トトガノート

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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第一章 危ういかな人間」を読みました。

《以下引用》
イエスが言った、「もし彼らがあなたがたに、『あなたがたはどこから来たのか』と言うならば、彼らに言いなさい、『私たちは光から来た。その光は自ら生じたのである。それは自立して、彼らの像において現われ出た』。もし彼らがあなたがたに、『それがあなたがたなのか』と言うならば、言いなさい、『私たちはその光の子らであり、生ける父の選ばれた者である』。もし彼らがあなたがたに、『あなたがたの中にある父のしるしは何か』と言うならば、彼らに言いなさい、『それは運動であり、安息である』と」。(『トマスの福音書』50)
《引用終わり》

この問答はどんどん核心に迫っているわけで、最後のQ&Aが最も重要な気がするんですが、回答の意味が分からなくてズッコケます。

「光」というのも何なのか。ビッグバンのことを意味するのか。何も答えにはなっていない。私たちが来たところは「光」という名前を与えられたけれど、ブラックボックスであることに変わりはない。

それは後の展開を待つとして、ここでは以下の指摘が重要です。

《以下引用》
…つまり、人間は原初の光から自然に形(像)をとって現われてきたというのだ。仏教はそのような生成の仕方を胎生や卵生と区別して化生と呼ぶ。そして、イエスひとりが神の子ではなく、われわれもまた神の子であり、あらゆるものがその源泉である神から自然に生じてきたということだ。しかし、伝統的なキリスト教はこのような思想を彼らの教義の基本に悖る不遜として、決して容認しないだろう。

「永遠なる父はわれわれが同じ神の子であることを教えようとしている」という考えを持っていたエックハルト(1260-1327)が異端の疑いをかけられ、弁明に勤めたにもかかわらず、彼の死後、異端として断罪されたように、『トマスの福音書』がイエスのアポクリュフォン(隠された言葉)として歴史の表舞台から秘匿され、埋蔵される運命を辿ったとしても何の不思議もない。
《引用終わり》

大乗仏教を信仰する人は、将来は仏となることを目指す菩薩という立場に自動的になります。宗派によっては即身成仏まで唱えています。ここに仏教の救いの一つがあるように思います。それに対して、キリスト教では、神と人間の間に絶対に越えられない境界があることになっています。

しかし、神と人間の間に絶対的な隔たりがないという考え方がキリスト教にもあったとしたら、大乗仏教の中に見出せる光明をキリスト教の中にも見出せることになります。『トマスの福音書』はキリスト教のその「光」の部分なのかもしれません。

その「光」が、暗い箱の中に封じ込められていた…。

私自身、キリスト教には途轍もなく暗いイメージを漠然と感じています。これはクリスチャンの方々には不愉快かもしれませんが、私の勝手な感覚として、御勘弁下さい。

一番象徴的なのは十字架。要するに処刑台なわけです。それを祭壇の上に高々と掲げ、蝋燭で照らして、皆で拝む…原罪に苛まれ、近寄ることの許されない「神」としてひたすら拝む…現代のストレス社会で、キリスト教ではどうしても救われずに、仏教を信仰し始める人々が欧米にいると聞き、何となく納得できる思いがしました。

『トマスの福音書』が明かすイエスのアポクリュフォン。これがキリスト教に取り込まれていたら、その人々は改宗することもなかったかもしれません。

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「序章 隠された言葉」を読みました。

今回から、キリスト教です。私はほとんど素養がありませんので、『トマスの福音書』あるいは『ナグ・ハマディ文書』について全く知りませんでした。大戦直後の12月に、こんな文書が発見されていたとは。

この中では「この言葉の解釈を見出すものは死を味わうことがないであろう」と言われ、殊に「死を味わうことがない」というフレーズがリフレインのように繰り返されるそうです。

可藤氏の著作を拝読してきましたので、「これはニルヴァーナに入ること?」とピンと来るわけですが、結論を急がず、丁寧に読み進んでいきたいと思います。

世界史の時間に、先生が「トマス・アクィナスは…」と言った瞬間、名前を呼ばれたような気がして目が覚めたことがあります(もう少しで返事するところでした)。それから、「トマス」という名前は他人とは思えません。目をしっかり開けて読んでいきたいと思います。

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第十 入鄽垂手」を読みました。

《以下引用》
さて、第十図の「入鄽垂手」をよく見ると、境(自然)だけであった第九「返本還源」とは異なり、再び人が登場し、人境(環境)が倶に描かれている。しかし、もちろんこれは第七「忘牛存人」まで辿ってきた人境ではない。少なくとも、それらは第八図の「人牛倶忘(人境倶忘)」を経てきたものである。…

胸を露わし足を跣(はだし)にして鄽に入り来たる
土を抹(な)で灰を塗り笑い腮(あぎと)に満つ


…それは仮我と真我の違いであり、彼がわれわれ人間と外見上異なる風貌をしているというのではない。…しかし、覚った様子をいささかも見せず、いかなる言葉も絶えた無本質(無位)、あるいは誰でもないもの(無我)になっている(「自己の風光を埋めて、前賢の途轍に負(そむ)く」)。

…時間・空間を隔てた無の帳の彼方へと消え、存在と一味になった彼は、今や、どこにも拠所を持たない「一無依の道人」として存在している。独り柴の門を閉ざした彼の「家」がいかなる拠所も持たない無だということ(窟中に一物無し)、そして、空々堂々、清浄にして一塵を受けず、光華、明らかな「一窟」が人間の帰るべき我が家として、すべての人の実存深くに隠されていることをわれわれは知らない。さらに、この寄る辺なさこそ全き自由だということがどうしても理解できず、常に何かに拠所を見出そうとしているのがわれわれ人間なのだ。それは人(家族)や物(金銭)であり、また組織(会社)や趣味(サークル)であったりとさまざまであるが、それらすべての根底にある拠所こそ「私」であり、その非を説いているのが仏教における「無我」の思想なのだ。…

(「柴門独り掩(おお)うて、千聖も知らず」)

…宗教における悟りとは、本源(真源)の中へと死の飛躍をする(大死)という逆説を通して、永遠のいのち(不生の生)に蘇ることなのだ。そのために長生不死の方法を説いたとされる神仙の妙術を用いるには及ばない(「神仙の真の秘訣を用いず」)。…

このように大我(真人)としての自らに誕生を齎(もたら)した者にとって、当然のことながら、世界(境)もまたわれわれが主客の認識構造で捉える三界・六塵の境界(妄境界)ではない。それは白隠の言う「蓮華国」であり、見るものすべてが本来の耀きを見せ、その様子を「直だ古木をして花を放って開かしむ」と詠んでいるのだ。それは空海が草木のようなものまでもが成仏すると言ったことでもある。われわれ人間の目(衆生眼=肉眼)で見るならば、草木も粗い色形に過ぎないが、覚者の目(仏眼=慧眼)を通して見るときそれは微細な耀きを放っている。…

…世間へ出かけて行く彼は一体何を引っ提げて迷道の衆生に向かうのであろうか。それはかつて理由も分からず生々死々を繰り返し、呻吟していた自らの姿をわれわれ衆生の中に見、「衆生をして頓に心仏(本源清浄心が本源清浄仏であること)を覚り、速やかに本源に帰らしめん」がためなのだ。…

たとえ「酒肆魚行(しゅしぎょこう)」の巷であっても、「化(け)して成仏せしむ」ことにもなろう。しかし、決してそこに長居はしない。いそいそと家(一窟)へと帰り、独り無為の凝寂の処に憩うのだ(「瓢(ひさご)を提(さ)げて市に入り、杖を策(つ)いて家に還る」)。
《引用終わり》

悟った者は、さりげなく衆生の中に入って、本源へと導く…そういう者に私はなりたい。

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第九 返本還源」を読みました。

《以下引用》
サンサーラ(生死)はニルヴァーナ(涅槃)に他ならないことを「有相の栄枯を観じて、無為の凝寂に処す」と言う。ここに無為とあるが、有為との違いは行為する人がいるかいないかの違い、つまり有我(自我)と無我の違いなのだ。では、有我と無我の違いは何に拠るかと言えば、われわれが心(妄心)を有するか、否かの違いなのだ。…

…あなたがほんの一瞬でも無我となって真我に蘇るならば、たちまち真理(不変真如)は了々とその全体を顕し、もとより修治を仮る必要もなかったと知るのだ。その時、真理は寂滅現前して欠けるところがなく、一瞬一瞬、創造と破壊を繰り返しながら日々新たにされていく。…

幻化に同じからず、豈(あ)に修治を仮(か)らんや
水は緑に山は青うして、坐(いなが)らに成敗を観る


自心に惑い、迷情妄起して闇路に闇路を重ねて来た者が「尋牛」、「見跡」とわれわれには帰るべき真源(心源)があることを知り、経典にあたって方法を探り、悟りの階梯を一歩一歩と辿ってきたが、いっそ盲聾の如く「ただ直下に無心ならば」、妄心の雲は晴れ、「本体は自ら現じ」(『伝心法要』)、たちまち真我を覚って「自家の宝蔵」を開くと、もとよりそこは「本来清浄にして、一塵を受けたことがない」。

本に返り源に還って已(すで)に功を費(ついや)す
争(いか)でか如(し)かん 直下に盲聾(もうろう)の若(ごと)くならんには


…「私とは何か」を知ろうとして探究を始めると、私とは心が仮構した「五蘊の仮我」に過ぎず、その心が心源へと消えると私だけではなく、これまで見ていたすべてのもの(境)が消え、その後には無あるいは空だけが残る。これが第二の「見る」、というよりは見ないことであり(不見)、第八「人牛倶忘(人境倶忘)」がそれを表している。われわれの内なる実存は無あるいは空の寺院(庵)であり、そこに到達した人、といってもそこには誰もいないのだから、正しくは、無我となった人(?)は外にも内にも何も見ていないのだが、無の鏡に再び自然(境)が顕れてくるのは第九「返本還源」なのだ。

庵中には庵前の物を見ず
水は自(おのずか)ら茫茫 花は自ら紅なり

《引用終わり》

悟りの庵に戻った時、同じ風景が違って見える…目からウロコと言うか、目から塵と言うべきか。

《つづく》
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「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第八 人牛倶忘」を読みました。

《以下引用》
世界を幻影あるいは夢の如しと見た人たち(覚者)はこれを瞑想のプロセスのある段階で(『十牛図』では第八「人牛〈人境〉倶忘」を指す)知ったのであって、そうでない殆どの人々にとっては、この世界は幻影どころか存在する唯一リアリティのある世界と映っているのだ。…覚者…は道を求め、慧海のように先師を訪ねた果てに、心の他に仏はなく、ただ自心に迷うがゆえに六道の波は妄起すると知って、意縁走作する心(妄心)を息め、有仏(瞑想の中で仏や神を見ること)、無仏のところを走過して、心源へと辿るとき、やがて人境(自己と世界)が倶に銷殞し、我が家へ帰り着くとそこはもとより無、あるいは空であったと覚るのだ。

凡情脱落し、聖意みな空ず
有仏の処、遨遊(ごうゆう)することを用いず
無仏の処、急に須(すべか)らく走過すべし

…これを宗教的覚醒(悟り)の体験と呼ぶが、体験と呼ぶには少し注意を要する。普通、経験には経験する人がいて当然であるが、そこに体験するあなたはもういないからだ。たとい神秘的なビジョンを見たとしても、それが仏(神)であっても、また宇宙との一体感を味わったとしても、そこにあなたが存在する限り、それを宗教的覚醒の体験とは言わないのだ。

両頭に著(お)らざれば、千眼も窺い難し
百鳥花を含むも、一場のもら



慙愧す 衆生界已に空ず
箇中の消息 若為(いかん)が通ぜん
後に来る者なく 前に去(ゆ)くものなし
未審(いぶかし) 誰に憑(よ)ってか此の宗を継がん
《引用終わり》

むかしむかしあるところで、宇宙は始まりました。
でも、「いつ(時間)」も「どこ(空間)」も、宇宙の中にしかないから、
それは、「いつ」でもない「どこ」でもない出来事。

「われ」も同じ。
思うがゆえに「われ」はある。
思うのを止めたとき、「われ」は消え去る。
「いつ」でもない「どこ」でもない存在に帰る。

《つづく》
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「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第七 忘牛存人」を読みました。

《以下引用》
…真理(法)に主客の二法はないけれども(「法に二法なし」)、この妄心が捕えるもの(人)と捕えられるもの(牛=心)の二つに自心を分けているだけなのだ。その差異を『十牛図』は蹄兎(ていと)と筌魚(せんぎょ)を例に挙げて説明している(「蹄兎の異名に喩え、筌魚の差別を顕わす」)。蹄は兎を、筌は魚を捕える道具であるが、心をもって妄動する心を捕えようとしてきた人が、第七「忘牛存人」に至って、その心をも除くことが求められているのだ。…

心ゆえに迷いに迷いを重ねてきたのであり、一方「自家の宝蔵」である本源清浄心はいかなる心の塵にも染まらぬ真心であり、われわれは心を除いて自家奥裏の心源へと辿って行けばいいのだ。…(「金の鉱より生ずるが如く、月の雲を離るるに似たり。一道の寒光、威音劫外(いおんごうげ)」)。

そうして、遂に心が心源へと消え、無心(真心)となれば、そこがあなたの永遠の家郷(家山)なのだ。…そこにはあなたがかつて経験したことのない深い沈黙と静寂がある。あたかも波が消えれば海はあらゆる清濁を飲み込んで何ごともなかったかのように鎮まりかえるように、あなたは全ったき静寂の中に独り停む。

牛に騎(の)って 已に家山に到ることを得たり
牛も也(ま)た空(くう)じ 人も也た閑(しず)かなり
紅日三竿(こうじつさんかん) 猶(な)お夢を作(な)す
鞭縄(べんじょう)空しく頓(さしお)く草堂の間

《引用終わり》

この世を生きるということは虚妄の世界を生きるということであり、そこで上手に生きるということは二元論的区別をこなすことです。この区別の上に言葉が生じてきます。そして言葉の上に観念とか概念は生じます。

苦悩もまた、そうかもしれません。よって、それらを取り去った時、深い沈黙と静寂は訪れる…

《つづく》
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「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第六 騎牛帰家」を読みました。

《以下引用》
…仏教は、何か目的のために忙しく散走することではないが、少欲知足を美徳としたり、清貧の生き方を説いているのでもない。「自家の宝蔵」が示すように、宗教とは自らの家郷(家山)に辿り着きさえすれば、そこにすべては円かに具わり、一つとして欠けるものがという体験なのだ。その時すべての欲望が消える、少欲すらない。…

…仏教(宗教)は、ややもすると禁欲を説いているように思われるが、そうではない。欲望とは「自家の宝蔵」を知らず、家郷を投げ捨てて、外へと彷徨い出たあなたのあがきであり、空しい努力であると教えているのだ。なぜなら、あなたがこの地上で手に入れるものであなたのもとに永遠に留まるものなど何かあるだろうか。名誉、地位、権力、財力…何であれ、あなたはすべてを残して独り旅立つ。だから馬祖は、言葉の最も厳密な意味において、あなたのものと言えるのはただ一つ「自家の宝蔵」であり、それを顧みることなく、何をし、何を手に入れようとも無意味だと言おうとしてのだ。
《引用終わり》

本源に帰るという思想は洋の東西を問わないということで、プロチヌス、エックハルト、『トマスの福音書』が取り上げられています。

《以下引用》
…例えば、怒りを鎮めなければとんでもない結果を招くかもしれないと必死に怒りを抑えようとしている人がいるとしよう。怒り(客)とそれを抑制する人(主)の間にある主客の分裂が葛藤を生み出していることは確かだ。そして感情的に激することなく、理性的に振る舞えば、世間では大人だと見なされる。それはそうに違いないが、ここで問題なのは、怒りもその人なら、抑えるのも同じ人であることだ。われわれの経験として主客が二つあるように見えるが、実は心が自ら抑制するものと抑制されるものに分かれているだけなのだ。

第四「得牛」第五「牧牛」において、人牛が繰り広げてきた争いもまた心の分離がもたらしたものであり、心でもって心を抑制しようとしてきたのだ。それが第六の「騎牛帰家」に進むと、人牛(主客)の争いも終わり、まだ主客の区別は残るものの、主客は共に心が仮に区別したまやかしと認識しているために、もはや二元論的な見方に惑わされることなく、心を摂してその本源へと帰ろうとしているのだ。…

干戈(かんか)已(すで)に罷(や)み、得失還(ま)た空ず。樵子(しょうし)の村歌を唱え、児童の野曲を吹く。身は牛上に横たえ、目は雲霄(うんしょう)を視る。呼喚(こかん)すれども回(かえ)らず、撈籠(ろうろう)すれども住(とど)まらず。…

しかし、第六「騎牛帰家」ではまだ人牛(主客)が断じられるところまではいかない。…

牛騎って迤邐(いり)として家に還らんと欲す
羗笛(きょうてき)声声 晩霞(ばんか)を送る
一拍一歌 限り無き意
知音は何ぞ必ずしも唇牙(しんげ)を鼓(こ)せん
《引用終わり》

見つめられる自分と、それを見つめる自分。分離はしているが、激しい葛藤、渇望はない…そんな状態。

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第五 牧牛」を読みました。

《以下引用》
…思考と思考するものは同じ心であり、思考は思考するものであるのだ。

思考と思考するものの間にある見せかけの距離に欺かれ、思考を追い求めていくこと、それが欲望なのだ。そして生はどこまでも欲望の投影であり、その達成にこそ生の意味はあると見ているのであろうが、欲望の本質は今述べたように、心が生み出したものを心が追い求めるという矛盾なのだ。言うことが憚られるが、人間とは目の前に自分でぶら下げた人参を把えようとして走り続ける馬のようなものなのだ。
《引用終わり》

これに気づくことが「前思纔(わず)かに起これば、後念相い随う」であり、「止」ということなのでしょう。思考(妄想)が消えると、それを生み出していた心も妄りに動くことを息(や)め、無為寂静の本来の心に帰っていきます。

《以下引用》
真源を覚れば「本覚の真心」となり、たちまち六道・四生を出て、真実の自己(仏)に目覚め、迷えば「不覚の妄心」となって、三界虚妄の世界に沈淪する凡夫(衆生)となる。

「覚(さと)りに由(よ)るが故以(ゆえ)に真と成り、迷いに在るが故以に妄と為(な)る」
《引用終わり》

その境い目は紙一重…

《以下引用》
…心は、われわれが経験するあらゆる悲喜劇の創造者であるだけでなく、奇妙なことに、その悲喜劇に一喜一憂しているのもまた心なのだ。このように一切の境界はただ心が妄りに起こるがゆえに存在するのであって、決してその逆ではない。

「境に由って有なるにあらず、唯だ心より生ず」

だから第五「牧牛」では妄りに動く心(牛)をしっかりと捕え、ためらうことなく真源(心源)へと帰っていく様子が描かれているのだ。

「鼻索牢(つよ)く牽(ひ)いて、擬議を容(い)れざれ」
《引用終わり》

妄念を止めれば、心はおとなしくなって、真源へと帰っていく…

《以下引用》
従って、われわれは心あるいは欲望のからくりに気づき、妄動する心をあえて除こうとするのではなく、いわんや、追い駆けるのでもなく、善悪・凡聖など一切言わず、心の動きをひたすら観察するならば(時時に鞭索するならば)、心はその落ち着きどころを自ら見出して、その本源へと自然に消え去るのだ。

鞭索(べんさく) 時時 身を離れず
恐るらくは伊(かれ)が歩を縦(ほしいまま)にして埃塵(あいじん)に惹かれんことを
相い将(ひき)いて牧得(ぼくとく)すれば純和せり
羈鎖拘(きさこう)することなきも自(おのずか)ら人を逐(お)う
《引用終わり》

《つづく》
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「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第四 得牛」を読みました。

《以下引用》
人が美しいものに心惹かれ、いとおしく思うのも、それが内なる真実の反映であるからに違いない。しかし、美の写しの定めとしていつかは滅び、土(humus)へと帰っていく。その悲しみをわれわれは何度も経験している。愛を求めた果てになお狂おしく、切ない思いに駆り立てられるのも、実は、反映の向こうに真実なるものを予感しながら、どうしても届き得なかったことからくる諦めにも似た虚しさからではなかろうか。地上の愛は、逆説ではあるが、その不完全さを知ることにあるのかも知れない。というのも、他者に求めた真実は、実は最も近いところで自分自身の内に有り、それを見出したときに初めてわれわれは愛すべきは、諭すべきは何かを知るのだ。…
《引用終わり》

人を愛する時、相手の内なる真実への思いであるならば、初めは純粋に美しいのかもしれません。でも、妄念としての心の性なのか、「真実」は形骸化し、ただそれを思うことだけに酔い、その人を獲得することだけに執着するようになる…「愛」を抱くものが妄念である以上、アガペーのようなものに止揚することは極めて稀だと思われます。ゆえに、仏教で「愛」は執着を意味します

同様の私見は、「不邪淫」とか「夫婦同性」とか「空海の風景」でも書いていますのでご覧下さい。

成就しない「愛」だけが真実のままでいられるとしたら…これは、消え去ることでしか真実の姿になれない「心」と全く同じ構造ですね。

《以下引用》
…広劫よりこのかた生死の苦海に沈淪してきた私が、その正体である妄動する輪廻の心をやっと捕えたところが「得牛」である。しかし、心(牛)を捕えてみたものの、妄動する心を繋ぎとめるのがやっとで、とても心を除くまでにはいたらない。

精神を竭(けつ)尽(じん)して 渠(かれ)を獲得す
心強くし力壮(さかん)にして 卒(にわ)かに除き難し

心は良くも悪くもありとあらゆる想念を生み出すプロジェクターのようなものであり、われわれは実際そこには存在しないにもかかわらず、スクリーン上に次々と現れる映像を見て、喜んだり悲しんだりと自らの心を乱しているのだ。さらに心は、上は天国から下は地獄まで「自心所現の幻境」に自ら迷い、一瞬たりとも落ち着くということがない。

有る時は纔(わず)かに高原の上(ほと)りに到り
又(ま)た煙雲の深処に入って居(きょ)す
《引用終わり》

それに対する思いが強いければ強いほど、それは力強く、
押さえようとすればするほど、それは暴れる…

《以下引用》
…心というものは二元性しか理解できない。しかもわれわれはずっと二元論的な思考方法に慣らされてきているために、どうしてもこの心から離れられないのだ。しかし、この心を除かない限り、対立二つながらの源である一元性の世界(法界一相)を知ることができない。そのためには妄りに動く執拗な心(頑心)を、一切の分別を挟むことなく注意深く観察すること(鞭楚)が必要なのだ。…

頑心は尚(な)お勇み、野性は猶(な)お存す
純和を欲得(ほっ)せば、必ず鞭(べん)楚(そ)を加えよ
《引用終わり》

この鞭楚が止観双修ということでしょうか…。

《つづく》
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「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第三 見牛」を読みました。

《以下引用》
…われわれは何よりまず心(今のところそれは妄心でしかないのだが)を捕え、それと取り組むことによって心の本源へと帰っていかねばならないのだ。そして、その心(牛)をわずかに捕えたところが第三「見牛」であり、牛が少し姿をのぞかせ、視界に現れた様子が描かれている。

ここで初めて人(私)と牛(心)が実際に出逢い、外に向かっていた姿勢を改め、自分自身と対峙することになるのだが(回光返照)、私もまた心が仮構した観念(五蘊の仮我)に過ぎないから、私の心でもって牛を捕まえる、つまり心でもって心を捕えようとしているのだ。第三「見牛」から第六「騎牛帰家」までに描かれている人・牛・境(自然)のすべては、心(妄心)が造り出したものであることはよく理解しておかなければならない。そして、他ならぬこの心が無始劫来生死の本であり、辿るべきは、この心を除き、その本源(真源)であると深く思いを定めて、ようやく悟りに向け、実践の道を歩み出した端緒が第三「見牛」なのである。…

黄(こう)鸎(おう)枝上 一声声
日暖かに風和して 岸柳青し
只だ此れ更に廻避する処無し
森森(しんしん)たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
《引用終わり》

この世が「自心所現の幻境」ということであれば、見えたと思った頭角は、自分の(心の)影かもしれません。

影を追えば、影も逃げる。同じ速さで。それが自分の影とも知らず、追いかけっこはいつまでも続く。

《つづく》
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