「空海の夢」(春秋社)
「あとがき」を読みました。
《以下引用》
現在の日本に必要なものは技術基盤でも宗教基盤でも外交基盤でもない。むしろ海外の先駆的実例に迷わされることなく、われわれは現在の日本の矛盾をもっと深く受けとめることである。われわれはまだ、明治あるいは戦後にはじまった日本現代の矛盾を充分に見つめてはいない。もし、その矛盾が今日にいたって飢餓に出ているのなら飢餓の背景におよび、もしその矛盾が失業にあらわれているのなら失業の背景におよぶべくなのだ。けれども、われわれの国の矛盾はいまのところ飢餓や失業ではなく、経済主義や精神文化や、表現力において矛盾を吹き出させた。それならそれで、そのことを徹底してうけとめるべきなのである。
ひるがえって、空海の時代においてもわれわれの国は矛盾だらけだった。国内政治はもとより、対外外交にも法身はなく、まして精神文化の背骨ともいうべき仏教は南都において六宗が六宗とも喘いでいた。日本語という言葉すら、日本人にふさわしい住宅様式すら、できあがっていなかった。そのような実情の中、どのように青年空海が出奔しようとしたか、私が描きたかったのはそのことだった。
唐に行って密教を持ち帰ったというだけなら、空海の仕事はたいしたものではない。高野山を開創したというだけなら、それは空海でなくとも多くの僧が日本全国で苦労したことだ。空海は漢語から「来るべき日本語」を想定し、華厳国家から「来るべき密厳国家」を構想し、さらには文字の書き方を入木道(書道)として、声の出し方を読経として、市場のあり方を東寺や西寺として、多様にプランしようとしたのである。
そのことを議論するには、当時の言葉だけにたよって空海がどのように実情を打開しようとしたかを説明しても、それはたんなる歴史の解説におわる。そこで私は、むしろ現在の視点から、現在において思索される言葉を駆使することで、当時の空海の計画がどのように今日にリンクしうるかを説明してみた。それが本書である。
《引用終わり》
再びこの本の帯に戻ると、『〈日本〉をプログラムした神秘の密教者、空海。』というフレーズがあります。
今回の東日本大震災でも、日本人のモラルの高さを海外のメディアは高く評価しています。幕末の日本に滞在していた外国人も同じでした。それがどこからくるのか?が、私が抱き続けているテーマです。
それがこの本の中に見つかったような気がしています。空海の国家観の件です。
当時においても現代においても、国が治まるとは、その民の一人一人が自分の心を治めているか、に帰着するのではないかということです。これは、ホロン的であり、華厳的発想とも言えますが。
民の心が治まっていれば、江戸幕府にような小さな政府でも、少なくとも国内的には治まるのです。
食と兵と信という三者択一の問は論語の中に出てきます。海外メディアが取り上げる日本人のエピソードは、兵も食も無い状況で信を見つけた話と言い換えてもいいかと思います。
しかし、我々が信を持っているとしても、それは礼(外部的規範)に起因するものでないことは明らかです。それは悲という言葉が一番近いような気がするのです。
そこに空海を感じるのです。彼のプログラミングが、まだ、この国で機能しているような気がするのです。
《最初から読む》
「あとがき」を読みました。
《以下引用》
現在の日本に必要なものは技術基盤でも宗教基盤でも外交基盤でもない。むしろ海外の先駆的実例に迷わされることなく、われわれは現在の日本の矛盾をもっと深く受けとめることである。われわれはまだ、明治あるいは戦後にはじまった日本現代の矛盾を充分に見つめてはいない。もし、その矛盾が今日にいたって飢餓に出ているのなら飢餓の背景におよび、もしその矛盾が失業にあらわれているのなら失業の背景におよぶべくなのだ。けれども、われわれの国の矛盾はいまのところ飢餓や失業ではなく、経済主義や精神文化や、表現力において矛盾を吹き出させた。それならそれで、そのことを徹底してうけとめるべきなのである。
ひるがえって、空海の時代においてもわれわれの国は矛盾だらけだった。国内政治はもとより、対外外交にも法身はなく、まして精神文化の背骨ともいうべき仏教は南都において六宗が六宗とも喘いでいた。日本語という言葉すら、日本人にふさわしい住宅様式すら、できあがっていなかった。そのような実情の中、どのように青年空海が出奔しようとしたか、私が描きたかったのはそのことだった。
唐に行って密教を持ち帰ったというだけなら、空海の仕事はたいしたものではない。高野山を開創したというだけなら、それは空海でなくとも多くの僧が日本全国で苦労したことだ。空海は漢語から「来るべき日本語」を想定し、華厳国家から「来るべき密厳国家」を構想し、さらには文字の書き方を入木道(書道)として、声の出し方を読経として、市場のあり方を東寺や西寺として、多様にプランしようとしたのである。
そのことを議論するには、当時の言葉だけにたよって空海がどのように実情を打開しようとしたかを説明しても、それはたんなる歴史の解説におわる。そこで私は、むしろ現在の視点から、現在において思索される言葉を駆使することで、当時の空海の計画がどのように今日にリンクしうるかを説明してみた。それが本書である。
《引用終わり》
再びこの本の帯に戻ると、『〈日本〉をプログラムした神秘の密教者、空海。』というフレーズがあります。
今回の東日本大震災でも、日本人のモラルの高さを海外のメディアは高く評価しています。幕末の日本に滞在していた外国人も同じでした。それがどこからくるのか?が、私が抱き続けているテーマです。
それがこの本の中に見つかったような気がしています。空海の国家観の件です。
当時においても現代においても、国が治まるとは、その民の一人一人が自分の心を治めているか、に帰着するのではないかということです。これは、ホロン的であり、華厳的発想とも言えますが。
民の心が治まっていれば、江戸幕府にような小さな政府でも、少なくとも国内的には治まるのです。
食と兵と信という三者択一の問は論語の中に出てきます。海外メディアが取り上げる日本人のエピソードは、兵も食も無い状況で信を見つけた話と言い換えてもいいかと思います。
しかし、我々が信を持っているとしても、それは礼(外部的規範)に起因するものでないことは明らかです。それは悲という言葉が一番近いような気がするのです。
そこに空海を感じるのです。彼のプログラミングが、まだ、この国で機能しているような気がするのです。
《最初から読む》