トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:比丘

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「釈尊の生涯」(春秋社)
「23.仏の入滅」を読みました。

《以下引用》
…遺教の一つとして、自分の亡き後には、お前たちは自己自身を所依とし、他人を所依としてはならない、仏教の正しい教法を所依として、その他のものを所依としてはならない、といわれた。それは曇りなき正しい自己の理性と、普遍妥当性のある真理としての仏教の教法とが、最後のよりどころであるということを示されたものである。正しい理性と真理とを標準としてゆきさえすれば、誤ることはないからである。
《引用終わり》

これを「自帰依、法帰依」と言うようです。大乗では「仏・法・僧の三宝に帰依せよ」(三帰)ということになっています。

「仏」は釈尊を始めとする諸仏のことでしょうが、釈尊の入滅以前には存在しなかったと思われます。

「法」はそのまんまですね。

「僧」は自帰依とほぼ同義かと思われます。釈尊が「お前たち」と呼んでいるのは比丘たちを指しています。比丘と大乗仏教の僧侶とはイコールではありませんが、ほぼイコールと解釈できます。

あとは、北枕についてノートしておきます。
《以下引用》
…釈尊は北枕にして横臥され、その姿で入滅されたとあるが、これは北方が高く南方が低いヒマラヤ山麓地方では、野外であるかぎり、高い北方を枕にする方が自然であるから、北枕で寝るということは、仏の入滅時に限ったことではなく、この地方の一般の習慣と見てよいであろう。したがって北枕が死人のみに用いられるもので、縁起が悪いというようなことも当たらないことになる。
《引用終わり》

考えてみたら、我が家は毎日北枕で寝ておりました!気にしないでこれからも続行します。

《最初から読む》


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「釈尊の生涯」(春秋社)
「22.最後の遊歴」を読みました。

自分の死期が近いことを知った釈尊(悪魔との約束で、三ヶ月後の入滅を宣言してしまったということになっているらしいのですが…今なら医者による告知ですかね…)は、比丘のために四大教法を説きます。

《以下引用》
1.ある比丘が、「自分はこの教えを直接に釈尊から聞いたのであるから、これこそ仏教の正しい教法であり、戒律であり、正しく師の教えである。」と主張した場合に、これをそのままに肯定したり否定したりすべきではない。まずその説をば経と律とに照合して、それが正しい経と律に合致しないときは仏説でなく、かの比丘は仏説を誤り伝えたのであると判定すべきである。もしそれが経と律に合致すれば、まさしく仏説であって、かの比丘はこれを善く伝えたのであると判定すべきである。

2.ある比丘が、「自分は多くの博学な長老耆宿を含んだ教団からこの教えを聞いたのであるから、これはまさしく仏説と見なされるべきである。」と主張したとしても、これをそのまま肯定することも否定することもせずして、第一の場合のように、経と律とに照らして、適宜に判定すべきである。

3.ある比丘が、「自分は多くの博学な長老耆宿からこの教えを聞いたのであるから、これはまさしく仏説に相違ない。」と主張したとしても、これをそのままに肯定も否定もせずして、第一の場合のように、経と律とに照らして、適宜に判定すべきである。

4.ある比丘が、「自分は一人の博学な長老耆宿から、この教えを聞いたのであるから、これはまさしく仏説である。」と主張したとしても、これを無条件に信頼せず、第一の場合のように、経と律とに照らして、もしそれが経や律に合致しないとすれば、仏説とは見なされないのであり、合致する時のみ正しい仏説と判定すべきである。
《引用終わり》

これに関して著者は、「釈尊の立場が、独断や妄信をを全く許さず、あくまでも合理的であり批判的であった」と評しています。

「経と律とに照らして適宜に判定すべし」ということですから、解釈にかなり幅が出てきそうな気がします。解釈のしようによっては仏説、別の解釈からすれば非仏説ということがありそうです。というか、現に多くの大論争があったようです。

でも、この「幅」が仏教自体に幅を持たせ、適宜な判定のための議論を活発化させ、大乗へと発展していったのかもしれません。そういう意味では絶妙な基準かも…。

《つづく》
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「釈尊の生涯」(春秋社)
「19.比丘尼教団の成立と長老尼たち」を読みました。

叔母(養母)マハーパジャーパティーが八敬重法の遵守を誓い、随従の釈迦族女たちと共に出家を許され、比丘尼教団が成立します。

悩む女性たちの話がいろいろ紹介されておりますが、面白い(というのは不謹慎か…)と思ったのはキサーゴータミーの話です。

《以下引用》
…キサーゴータミーはサーワッティの貧者の娘であり、やせていたのでキサー(やせた)と呼ばれた。彼女は年ごろになって、ある家にとつぎ、そこでも貧しい家の娘であるとて軽蔑されたが、男の子を生むと、敬意をはらわれるようになった。しかしこの子はかわいい盛りのころに、突然に死んでしまった。彼女は死児を抱いて、「この子に薬をください。」と家ごとに乞い歩いた。人人は、「死者の薬はどこにも見たことがない。」と手を打って笑ったが、それにもいっこうに気づかずに、歩き続けた。…釈尊は、「ゴータミーよ、よくぞ来た。薬を求めるために、町の端から始めて、家ごとに回り、死者を出したことのない家から、白芥子をもらって来るがよい。」と。彼女は満足して町に入り、芥子を乞い歩くけれども、死人がなかった家は一軒もない。そこで世の中は無常であること、生まれた者は必ず死ぬべきであること、を自然に会得し、無常観を懐いて墓場にわが子を葬り、釈尊のもとにもどると、仏は、「ゴータミーよ、芥子は得られたか。」「もう芥子の件は済みました。私に安心立命を与えてください。」そこで仏は説法をなし、…
《引用終わり》

かくして、彼女も比丘尼教団に入ることになります。釈尊はおそらく超能力のようなものを持っていたとは思いますが、この逸話では何も特殊なことはしていません。つまり、真似をする気なら誰でもできます。

死んだ子を生き返らせたわけでもないし、魔法の薬を渡したわけでもない…何も解決してはいないのです。

少しだけ違う方向を向かせただけで、彼女は自然に自分の間違いに気付き、袋小路から抜け出すことができました。

老病死という避けられない問題に対して、それを魔法を使って解決するのではなく、発想を変えることで苦しみを軽減するという手法。仏教の基本形がここにあるような気がします。

《つづく》



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「釈尊の生涯」(春秋社)
「17.祗園精舎の建立とコーサラへの仏教の進出」を読みました。

《以下引用》
ラージャガハで釈尊に会って、その説法に感激した給孤独長者は、自分の故郷コーサラにも釈尊の来遊を仰ぎ、その教化を懇願した。しかし仏教教団には千人二千人という多くの比丘たちがあるので、彼らの衣食住の問題が解決されなければならない。釈尊を招待しても、教団の居住する場所が必要であり、また彼らに托鉢の不安があってもいけない。
《引用終わり》

当時のインドでは、このような形で招請されたりしたようですね。現代であれば、釈尊も違った方法で活動しただろうことが分かります。仏教もまた、その時節に合った形があるということだと思います。

《以下引用》
…サーリプッタの監督の下に、仏教教団第一の精舎が建立された。建物としては、香室(仏の居室)、控室、寮舎(僧房)、門屋、物置小屋、火屋、温室、台所、便所、経行堂、病室などが備わっていたとされるが、しかし雨期以外には比丘たちは、普通は樹下石上などの野外で過ごすことも少なくなかった。
《引用終わり》

平家物語の一節からとても小さな建物を想像していたのですが、全然違っていたようです。

《つづく》
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「釈尊の生涯」(春秋社)
「16.故郷釈迦国の訪問」を読みました。

釈尊がさとりを開いて大教団を率いていることは故郷の父王にも伝わり、故郷に帰って説法をすることを願う王の使者が何度か使わされました。ところが、みんな釈迦の説法を聞いてそのまま出家してしまい、戻らなかったそうです。九回目くらいの使者でようやく伝わり、釈尊は多くの比丘を連れて故郷に帰ります。

《以下引用》
…スッドーナ王を始めとして、釈迦族の人たちは、自尊心が強く、傲慢であり、それは偏屈固陋とまで見えるほどであった。伝によれば、釈尊が始めて釈迦国を訪問して、カピラ城外のニグローダ樹林に住しておられても、彼らは礼拝しようとはしなかった。そこで釈尊は、彼らのために種々の神通奇蹟を現わすことによって、始めて彼らを心服させ、父王も釈尊を礼拝した。その翌日、父王は釈尊および僧衆を王宮に招待したが、釈尊はその途中、家々を次第に托鉢して行かれた。王はこれを見て、食物は王宮に十分にあるのであるから、乞食までしなくともよいではないか、民家を乞食して歩くことは父王を恥かしめるものであるとして、これを非難した。釈尊は、托鉢はわが祖先からのりっぱな遺法であるといわれると、王は自分たちの祖先には、乞食をして歩くような者はひとりもなかったと答える。釈尊は、私は法の祖先としての過去仏のことをいっているので、釈迦族の祖先のことではない、と述べられた。
《引用終わり》

出家とか托鉢ということに関して、最初は父王も今日的な見方をしていたということが興味深いです。すごく、普通のお父さんという感じがします。

《つづく》


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