トトガノート

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Tag:禅

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「自己認識への道」(法蔵館)

興味深い記述がたくさんありましたので、後半は細かく区切って引用させていただきました。今回で読了とします。

二つになったわれわれ人間がそのプロセスを逆修して一つに帰っていくこと、それが悟りということになるかと思います。

二つになるということは男と女に限らず、長い短い、黒い白い、高い低い、いろいろな座標軸が考えられます。前に読んだ『中論』の縁起説がこのようなことを話題にしていたと思います。「浄に依存しないと不浄は存在しない」というような論理展開で、一つの座標軸上で相対立していることが縁起だというようなこと。

つまり、無数にこのような座標軸は考えられるのでありまして、私たちは無数の「一つ」を「二つ」にして存在していることになります。性という座標軸は、少なくとも『中論』の中では one of them として扱われているようです。これに慣れ親しんだ形で今まで仏教を考えてきましたので、性という座標軸を殊更取り立てることに若干戸惑いはあります。

ただ、確かに性の違いのもとに人間(の肉体的部分)は生まれるわけですから、男−女の座標軸が最も大きな根本的なものと考えることは何ら不自然ではありません。

《以下引用》
しかし幸いにも、男と女を一つにし、性を超えることができたら生死はもちろん、善悪、愛憎、美醜、因果……すべての二元性を超えて一元性の世界へと帰って行く。なぜなら、性こそあらゆる二元性の根源であるから、性を超える時、人はすべての二元葛藤から自由になるのだ。つまり、「二つのものを一つにする」時、われわれはそこから流出してきた本来の場所、すなわち幸・不幸をも超えた至福の源泉(プレーローマ)へと帰りゆくのだ。
《引用終わり》

ユングの『賢者の薔薇園』の第十図〈新生〉もこのことを意味しているという指摘も、興味深いのでメモっておきます。

劉一明の「凡夫の道」と「仙仏の道」の話も興味深いのですが、この次に読もうとしています『神秘主義の人間学』で取り上げることにしたいと思います。

以前書きました夫婦という立体感というのを思い出しまして、読み直してみました。

いろいろな二元性の座標軸が混在するこの世界は、立体的な世界と見做すことができます。それを感じ取るには、目が二つあるように、耳が二つあるように、少し距離を置いた二点間で観測することが必要です。

夫婦とは男−女の座標軸上で「少し距離を置いた二点」と言えます。二元性の世界を、二元性を保ちながら(凡夫のまま)生きる上では理想的な形態のひとつなのかもしれません。

《最初から読む》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。

「性」の別は、単に自分が持っていないものに対する求心力以上の意味があります。それは「死」が関わってくることです。

《以下引用》
さらに性の分裂は、決して看過することを許さないもっと重要な意味を含んでいた。それは性が人間に死の運命を与えたことである。男女両性具有の完全な人間が二つの性に分裂した結果、それに続くすべての人間が死の支配下に置かれることになるなどと誰が一体予想し得たであろうか。禁断の木の誡めに遵って人間は性に目覚めるべきでなかったのかも知れない。しかし、人間はこの最も哀切な営みから生まれ出たものであり、人間はそこで悩み、挫折しようとも常に喜びと信頼をこの性の中に求めてきたが、その性が人間に死の運命を担わせることの矛盾、どうしても避けることのできない死が何を結果するかを人は知らなくとも、人間に死の運命を与えたものが性(の分裂)であったということは明確に心に留めておかねばならない。性は人間の生命の根源であるとともに、また死の根源でもあるのだ。

イエスのアポクリュフォンはこの分裂の中に死んだ男と女を再び統合し、性の分離を解消することによって、もはや死を味わうことのない永遠のいのちへとわれわれを連れ戻そうとしていることなど人は知る由もない。ここで人は「死者の復活」が性の分裂とその統合に重ね合わせられていることにはっきりと気づくべきである。

あなたが、二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、あなたがたが男と女を一つにして、男を男でないように、女を女でないようにするならば、……そのときあなたがたは神の国に入るであろう。(『トマスの福音書』22)
《引用終わり》

以前にも同様のことを書きましたが、球体だった受精卵がしだいに身体の形をなしていく過程で、全く同じDNAを持った夥しい数の「自分」がアポトーシスしていくわけです。しかし、それは輝かしい成長であって、「死」だとは誰も捉えません。

有性生殖は自分の子孫のDNAパターンのバリエーションを増やして、環境への適応を図る営みでもあります。環境に適応できない子孫が死滅することで、そのDNAパターンを抹消し、適応できるパターンだけが残存することに寄与する…これも「種」を守るためのアポトーシスのようにも見えます。

このような生物学的な「死」、アポトーシス。肉体的な「死」にもいろいろあるようです。

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。

ついに、性に関する記述です

《以下引用》
愛とは、かつて成立していた男女両性具有への追憶と憧憬である。人間は性愛の中に、かつての本来的な在り方を無意識のうちに(これを本能と言い換えてもよい)志向しているのである。どんな人間も止み難い異性への憧憬と性愛を通して満たされたいという止むにやまれぬ衝動に駆られてゆくのも深い形而上的理由があるのだ。しかし、一方で性の分裂が人間の歴史に計り知れない暗い影を落としてきたことも事実である。人間は情欲に燃え、満たされぬ苦悩を募らせつつ、性のエネルギーは人間の意識下に鬱々とそのはけ口を求めて彷徨う。いずれにせよ、人間の愛の中に流れているどんな感情をとってみても、その一つ一つが深く形而上的な悲劇の投影、あるいは反復をなしているのである。
《引用終わり》

もともと一つであったものが二つに分けられているために、再び一つという本来的な状態に戻ろうとする…それが愛。

電気の+と−、磁気のNとSのようです。自分に無いものを持つ人に対して抱く、尊敬、憧憬、羨望、嫉妬…これらの感情も、再び一つという本来的な状態に戻ろうとする求心力が発端となるのでしょうが、自他の別が頑として存在しているために、そのレベルに留まってしまっているということなのでしょう。

男女の分離とは、生物学的に言えば有性生殖の開始のことであろう、という指摘は、以前書いております。「性」の別は、単に自分が持っていないものに対する求心力以上の意味があります。それは「死」が関わってくることです。

それについては、次回のお楽しみ…

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。

さらに、復活が先か死が先か、というのが問題になるらしい。

《以下引用》
主は初めに甦り、それから死んだのである。 『ピリポの福音書』
《引用終わり》

通常は死ななければ甦ることはできないはずですが、宗教的には、甦るのが先でそれから死ななければならない。

この順番の場合、キリスト教で言う「復活(甦ること)」は仏教で言う「悟り」と同義語のようです。生きているうちに甦れば(悟れば)、本源へと還ることができます。

順番が逆の場合(通常、多くの場合はこちらの道を辿るけれども)、死んでしまうと中間世界(バルドとかバズラフとか呼ばれる場所)に行ってしまいます。その後の復活は、再びこの二元性の世界に生まれ堕ちることを意味します。

私たちは生きているうちに、甦らなければいけない…

《以下引用》
さて私は熱がひどくなり、いまにも死にそうでした。もしそのときこの世から去ったならば、私はどこへいったことでしょうか。あなたの真実の秩序のもとに、自分の行いにふさわしい地獄の火と責め苦のもとに行くよりほかなかったでしょう。……しかしあなたは、このような状態のまま私が二重の死をとげることを、お許しにならなかった。実際、母がどれほど私のことを心配していたか、私を霊において産むために、肉において産んだときよりもどんなに大きな気遣いをしていたか、私はとうてい言いあらわすことができません。(アウグスチヌス『告白』)
《引用終わり》

悟らないうちには死ねない…これが生きる意味であり、命を大切にしなければいけない宗教上の理由ということになるでしょうか。

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。

《以下引用》
血肉で蒔かれたわれわれ人間には死が避けられない。ところが、イエスのアポクリュフォンの一つは死すべきものから不安なるものへと人間を連れ戻し、再び死を味わうことがないように用意を整えることであった。すると、そもそも土で造られた肉体という形をとって存在すること自体に問題が在りはしないかということだ。そう、われわれは何よりもこの患いの本である肉体(老子の言葉)、あるいは空海が「六道の苦身」と呼んだものから開放されなければならないのだ。
《引用終わり》

解剖学的に人体が矛盾だらけであることを考えると、これが全知全能の手による被造物としては余りにお粗末です。「土で造られた肉体」は泥船のようでもあり、そう「いう形をとって存在すること自体に問題が在りはしないか」という指摘は当然のように思います。

《以下引用》
しかし、肉体から開放されるためには、心という要素から解き放たれねばならないと気づいている人は少ないようだ(「生死を離るゝをいうなり」『一遍上人語録』)。というのも、生と死という、一見肉体にかかわるように見える出来事も、実は、心に深く根ざしたものなのだ。心と肉体の関係を大変分かり易く言ったものとして、リチャード・バックの「我々の肉体は思考そのものであって、それ以外の何ものでもない」(『かもめのジョナサン』)を例に説明してみよう。ここでは思考となっているが、心と理解しても大過はない。肉体は思考(心)そのものであるという彼の洞察は、仏教的に言えば、「生死(肉体)はただ心より起こる」(『華厳経』)ということになるだろう。ともあれ、肉体から開放されるためには思考、つまり心の鎖を断たねばならないのだ。彼が続いて「それ(肉体)は目に見える形をとった君たちの思考そのものに過ぎない。思考の鎖を断つのだ。そうすれば肉体の鎖も断つことになる」と言うのもそのためだ。肉体は思考(心)を離れて存在しないから、思考の鎖を断つことが肉体の鎖も断つことにもなる。われわれを構成している肉体と心(思考)の要素から自由にならない限り(仏教はこの二つの要素を本来一つのものと考え「身心一如」と言う)、われわれは本当の意味で自由に天翔ることはできないのだ。
《引用終わり》

思考は、前出の3つの身体(霊的、心的、物質的)の心的に属します。悟ったときに残るのは霊的身体でしょうから、「悟り」ということで大別すれば霊的と心的・物質的の二つに分かれます。ゆえに「身心一如」。

科学的に見ても、思考とは脳神経の活動と言えるので、思考と肉体を一つに扱うのは変ではありません。また、思考は、随意運動はもちろんのこと、ホルモンの分泌や自律神経にも大きな影響がありますから、「肉体は思考から離れて存在しない」というのも変ではありません。

もっとも、ここでは唯心論的な意味合いを含んでいるんだと思いますが…。

「思考の鎖を断つ」とは、「止」のことでしょう。

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。

『チベット死者の書』ではバルドと呼ばれた中間世界ですが、イスラーム神秘主義ではバズラフというそうです。

《以下引用》
スーフィズム(イスラーム神秘主義)はこの物質の世界(二元性の世界)と真理の世界(一元性の世界)の中間に位置する心(魂)の世界をバズラフ(barzakh)と呼ぶ。また、復活にも小復活と大復活の二つがあると言う。小復活は今生において真理に目覚めることができなかった者が中間世界(バズラフ)に入ることであり、その世界は大きく分けて天国と地獄の二つに分かれるが、すべては生前の行為に相応しい姿をとって転々と彷徨うイマージュの世界であり、モッラー・サドラーはそのような心(魂)が彷徨うことをタナースフ(tanasukh)と呼ぶ。一方、大復活とは今生で真理に目覚めた者がこの世の源である本源の世界(存在一性の世界)へと帰り行くことであり、今生においてスーフィー的死、すなわち「死ぬ前に死ぬ」ことができた者とそうでない者の違いなのだ。
《引用終わり》

仏教もキリスト教もイスラーム教も、それぞれいろいろな考え方を含んでいるのでしょうが、死後の世界に関して殆ど同じ考え方をしている人たちがそれぞれの宗教の中にいるというのは面白いことです。

例えば、パリに行って来たという人たちが、街の風景について殆ど同じことを言うとしたら、自分が一度もパリの街を見たことが無いとしても、それを信じるのが普通だろう…という考え方があります。

少なくともバカバカしいと言って、一顧だにしないのは間違いでしょう。

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。

『チベット死者の書』では、中間世界をバルド(中有)と呼ぶそうです。中間は死から次に再生するまでの四十九日間を言います。今生で真理(法)を覚れば、究極の身体(法身)を得て、バルドを彷徨うこともなく、本源の世界(法界)へと帰り、二度とこの世には戻らない。しかし、多くの人の場合は、辿り着いた世界(バルド)は自らのカルマに随って次々と起こるさまざまな幻影に惑うイマージュの世界…

《以下引用》
このように『チベット死者の書』における中間世界(バルド)は文字通り死と次に生まれるまでの間に位置する幻影の世界であり、多くの者たちがこの道(チョエニ・バルド)で彷徨うことになるから、まさに死の瞬間(チカエ・バルド)から次の再生(シパ・バルド)に至るまでの間、死者(の魂)を教え導くことを目的に編まれた経典である。しかし、殆どの人は中間世界でも覚ることはできず、男女の交愛の幻影に惑わされ、再び子宮の中へと入る。…かくして、われわれは生と死からなる物質世界を再び捉え、土からなる血肉のからだを纏って、また一から営々と生業に勤しむ。
《引用終わり》

以前、私は不思議な方々に率先してお会いしていた時期がありましたので、臨死体験の経験者(自称)にもお会いしました。「自らのカルマに随って次々と起こるさまざまな幻影に惑うイマージュの世界」は、自分が他人に対してしたことを他人の立場で体験するので、酷いことをしてきた人にとっては正に地獄だという話でした。

それは、本当なのか、幻覚なのか…当時『チベット死者の書』はNHKでも取り上げてスペシャルを組んだり本を出版したりしていましたので、それを夢中になって読んだ結果なのか…

ともかく、チベットでも中間世界(バルド)という考え方があるということですね。

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。

グノーシスの宗教では、人間が存在する場所として、この世、中間、復活の三態が考えられているそうです。

《以下引用》
…復活には二つあることになる。一つは永遠のいのち(霊のからだ)に蘇り、本源の世界(プレーローマ)へと繋がる「第一の復活」であり、キリスト教(だけではないが)が勧めている真の意味における復活である。もう一つは、死はすべての終りと高を括っている愚か者も含め、死しても本源の世界(永遠の故郷)へと辿り着くことができず、無知ゆえに、真に悪しきものから「中間の場所」へと入って行く「第二の復活」である。
《引用終わり》

「復活」は解脱、「中間」は輪廻を繰り返している状態、と置き換えれば、インド哲学と同じになるかもしれません。

さらに、血肉のからだ(肉体)を脱ぎ捨てても、復活を成し遂げずに(つまり霊のからだを得ずに)中間世界を彷徨っているからだを考える必要があると指摘しています。

《以下引用》
人間はその本質において、霊的、心的、物質的の三種類に分かれて、存在するようになった。(『三部の教え』)

…現在のわれわれが知っているのは一番外側にあって物質からなる身体の次元である。その内側に心(魂)からなる身体(次元)がある。生と死、闇と光、神と悪魔、あらゆる二元対立はその中にあり、天国と地獄もその心に属している。肉体を脱ぎ捨てて「中間の場所」を彷徨う者はこの心からなる身体を纏っているのだ。そして、さらなる内側に究極の次元である霊からなる身体がある。それはもちろん、真理の身体(真なる肉)と呼んだものであり、完全に満たされたプレーローマの次元なのだ。その真理の身体はイエスの場合と同様、われわれが本来そうであったところの身体であり、真の復活を通してわれわれが再び回復することのできる身体と言ってもいいし、また世界(次元)と言ってもよい。そして、前の二つはいずれもこの真理の身体の模像であり、それらは真理の影、つまり幻影の世界をなしているのだ。
《引用終わり》

緻密な論理を積み上げた結果、霊とか魂に到達しました。

昔、オーラカメラをいじっていた頃、オーラの本も読みました。その時は、七つくらい自分の身体があって、重なっているというような考え方だったと思います。

でも、3つくらいで充分だと思います…

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。

《以下引用》
自己認識が神認識である(キルケゴール、そしてスーフィズムの思想家イブン・アラビーなどが好んで引用する「自己を知るものは主(神)を知る」というハディースを踏まえた成句)とは、自分自身を知るというのではなく、あなたが無の中に消え去り、神と一つになることによって、自分が神以外の何ものでもなかったと知ることなのだ。…

自己認識への道をわれわれが辿るとき、その行き着いた結論が「自己自身を見出す者に、この世はふさわしくない」というのであれば、宗教がこの世に適応するためにあるのでないことだけは明らかである(私は宗教を自己認識に至る方法論を説くものと考えているから)。自己を認識するに至った完全な人間はもはやこの世には属していないだけではなく、生と死からなる幻影の世界を超えた永遠のいのち(まことのいのち)に到達している。
《引用終わり》

仏教を御葬式の作法としか捉えていない人にとっては、仏とは死んだ人のことでしかないでしょうから、「死んで仏になる」という言葉に何も違和感は感じないでしょう。私も仏教の勉強をするまではそうでした。

その場合、「即身成仏」という言葉がやはり引っかかります。死なないで仏になるというのは言語矛盾でしかないからです。

確かに、ちゃんとした仏教の中でも「即身成仏」に関する議論は続いているんでしょうけど、仏(真の覚者)になど何回生まれ変わってもなかなか成れるものではないという考えから、今生で仏になろうなんていうのはどうだろう?というのが論点なのだと思います。

ところで、「死」の意味が「大死」だとすれば、「死んで仏になる」というのはこれまた全く当たり前な意味でしかありません。

妄念の塊である仮我が死ぬということは、即ち悟りを開くということ(上の引用文で言えば「無の中に消え去」ること)。仏(ブッダ)になることにほかなりません。肉体的な死を意味するわけではないので、「即身成仏」という言葉にも特に引っかかるところはありません。

「死んで仏になる」という表現が、仏教を単なるお葬式の作法に誤解せしめているとしたら、とっても残念なことです。

《つづく》
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「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。

《以下引用》
彼が言った、「主よ、泉のまわりには多くの人々がおりますが、泉の中には誰もおりません」。(『トマスの福音書』74)

生の源泉(本源)であるプレーローマの周りで人々は自らの個(自我)を保ちながら、多事に明け暮れ、あれこれと頭を突っ込んでは、しばらくは我を忘れて興じる。しかし、その中には誰もおりません、とイエスは言う。…それはただ単に、生の源泉に帰ろうとする人は多くないというだけではなく、その深遠を覗き込むことは、われわれの死(自我の死)を意味しているから、人は無意識の内にそこに帰ることを避けているというのが一つであり、実際、この始めが終りとなるプレーローマへと死のダイブをし、自己が消え去ることを許す勇気ある人しかそこに辿り着くことはできないから、当然の事ながら、そこには誰もおりませんということになる。
《引用終わり》

悟ろうと思えば、なお悟りは遠ざかる…悟りのパラドクス

成就しないことでその純粋が完結する純愛のジレンマにも似ています。

自己を失うことで実現する無自己実現

この失うべき自己(仮我)の消失を、禅では「大死」と呼んでいました

キリスト教でも同様の表現があるということですね。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、いのちを失う者はそれを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。(『マタイの福音書』)

「ほんの一瞬でも、完全に自らを捨て去る人には、すべてが与えられるであろう」(エックハルト)

一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます…自分の命を愛するものはそれを失い、この世でその命を憎むものはそれを保って永遠のいのちに至るのです。(『ヨハネの福音書』)

等々…

《つづく》
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