トトガノート

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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第四章 永遠の故郷」を読みました。

人間には外なる人(homo exterior)と内なる人(home interior)があるという、キリスト教独自の人間観があるそうです。これを理解するには、エックハルトの「ドアと蝶番」の説明がいいとのこと。

《以下引用》
…外側では生死、幸不幸、喜悲、愛憎、得失…と、ドアが大きく左右に振れるように、良いこと悪いこと、さまざまなことが絶えず起こっている。そして、この比喩が優れているのは、内側を蔑ろにして、外側へと向かえば向かうほどドアが大きく振れるように、二元性はその対立を深め、先進国に見られるように、社会の歪と矛盾はますます混とんとしたものになっていく。しかし、どんなに外側が揺れ動いても、それを支えている蝶番は何事も無いかのように、いつも変わらず不動を保っている。
《引用終わり》

ドアが激しく右往左往すればするほど、遠心力でますます外側に行こうとする…そんなところも、この比喩の優れているところかもしれません。

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第三章 隠れた宝」を読みました。

前回までをまとめたような文章を引用しておきます。

《以下引用》
…外側で多くのものを溜め込みながら、足ることを知らず、未だあなたが満たされず混乱しているとしたら、その問題は外側にあるのではなく、あなた自身の内側にあるはずだ。われわれを取り巻く生活環境は進歩と発展を見たけれども、われわれ人間の内なる実存、すなわちプレーローマ(充溢)を知らないことから生じてくる虚しさと焦燥感ではないかということだ。われわれはこの内なる宝(真珠)を顧みないで外側で宝の山を築こうとしている。
《引用終わり》

スーフィズムの偉大なシェイフ、ルーミーも同様のことを言っています。

《以下引用》
世間でいう学問とか技能とかは、いずれも海水を茶碗で量るようなもの。あらゆる技術で身を飾り、金もあり顔も綺麗だが、一番大切な「あのもの」を欠く人がたくさんいる。反対に、見かけはいかにも見すぼらしく、美しい言葉も力強い言葉も喋れないが、永遠不滅の「あのもの」だけは持っている人もいる。それこそは人間の栄光であり高貴さの源であり、またそれあればこそ人間は万物の霊長なのである。もし人間が「あのもの」に辿り着けさえすれば、それでもう己の徳性を完全に実現したことになる。が、もしそれができなければ、人間を真に人間たらしめる徳性とは縁なき衆生だ。(『ルーミー語録』)
《引用終わり》

「あのもの」とは意味深な表現ですが、これに辿りつかないと大変なことになるみたいです。

《以下引用》
イエスが言った、「あなたがたがあなたがたの中にそれを生み出すならば、あなたがたが持っているものが、あなたがたを救うであろう。あなたがたがあなたがたの中にそれを持たないならば、あなたがたがあなたがたの中に持っていないものが、あなたがたを殺すであろう」。(『トマスの福音書』70)
《引用終わり》

今度は「それ」で表現されています。この「死」については、つぎのような表現もあります。

《以下引用》
魂は神を所有することなしには生きることもできず、また死によって身体の苦痛を免れることもできないので、死は存在しないどころか、永遠の死が存在するからである。第一の死は魂をその意に反して身体から追い出し、第二の死は魂をその意に反して身体のうちに留める。(アウグスチヌス『神の国』)
《引用終わり》

「あのもの」とか「それ」というのは「神」なのでしょうか?

「大死一番」ということで、起信論やナスルは、いわゆる「悟り」を「仮我の死」として表現しておりましたが、ここでの「死」は逆の意味のようです。

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第三章 隠れた宝」を読みました。

さて、いよいよ「私とは誰か」という最初の問に入っていくようです。

「生きる」ということを考え始めると、落ちるところまで気持ちは落ちていくし、そこで死ぬわけにもいかないとなると、どこかでふっ切って、その追求を保留にしなければ何ともなりません。

《以下引用》
気づいたらわれわれはこの世に存在していた。しかも、それはいつかは終る有限の生であると知る。ここから人間は「なぜ」と独り思考することを余儀なくされる。パスカルは、その時、彼を捉えた言いようのない不安を「誰が自分をそこに置いたのか、自分は何をしにそこに来たか、死ぬとどうなるかをも知らず、あらゆる認識を不可能にされているのを見るとき、私は眠っているあいだに荒れはてて怖ろしい島に連れてこられて、目覚めてみると、そこがどこかわからず、そこから脱出する手段もない人のような、恐怖におそわれる」と言った。わずか三十九年という短い生涯であったが、彼を死ぬまで悩ませたこの問題に粘り強く立ち向かう人は少ない。もちろん、そういう問があることを人は知らないわけではないが、それには容易に解答が見つからないために、いつしか忙しさの中で忘れ、波々として生を渡る。…

しかし、ナグ・ハマディ文書はそんな人間の無関心と怠慢をよそに、われわれ人間の出自はプレーローマ(充溢)であると言う。そして、プレーローマから流出した人間が行き着いたところが欠乏(貧困)からなる地の国、すなわち二元葛藤する幻影の世界であったのだ。
《引用終わり》

パスカルもそうだったとは、何だか自信が湧いてきそうです。

はて、プレーローマ、充溢とは何でしょう…

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第二章 神の国・地の国」を読みました。

《以下引用》
イエスが言った、「父の国は、荷物を持っていて、一つの真珠を見出した商人のようなものである。この商人は賢い。彼は荷物を売りはらい、自分のためにただ一つの真珠を買った。あなたがたもまた、衣蛾が近寄って食わず、虫が食いつくさぬ所に、朽ちず尽きることない宝を求めなさい」。(『トマスの福音書』76)

…イエスは、いずれわれわれは知識も物も人も全て後に残して一人旅立つことになる。その時われわれにとって本当に私のものと言えるのはわれわれ自身の内側に隠された、「朽ちず尽きることのない宝」だけであると言おうとしているのだ。…そしてイエスも言うように、「自分のために」というところが大切なのだ。宗教というと自分はさておき、他人を優先してと、ちっぽけな愛を振りかざす人がいるが、そうではない。…あなた自身が自らを整えない限り、あなたは何をやろうとも、無意識の内にこの地上に混乱とトラブルを持ち込むことになるからだ。
《引用終わり》

一見すると、イエスは真珠を買うことを薦めているようです。「真珠」とか「大きな富」というのは例えなわけで、われわれが自身の内に秘めた価値あるものを指している筈ですから、金銭的な価値ある物とは対極にある物なのですが、区別がつきにくい表現です。

しかし仏典でも、たとえば『如来蔵経』でも、「金塊」とか「宝蔵」という比喩を使っております。他の比喩というのはなかなか難しいのかもしれません。

《以下引用》
真珠はわれわれ自身の内側にある。…要は外側に向かっていたあなたの関心をあなた自身の内側へと向けさえすればいいのだ。道元はそれを「回光返照(えこうへんしょう)」と言い、「いかんが回光返照せずして、甘んじて宝を懐いて邦(この世)に迷うことをせん」と言った。内に隠された真珠(宝)を知りさえすれば、われわれは内にも外にも拡がる一なる世界(神の国)を知ることになる。この「一なるもの」こそわれわれが辿るべき道なのだ。
《引用終わり》

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第二章 神の国・地の国」を読みました。

ところで、神の国(浄土)はどこにあるのか?地の国(穢土)はどこか?

《以下引用》
六年におよぶ修行の結果、悟りを開いたとされるブッダにとって、この世の見るものすべては美しく、欠けるものは何もない。いわば仏土(浄土)と映っている。しかし、弟子たちの目にはとてもそうは見えていない。むしろ穢土といった方がふさわしいのではないかと弟子の一人であるシャーリプトラが疑問に思っていると、ブッダは、彼の心を察し、太陽や月の光が輝いていても、目の不自由な人にとって闇としか映らないように、この世は仏土であるけれどもそう見えていないのは、あなたがたの咎(罪)であって、誰のせいでもない。この世が仏土と見ることができないのはあなたがたの側に問題があるとして、「舎利弗よ、我が此の土は浄けれども汝見ざるなり」と結んでいる。
《引用終わり》

「耳ある者は聞け」の目バージョンみたいなものですね。

耳があったとしても超音波は聞こえません。超音波が聞こえるコウモリやイルカと人間とでは同じ音を聞いても聞こえ方が違います。

目があったとしても赤外線や紫外線は見えません。紫外線が見える昆虫と人間とでは同じ物を見ても見え方が違います

「六塵ことごとく文字なり(空海)」という言葉があります。五官が感じ取るものは全て文字のように意味を持つけれども、読み取る能力がなければ意味を見逃してしまうということだと私は解釈しています。

チューナーを合わせないと雑音しか聞こえないラジオ、砂の嵐しか見えないテレビ(これはアナログ時代の話ですね)。同じ電波を受信しているのに、周波数が合っている者と合っていない者とでは、聞こえ方も見え方も全く異なる。周波数が合った時、「この世の見るものすべては美しく、欠けるものは何もない」ように見えるわけです。

《以下引用》
彼の弟子たちが彼に言った、「どの日に御国は来るのでしょうか」。イエスは言った、「それは待ち望んでいるうちは来るものではない。『見よ、ここにある』、あるいは『見よ、あそこにある』などとも言えない。そうではなくて、父の国は地上に拡がっている。そして、人々はそれを見ない」。(『トマスの福音書』113)
《引用終わり》

こちらでもブッダとシャーリプトラのやりとりのようなことをしています。真理は同じだということです。悟りとはそういうものでなければおかしい、と私も三年前に思っていて、その後に「龍樹」がニルヴァーナブッダについてそういうことを書いていることを知り、うれしく思ったものです。

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第一章 危ういかな人間」を読みました。

《以下引用》
エバがアダムの中にあったとき、死はなかった。彼女が彼から離れたとき、死が生じた…分離が死の始めとなったのである。(『ピリポの福音書』)

愛憎、幸不幸、悲喜…など、どれを取ってみても男女の性と深く結びついているが、何より性の分裂が死の原因であったとするグノーシスの宗教は、今日われわれが生と死を根本的に問い直す場合に、傾聴すべき重要なヒントを与えてくれるであろう。…

ともあれ、性は命の始まりであり、死は命の終わりである。それゆえ、われわれが命(生命)というものを根本的に問い直そうとする場合(宗教などはそうあるべきなのだが)、当然のことながら二つの方向からのアプローチが考えられる。一つは命の始まりである性を問い直す、もう一つは命の終わりである死とは何かを問う道である。
《引用終わり》

性の分裂は、生物学的には有性生殖の開始に相当するかもしれません。それまでは自分のDNAパターンをそのままコピーして増殖したのに対して、自分とは違う(半分は自分のDNAパターンだけれど)DNAパターンの細胞を分裂させて増殖することになります。

前者の場合は、自分のクローンみたいなのがたくさん存在するわけで、少し死んだとしても他の自分が大多数生き残っていれば一種のアポトーシスのようにみなすこともできそうです。

有性生殖が始まって、異なるDNAパターンで増殖するようになって、「死」というものが大事件になったような気もします。

性とともに死も始まる…宗教的な意味とは違うかもしれませんが、全く非なるものでもなさそうなので、ここで指摘しておきます。

《以下引用》
しかし、われわれの命の始めと終り、つまり性と死を考慮することなく、その間(あわい)をいくら論じても生命の本質は決して明らかにはならないだろう。せいぜい取りたてて考えなくとも、誰もの意見が一致する、一度しかない人生を悔いなく、精一杯生きるという結論に落ち着くことは明らかだ。しかし、宗教は、この未熟な大人たちの子供騙しというか、そんな気休めやまやかしに満足できず、性と死の問題に果敢に挑んだものたちの体験的に引き出した結論に基づいている。そして、いずれ方法論(復活)を扱うところで詳しく取り上げるが、『トマスの福音書』は宗教書としては珍しく、性をどう理解し、またその分裂を如何に解消して一元性の世界に帰っていくかを説いているのだ。
《引用終わり》

何だか理趣経に似てますね。先がますます楽しみになってきました。

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第一章 危ういかな人間」を読みました。

《以下引用》
イエスが言った、「この天は過ぎ去るであろう。そして、その上の天も過ぎ去るであろう。そして、死人たちは生きないであろう。そして生ける者たちは死なないであろう」。(『トマスの福音書』11)…

イエスは人間を死せる者(死人)と生ける者の二つに分けるが、彼が教えようとしていることは、まさに死せる者から生ける者へ、死すべきものから不死なるものへ、如何にして到達するかということだ。…彼はまた、不死なる生を知らず、ただ過ぎ行く肉体に過剰にかかわり続ける死人同様のわれわれ人間を「屍」とも言う。
《引用終わり》

「死人たち」とは、二元性の(幻影の)世界を追いかける人たち(残念ながら我々の殆ど)のことですね。「死せる生」あるいは「生ける死」とはうまい表現(アウグスチヌス『告白』)です。

《以下引用》
イエスが言った、「この世を知った者は、屍を見出した。そして、屍を見出した者に、この世はふさわしくない」。(『トマスの福音書』56)

われわれはこの世に死すべきものとして生まれてくる。が、われわれはそのことを知って生まれてくるのではない。やがてその事実を知ったとしても、自分自身が永遠に「生ける者」であると知らない限り、自分をも含め、この世が屍(死人=死せる者)から成り立っているということが本当には分からない。もし人が自己の真実に目覚め、不死なるものを知ることができたら、この世は死すべき人間(屍)がただ欲望(願望)の赴くまま跋扈しているに過ぎないと明らかに知るだろう。そして、彼は再びこの「死の国」に戻り来ることはないだろう。なぜなら、この世は死すべきもの、過ぎ去るものからなる幻影の世界であり、不死なるものを知った者に「この世はふさわしくない」からだ。
《引用終わり》

お金は、屍が恋焦がれる象徴のようなものかもしれません。「お金なんて、あの世には持っていけないから…」とつぶやく人は多いけど、やはり執着がないわけではない…。

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第一章 危ういかな人間」を読みました。

人々は二元葛藤の世界から離れようとしない。罪とは、そのこと。悪が罪ならば、善も罪。

《以下引用》
イエスが言った、「あなたがた一つであった日に、あなたがたは二つになった。しかし、あなたがたが二つになるときに、あなたがたは何をするであろうか」。(『トマスの福音書』11)

一なる世界(一元性の世界)にあった人間が二なる世界(二元性の世界)に退転し、そこでわれわれ人間は一体何をし、何を求めているかという問に答えるのはそう難しくない。それは二元相対する「表」、すなわち、生、愛、美、善、喜、富…を、ただひたすら追い求めているだけなのだ。そして、それが自分の幸福につながると誰もが考えている。しかし、事の本質からしてそんなことはあり得ない。というのも、表には必ず「裏」、すなわち、死、憎、醜、悪、悲、貧…が、ついて回るところにわれわれの不安、恐れがあり、それが二元葛藤する世界に存在するわれわれ人間の避けられない宿命なのだ。一例を挙げれば、祝福された生(誕生)が厭うべき死によって終るところに二元性の世界の矛盾と限界があるということだ。そして、ナグ・ハマディ文書はわれわれが生息するこの二元性の世界を「幻影の世界」と言い切る。

生きているものたちは死ぬであろう。どうして彼らは幻影の世界の中に生きられようか。富める者たちは貧しくなり、王たちは投げ捨てられてしまった。万物は流転するものなのだ。この世界は幻影である。こう言っても、私はこの世の事物を不当にけなすことにはならないだろう。(『復活に関する教え』)
《引用終わり》

私たちが日々やっていることは、二つにわけて、一方を選び、一方を捨てるという作業、ただひたすらそれをやっているのだということに、なかなか気付かない。それくらい当たり前になっている。

《以下引用》
光と闇、生と死、右のものと左のものは互いに兄弟である。それらが相互に引き離されることは不可能である。だから、善きものも善いわけではなく、悪しきものも悪いわけではなく、生も生ではなく、死も死ではない。(『ピリポの福音書』)
《引用終わり》

二元性の世界では、自分の幸せの裏に必ず誰かの不幸がある。今の幸せの裏に必ず将来の不幸がある。それは、右にばかりハンドルを切り続けていたら、いつか必ず左にハンドルを切らざるを得なくなるのと同じである。

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第一章 危ういかな人間」を読みました。

人々は二元葛藤の世界から離れようとしない。罪とは、そのこと。悪が罪ならば、善も罪。

《以下引用》
人は時に不条理な事件などに巻き込まれると、つい何の罪もないのにどうしてこんな不幸な目に遭わねばならないのかと言う。ここには何も悪いことはしていないのにどうしてという想いが働いているようだ。しかし、考えてみなければならないことは、罪とは悪しき行い(不善)をいうのだろうか、そうではない。悪は罪(堕罪)の結果生じてきたものであり、悪だけではなく善もまたそうなのだ。つまり、堕罪の結果、われわれは善悪、幸不幸など二元葛藤する世界へと退転してきたということだ。従って、罪はもとより何ら価値を伴うものではなく、われわれが「本来の場所」から堕ちてきた事実を指しているに過ぎない。そして、「罪から来る報酬は死です」とパウロも言ったように、生と死もそうなのだ。なぜなら死は生(誕生)なくしてあり得ないからだ。
《引用終わり》

仏教の視点から『瞑想の心理学』でも同様のことが述べられていました。

《以下引用》
…ひとりの人(アダム)によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、死が全人類に拡がったという一連のプロセスは(『ローマ人への手紙』)、決して彼に何かが欠けていたというのではなく、自ら内に懐いた「大いなる富」に目を閉ざし、過ぎ行く「世の富」を求め始めたに過ぎない。

イエスが言った、「アダムは大いなる力と大いなる富から成った。それにもかかわらず、彼はあなたがたにふさわしくならなかった。なぜなら、もし彼がふさわしくなったなら、彼は死を味わうことがなかったであろうから」。(『トマスの福音書』85)
《引用終わり》

「大いなる富」とは真心(心真如)、「世の富」とは妄心(心生滅)と置き換えれば、これは全く仏教と同じに読めそうです。

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第一章 危ういかな人間」を読みました。

老子によれば、上士、中士、下士という区別があるようです。これは、坂本竜馬の時代に土佐藩で見られた武士内部の階級とは当然関係が無いようです。

《以下引用》
上士は道を聞けば、勤めてこれを行う。中士は道を聞けば、存するがごとく、亡するがごとし。下士は道を聞けば、大いにこれを笑う。笑わざれば以て道と為すに足らず。(『老子』)

これまで私が「言わずもがなの繰り言」を書き連ねてきたのは、もちろん「上士」のためではない。…いわんや、嗤って聞く耳を持たない「下士」を相手にしているのではない(そう言えば、イエスは繰り返し「耳あるものは聞け」と言っていた)。…私の繰り言は道(真理)があると聞いても、もう一つしっくりと理解されず、ややもすれば挫けそうになる「中士」に向けられている。
《引用終わり》

密教の「密」も、下士にとっては秘密(言っても通じない)という意味のはずです。

《以下引用》
イエスが言った、「私はこの世の只中に立った。そして、彼らに肉において現れ出た。私は彼らが皆酔いしれているのを見出した。私は彼らの中に一人も渇ける者を見出さなかった。そして、私の魂は人の子らのために苦痛を受けた。なぜなら、彼らは彼らの心の中で盲目であり、見ることがないからである。彼らは空でこの世に来、再び空でこの世から出ようとしているかである。しかし今、彼らは確かに酔いしれている。彼らが彼らの酒を振り切ったときに、そのときに彼らは悔い改めるであろう」。(『トマスの福音書』28)
《引用終わり》

酒池肉林の宴会の如き下士の人生。「酒の席で堅い話はやめろよ」と言って戯言に明け暮れるのが酒宴のルール。酒に酔いしれて、盲目であり続けようとする。

酒はもちろん例えですね。でないと、アル中の話になってしまう。

彼らが見ようとしないものとは…

《つづく》
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