トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:生物学

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悟りへの道 に参加中!
90歳のあるお婆ちゃんなのですが、木製のシンプルなベッドを愛用しています。比較的元気なので介護用のデラックスなベッドは要らないけれども、ベッドじゃないと夜中にトイレに行くときに起き上がれないとのこと。

しかも、この起き上がれるベッドの高さがとても微妙らしい。高さが足りなくて、漫画の雑誌を3冊ほどずつベッドの足の下に積んで調整しています。これ以上高くても駄目だし、これより低くても駄目。

こういった微調整は、漫画の雑誌なんか使わなくてもできる製品も多いと思います。そして、しっくり来なければ返品・交換。そんな消費生活に最近は慣れてきているので、このお婆ちゃんの微調整はとても新鮮な感じがしました。

100円ショップで買える物を微調整して組み合わせて、自分にピッタリ合った自分だけの物を作るという動きも、一方であるようです。テレビで紹介されたりしています。職人だな…と思います。

こういうのが職人の出発点なんだろうな…と思ったりします。

職人気質と言えば、気難しくて、黙々と物を作り続けるイメージです。気に入れないとぶん投げて叩き壊してしまったり、周囲に当たり散らしたり…。「思いやり」とは程遠いイメージ。

けれども、テレビに出てくるニコニコで元気で好奇心いっぱいの主婦でも職人になることはある…。

「思いやり」としての科学で調べた、物の性格をもとに、微調整して、組み合わせていく。うまくいかなかったら、「ダメだったわ。」と言ってゲラゲラ笑うような、そんな職人。

従来と全く違う職人気質も有り得るような気がします。

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悟りへの道 に参加中!
「科学とは冷たいもの」という印象が、私の中にはありました。科学は客観性とか再現性を重視します。

「これって、こう思うよね?」とか、友達に同意を求められても、「そうかな?そうでない場合も、ひょっとするとあるんじゃないかな?」的な対応をすることが多々ありました。それが客観性ということ。

更に極端な例を挙げれば、事故が起こりそうな状況を何度も作り、起こりそうになっても防ごうとせず、百回のうち何回大事故になるかを冷静にカウントする。それが再現性を重視するということ。

理学部に通う人間にはそんな「さだめ」があると思っていました。だから友達が少なかったんだと、最近反省しています。

先日のドラッカーの話で、ずっと前に書いた「さん」づけの科学を思い出しました。

虫さん、鳥さん、魚さん生活を調べる生物学。水さん、鉄さん、炭素さん、アルコールさん、水酸化ナトリウムさんの性質(仲がいいとか喧嘩するとか)を調べる化学。原子さん、陽子さん、電子さんの性質を調べる物理学。

原子さんという名字、陽子さんという名前は実際にありますね…。

「○○さんて、どんな人?」「緊張するとどうなる人?」「お酒飲むとどうなるの?」「若い時はどうでした?」「何が好き?」「嫌いなものは?」等々、人間に対して抱くような好奇心。

科学する心は、実はこの好奇心に通じるものなんじゃないだろうか?

もう少し早くこれに気づいていれば、友達がもっと多かったかもしれない…。

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爆笑問題 に参加中!
NHK「爆笑問題のニッポンの教養#96」(12月15日放送分)を見ました。生物学の中垣俊之先生でした。粘菌の研究をされている方です。

とにかく驚いたのは、あの粘菌という奇妙な生き物、単細胞生物だったんですね。しかも、結構いろんなことを考えているらしい。

一時間ごとにある刺激を与えると、その周期性を憶えて、予測するらしい。迷路も最短経路を割り出すことができる。

意識と言うほどのものは無いんでしょうけど、無いと断定もできない。今のところ私たちは、脳の中でのシナプス結合を基にした活動が思考とか意識につながっていると考えています。でも、細胞ひとつだけでも結構なことができるとすると、果たして本当にそうなんでしょうか?と考えてしまいます。

私たちの体の細胞ひとつひとつも何かそれぞれ考えているんだろうか?「私」というのは個々の細胞の集合意識なのだろうか?それとも神経細胞たちの共同作業としての「私」と、個々の細胞の中の「私」は別個に存在するのだろうか?

単細胞生物だった頃にお互いが相談しあって、「私たち大勢が集まって共同生活しませんか?」ということになり、多細胞生物になったのかもしれません。人間一人を構成する細胞たちの数は、地球上の全人口よりもずっと多いはずで、大変複雑な社会が構築・運営されていることになります。

「私」は、その上にいつの間にか宿り、乗っかっている存在。沈黙する細胞たちの意に反した生活をすると病気になるのかもしれません。

こんな大きな社会の上に、それを前提として生きている私たちは、少なくとも社会性を指向するのが当然と言えるかもしれません。反社会的思想・行動をする者は、その体を構成する細胞たちもバラバラになって、粘菌生活(単細胞生物としての生活)をおくるべきなのです。

多細胞生物は社会(ポリス?)的動物である…

《つづく》
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哲学 に参加中!
「犀の角たち」(大蔵出版)
最後まで読み終えまして、自分なりの「第5章」を書いてきました。

視点の人間化が進むとどうなるんでしょうか?さらに個別の人間の視点に下降(堕落)していくのかもしれません。人間一般(平均的な人間)の視点から個々人の視点への、さらなる分散化です。

量子力学では山田博士と斎藤博士の実験結果が違ってくるという現象(個人差)が起きました。生物学はDNAレベルまで解析できるようになって、個人別の医療(テーラーメイド医療)の可能性が広がってきました。

「科学は人間の視点から見た一つの見解」というポアンカレの指摘は、個々人の視点でそれぞれ違った科学ができる可能性をも示唆しているように思います。脳科学により個々人のシナプス結合の相違が解析されれば、個人別に「私」の数学体系、「私」の論理学体系ができてくるかもしれない。

さて、宗教はどうでしょうか?宗教の人間化も個別対応ということになるのではないでしょうか?大乗仏教は様々な人に個別に対応したがゆえに多様化したのではないでしょうか?そう考えると、大乗こそ最も視点の人間化の進んだ宗教のように思えてならないのです。(世界中のすべての宗教を知ってるわけではないですけどね…)

教義を変えないことが宗教として最も重要なことなのでしょうか?教義を変えないということは、唯一絶対の教義に人間を歩み寄らせてきた宗教ということであり、結局は神の視点から抜け出せない宗教ということではないでしょうか?

唯一絶対の教義を強要されれば、そこに新たな苦しみが生じます。結果として、その教義に歩み寄れない人間を救うことはできません。

人間に合わせて教義を付加したり変容させていく宗教が、人間化の進んだ宗教と言えるのではないでしょうか?

仏教はあらゆる思想やアイデアを含むということなので一見不統一のようでもありますが、理論的に整合性が取れるように先人たちが腐心したと思われる箇所に気づくことも多く、全体としてはうまくまとまっているんじゃないかと思います。(正確には全体をまだ見渡せていないので、そう期待して仏典をこれからひとつひとつ読んでいこうと思っています。)

そんな仏教の姿が、進化の名残を体の器官のいたるところに残しながら高等生物として生きている人間とダブってしまいます。

生物進化に照らし合わせて多様化を見てみますと、教義を変更しない宗教とは大腸菌のような自己コピーで増殖する生物、つまり有性生殖をしない生物に似ています。自分のDNAが変化することを許さない生き方です。一方、アショカ王時代の破僧の再定義は多様化が進むという点で、有性生殖をする生物の登場に似ています。

生物の歴史において、多様化は種族の存続に大きく寄与します。同じ種族の中に寒さに強い個体、暑さに強い個体、体の大きな個体、体の小さな個体など様々な個体が登場することによって、生息する地域を広げることもできるし、環境の激変に対応することもできるからです。

多様性を持つことで、仏教も宗教としての大きな生命力と可能性を得たと思います。そのおかげで、約2500年も昔に遠いインドの国に生まれたある一人の人間の考えが、多くの人に受け入れられ、伝わり、広がり、山を越え川を越え谷を越え砂漠を越えアジアに広がり、海を越え日本に伝わった。日本の中でも独自の発展を遂げ、実績を上げて、現代の我々がそれに触れることができる。

まさに「百千万劫にも遭い遇うこと難し」と言われる奇跡を生んだ。

※ ※ ※

著者がラブレターとしたこの本。私も夢中になっていろいろと考えてしまいました。こういう情熱はいつまでも持ち続けたいと思います。

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