからない。ただ精も根も尽きて、独り空しく佇むばかり。

力尽き神(しん)疲れて覓(もと)むるに処なし
但(た)だ聞く楓樹(ふうじゅ)に晩蝉(ばんせい)の吟ずるを

《引用終わり》

前にも書きましたが、『瞑想の心理学』とこの本は表裏一体という感じです。『瞑想の心理学』ではこの本のテーマである「私とは誰か」が取り上げられたように、『瞑想の心理学』のテーマである「生の意味」が早速この本にも出てきました。

「生きる意味」については、私も以前考えた事をいろいろ書いています。『瞑想の心理学』を読んでいるときにそれまで書いたことをリンク集のようにまとめました『瞑想の心理学』に書かれてある悟りの記述もリンク集のようにまとめました

一望して気付いたのですが、結局は、聖俗両面の見方を身につけ、常に両方の見方で物事を見つめ、思索すべし…ということかと思います。

というのは、たとえ悟ったとしても、そのままこの世でお金を稼いで、おいしいものを食べて生きていくのであれば、二元論的見方もしなければ他の人との遣り取りに不都合が生じてしまうわけで、サンサーラとニルヴァーナの両方を具有し、その場その場で十段変速のギアを切り替えるしかない。十の階梯を順序どおりという時間の観念を排して、場面に応じて、ランダム・アクセスできるようにした方が良い。

そんなことを考えながら、この先、読んでいきたいと思います。

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「総序」を読みました。

「瞑想の心理学」で述べられていたようなことが多く書かれています。時間に関する件が興味をひきました。

《以下引用》
…われわれが求める究極の真理は時間の中にはない。ということは、時間の中を動いている思考の中にもないということだ。真理はあなたの内なる実存に「本有の真源」としてある。それはかつて在ったし、今も在り、永遠に在り続けるものなのだ。従って真理は、今ここであなた自身が探りをいれるかどうかの問題であって、思考や努力によっていつか実現されるような性質のものでは決してない。もしそうなら永遠の真理が未来に存在するという不合理が生じてくるだろう。…
《引用終わり》

「永遠の真理」なんですから時間に依存するのは確かにおかしい。

《以下引用》
…真源は始まりもなければ終わりもない永遠であるが、あなたが「我在り」と自らを意識したとき、あなたの始まりは真源であり、終わりもまた真源になるということだ。なぜなら真源からさ迷い出たあなたはいつか真源へと帰る(還る)旅を始めることになるからだ。『十牛図』のプロセスの中に「返本還源」が組み込まれているのもそのためだ。…
《引用終わり》

例えば海面に発生した波。これを波動関数として表現することは可能でしょう。当然、時間tというパラメータを含む関数になります。時間tを代入しないと変位xは決まらないという見方をすれば、波はtに依存しています。逆に、時間tが何であってもこの関数は成り立つという見方をすれば、波はtに依存しているとは必ずしも言えなくなります(数学的には依存すると言うのが正しいのだろうが)。

「我在り」の瞬間に時間tが始まるとしても、時間tは我々が通常考えているような振る舞いをしない。ずーっと一定の速さで一定の方向に流れているのではない。悟りに近づくプロセスならば尚更…。

『十牛図』も階梯とはいえ、ただ順番通り見るだけでいいものではないかもしれません。向上門を描いた曼荼羅も向下門として逆に辿る見方がありました。

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「プロローグ」を読みました。

デルポイの神殿に掲げられた「汝、自らを知れ」が、この本のテーマです。同著者による「瞑想の心理学」では大乗起信論から、その問いへアプローチしていました

この本では、「廓庵の十牛図」と「トマスの福音書」を手掛かりとして、つまり禅とキリスト教の立場から、この問いにアプローチしていくようです。

《以下引用》
…宗教は、ともすれば絶対者(神、仏)の信仰であるかのごとく思われてきた。確かに宗教が信仰で始まるという側面を持っていることは否めない事実であるが、アウグスチヌスも「信仰で始まり、見ることによって完成する」と言ったように、本来宗教は如何にして真理に目覚めるかということを主眼としている。

しかし、何が今のわれわれをして直ちに真理を目睹することを許さないのであろうか。それは真理を求めているわれわれ自身の無知(仏教はそれを「無明」と言う)に原因がある。もちろん、自己を知らなくとも、学問がそうであるように、真理の探求ということはあり得る。しかし、それは宗教がいう真理(真の知識)ではない。後者の場合、その無知ゆえに真理は見えていないという性質のものであり、自らの足元を照らす灯明が消えているために、本当に求むべきものの見分けもつかないまま、手探りで闇の中を探しているようなものなのだ。…
《引用終わり》

学問的な探求、特に科学的な探求がわれわれの中に浸透していくにつれて、宗教的なそれは排除されていったような気がします。それが現代の書物の内容が薄っぺらな感じがする原因だと、私は思っています。「私とは誰か」というような、素朴にして究極的な探求を忌み嫌い、「宗教」と聞いただけで毛嫌いしているが故に、かえって妖しげな新興宗教に対して鼻が利かず、装った仮面を見抜くことができなくなっているということはないでしょうか。

そんな仮面を見破り、巧みな布教を論破するためにも、素朴にして究極的な思索は必要だとは思いますが、それが第一目的ではもちろんありません。

私たちは、毎日、とっても忙しいです。愛する家族の顔をよくみる暇もないほどに忙しく働いている方々はたくさんいると思います。どうして、こんなに忙しくする必要があるのか。素朴にして究極的な疑問を避けて、私たちは、いつまで頑張れるのでしょうか?

科学の中でさえも、私たちは究極的な疑問を避けているように思います。例えば、二酸化炭素の増加を抑えるために電気自動車を開発しているけれども、発電は原子力に頼ることを一向に変えようとしません。二酸化炭素よりも劣化ウランの方がクリーンなのでしょうか?

ひとつ嘘をつくと、嘘の上塗りを繰り返さなければならなくなるように、ひとつの本質から目を背けているが故に、いくつもの本質に目をつぶらざるを得ない状況に追い込まれているような気がします。

ここは逃げないで、「自分」という問題に取り組んでみましょう。

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