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「釈尊の生涯」(春秋社)
「3.釈迦族について」を読みました。

釈迦国はヒマラヤ山麓の辺鄙な場所で、新興文化の中心であるマガダ地方と比べればおくれていたであろう。他国との頻繁な交通や商業貿易もあまり行われなかっただろう。金持ちの商人がいた様でもない。そのかわり、戦火の巷となることもなく、平和で静かな生活ができたことだろう。

しかしながら、釈迦族は元来武士王族であったため、武術には長じていたらしく、西南の隣国である大国コーサラが、臣下として隷属している釈迦国に、武芸を学ばせようと王子を送り込むほどであった。

原始聖典のなかの、釈尊の少年時代の述懐が引用されています。

《以下引用》
私は若いころには、たいへん身体が柔弱であり、きわめて華奢であった。私の父の住まいには、あちこちに蓮の池があって、私を喜ばすために、それぞれが赤や白や黄色の蓮や睡蓮などが植えてあった。私はよい香りのするカーシー産の栴檀香以外は用いないし、衣類はターバンやジュバン、下衣、上衣などにいたるまで、カーシー産の軽い立派な絹のものだけを身に着けた。
私が邸内を散歩する時は、夜も昼も、私の上には白い傘がさし掛けられていたが、これは暑さ寒さを防ぎ、雨露をしのぎ、ちりやほこりが落ちて来ないためであった。また私のために三つの宮殿が建てられたが、その一つは冬に適し、一つは夏に適し、一つは雨期に適するものであった。たとえば雨期の四カ月間は、私は雨期用宮殿にあって、美しい女たちだけで奏でるいろいろの歌舞音曲を楽しみ、宮殿から下りることもしなかった。また一般の家では、召使や職人たちには、屑米の飯やすっぱい粥などを食べさせるけれども、私の父のところでは、召使や職人たちにも、白米や肉の食事をとらせたのである。
《引用終わり》

かなり裕福な生活だったようです。

《つづく》