トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:正義

実は昨年から、風邪の後も治らない咳に悩まされております。ウイルスや細菌がいる形跡もないのに、鼻・喉・気管の辺りがスッキリしなくて、咳が止まらなくなる時があるのです。おそらくはガッテンで紹介された大人の喘息orせきぜんそく(咳喘息)と思われ、主治医の処方もそれと一致するので、納得して治療を続けております。

このまま大量のスギ花粉に出会ったら死ぬんじゃないか?と思い、おととい、主治医とお話をしました。確たる原因は無いと困惑する彼を見て、自分なりにハタときづいたことがあります。それは、この病気を長引かせているのは他ならぬ自分なのではないか?ということ。

そもそもアレルギーとは、大した毒性も無いものを免疫系が敵視し、過剰防衛する状態だと理解しています。花粉などほっとけばいいものを、とんでもない病原体扱いをして総攻撃をかけるものだから、自身の被害だけが甚大になるのです。

アレルギーとは正に正義漢。ちょっとでも曲がったことは許さない。ほどほどに看過しておくことができない。徹底的に駆逐しなければいけない。

私の性格に似ている…

虫さされも一種のアレルギーですが、蚊に刺された場合、絶対に掻かないようにすると、私の場合は一時間ほどでほとんど跡形もなくなります。これは、個人差もあるでしょうし、私の場合はエバステルのジェネリックを常に服用しているということもあるので、普通の人は一時間では済まないかもしれませんが、掻かなければ消えてしまうのは同じではないかと思います。

だから、皆に掻かないように薦めていますが、痒さを我慢できる人ってほとんど居ないようです。

で、これは大したことないアレルギーを、掻くという行為によって更に大事にしている例と言えます。虫さされで痒みが生じるのは免疫系の応答で、これは自動的に発生するので、エバステルのようなもので抑えるしかありませんが、掻かないという努力はやろうと思えばできることです。

それで、今回の喘息なのですが、自分では痰を出さなければ咳は絶対に止まらないという先入観があって、喉や気管にちょっとでも違和感を感じると無意識に咳をしていたのではないか?ということなのです。

これは、痒いところを無意識に掻いてしまうのと似ています。

もちろん、喉や気管の違和感は自動的なものなので、セレベントとフルタイドで抑えますが、それ以上の部分は自分との闘いで何とかならないだろうか?

「正義」とは、自分の考えに固執し、排他的になる傾向が概ね見られる。ゆえに「正義」だけでは傷口は大きくなるだけで、概ね問題の解決には役立たない。

この持論(自戒)を踏まえ、自分の正義感を見つめ直しながら、自分のアレルギーとも向き合ってみたいと思います。
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現代は「怒」の時代だと思います。

何か問題が起きた時、即座にみんなが口にします。「誰が悪いのか?」犯人が見つかるまで、責任の譲り合い(一般的にはなすり合いと言う)も積極的に(臆面もなく)行われます。そして、犯人(いけにえ?)が見つかると、「責任を取れ!」と連呼して吊るし上げる。

これが定式化し、日常化し、当たり前のルーチンとなっているようです。天下国家の一大事から、テーブルにジュースがこぼれた!というような問題に至るまで、このルーチンで処理されています。

そこには、「世の中は誰か悪い人がいない限り、問題は起こらない」という前提があるかのようです。そして、「悪い人は徹底的に懲らしめなければならない」というルールもあるかのようです。

このルーチン処理を行っている時の感情は「怒」。何か問題が起きると、私たちは必ず「怒」に支配されます。まさに、私たちは「怒」の時代を生きていると言えます。

「怒」は、自分と他者を徹底的に区別します。「怒」は、他者とは違う自分を徹底的に正当化します(犯人たる他者に責任転嫁することの裏返しです)。そして「怒」は、正義の名の下に、徹底的に他者を排撃します。寛容が入り込む隙は有りません。

動物も持っているような単純な怒りは、身体の活動を奮い立たせ、天敵との戦闘や逃走に適した肉体的状態を作ります。人間が仕事をする場合でも、肉体労働に限らず精神的な労働においても、このような緊張状態は必要だと私は思います。

仏教とてこれを禁じてはいない、と私は解釈しています。

問題なのは、つまり仏教が禁じているのは、必要以上にあらゆることをこの「怒」の状態に持っていく思考回路、すなわちルーチンだと思います。このルーチンのプログラムを変更する必要がある。

それには、「世の中は誰か悪い人がいない限り、問題は起こらない」という暗黙の前提を捨てる必要があります。「世の中は誰も悪い人がいなくとも、問題が起こってしまうのだ」という前提に置き換えなくてはいけません。

そうすれば、問題が起きた時に、それを「受け入れる(妥協)」でもなく「受け付けない(拒否)」でもなく、「受け止める(中立)」ことができるはずです。

そうすれば、責任者とおぼしき人物が洗い出されたとしても、「本当にその人だけを責めることができるのか?」と思う余地が出てきます。つまり、寛容の入り込む隙が生まれます。

さらに正義は争いのもとであることを想起すれば、拳を振り上げるようなことも滅多に起こらないはずです。

このようなプログラム変更を行って、問題発生と「怒」が直結する回路を断ち切らなければなりません。「怒」ではなく、みんなの輪、つまりドーナツの「ド」につながる回路にしなければなりません。
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怒るな!ということです。最近、キレる人が増えています。カルシウムが不足しているからとか、教育がどうだとか、ストレスがどうだとか、いろいろ説明されていますが、栄養の偏りだけではないと思うし、年齢に関係なくキレやすくなっているから教育のせいでもないし、ストレスのせいっていうのは当たり前じゃないでしょうか。

…そういうハード(外部環境)の問題ではなくて、ハートの問題じゃないかな…

みんな人間が薄っぺらになったからじゃないかな。とにかく自分の立場を主張するのが最優先で、相手の立場を考えたり、自分を客観視してみたり、という面倒なことをしなくなったような気がする。「取りあえず自分の正当性が主張できればいいや」というような気持ち。これは、自分の反省でもあるんですけど。

私が子供のころは「短気は損気」と親に言われて、癇癪を起すたびにからかわれました。だから、怒ることは恥ずかしいことという感覚がどこかにあります。ところが、最近は私もキレやすくなっておりました。これではいけない!と思ったのが、仏教を勉強してみたいと考えた理由のひとつです。

「私憤」と「公憤」という区別があります。育児の場面では、「怒る」と「叱る」という区別が常に問われます。自分の怒りをなかなかきれいに分別(ぶんべつ)できないことが多いですけど、基本的には前者がバツで後者がマルということでしょう。後者の怒りでキレるということは少ない。

ただ、公憤ならいいのか?と言われれば、必ずしもYesではないのが難しいところです。みんなのために正義を貫こうとする行為が戦争だというのが私の持論ですから。大東亜共栄圏はアジア民族のためだったでしょうし、ベルサイユ体制打破はドイツ国民のためだったでしょうから。もちろん単なる大義名分だったかもしれませんが、それを正義と信じて熱狂した国民が少なからずいたことは間違いない。

不動明王は一般大衆を叱りつける存在のようです。「するな!」と戒められている怒りの感情を露わにしたそのお姿は、非常に心惹かれるものがあります。と共に、「てめえ、キレるんじゃねえぞ」と睨まれているようでもあります。

《つづく》
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