先日の地震で安全のために新幹線が停止しましたが、車内に備え付けのトイレットペーパーが無くなっていた!と乗客の一人がインタビューで話していました。「これからJRがどんな対応を取ってくれるのか・・・」と大変怒っていたのですが、我がままな人の八つ当たりにしか見えませんでした。JRにしてみれば乗客の安全を最優先にしたわけです。いつ起こるかもわからない地震のためにトイレットペーパーを大量に新幹線に積んでおけ!と言うのであれば、その前に自分がそういう緊急事態を想定してティッシュペーパーを多めに持参しておくべきではないでしょうか?ただ、この人も突発の事態でちょっとキレただけでしょうから、この人の名誉のためにも何度も全国放送するようなことは放送局が差し控えるべきではないか?とも思いました。

 「現代はストレス社会である」という言葉はよく耳にします。では、昔の人はストレスを感じなかったのでしょうか?「昔の人はのん気だったから感じなかった」という説明には、ちょっと首を傾げてしまいます。車も電話も無かった時代、ガスも電気も無かった時代、治水などの天変地異に対する対策が整っていなかった時代、人々が直面した苦難と悲しみは現代の比では無かったはずです。そもそも文明とは、そういった苦難を無くす努力の積み重ねと言えます。文明が進んだ現代をストレス社会と呼ぶのは、おかしいように思います。

 現代人は、大きなストレスを生じるような事態が少なくなってしまったために、小さなストレスにも過敏に反応しているようです。いろんなことに目くじらを立ててストレスを心の中に躍起になって発生させ、その原因を他人に責任転嫁して周りにあたりちらしている・・・そして、ストレスは他の人にも伝染していく・・・。自分の行動を反省しましても、我がままと八つ当たりを繰り返す毎日なのです。

 地球を痛めつけて多大のエネルギーを費やして、至れり尽くせりの文明社会を創り上げるのも、そろそろ限界です。それに、いくら便利になっても私たちは満足しませんから、きりがありません。持続可能な社会を実現するためには、電気のスイッチをこまめに消すことも必要ですが、自分の心の中にストレスの炎を灯さないようにすることも必要です。それには、仏教がとても実用的だと思います。人生の全てをストレスの素と捉え、こだわりを捨てて、まずは一度全てを諦めてしまうこと。そして、全てを有り難いと思える境地を目指していく。それが修行なのだそうです。我慢することが修行なのではなくて、我慢しなくてもよい自分にシフトしていくために修行するのです。(作家の玄侑宗久さんが講演でおっしゃっていました)。滝に打たれたりしなくても、私の祖父母の世代はそういうことを心がけていたように思います。

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