トトガノート

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Tag:最澄

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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十三」を読みました。

この章は、嵯峨天皇が空海を乙訓寺に移させたことについて詳しく書かれています。が、ここでは、奈良六宗に対する最澄の空海の立場の違いについて述べた部分だけを取り上げます。

《以下引用》
「奈良六宗などは、仏教の本質ではない」
と、最澄は渡唐する前にそう思い、帰朝後は最澄の保護者だった桓武天皇に説き、他にも説き、奈良の諸僧にも説き、ついには奈良仏教から独立して叡山に天台宗を新設することを国家に認めさせた。奈良仏教は論である。あくまでも論であって、釈迦の言葉が書かれている経を中心としていない、さらには人間が成仏できるということについての体系も方法も奈良は持っていない、と最澄ははげしく言いつづけているのである。


…奈良にとって最澄の天台学がおそろしいのではなく、仏教は本来、中国をへた外来のものであるということが、問題であった。奈良仏教は古い時期に渡来した。しかしながら最澄がもたらしたものは時間的な鮮度がもっともあたらしく、また体系としても斬新であった。旧も新もいずれもが外来の体系である以上、新しいものが古いものを駆逐するというこの国の文化現象の法則が、この時期、史上最初の実例として奈良勢力を動揺させていると言える。

『十住心論』にみられるように以下は空海の持論だが、
――華厳はなんとかなる。

ということを、かれは奈良の長老たちに繰りかえし言ってはげましていたにちがいない。なんとかなる、というのは、空海の思想世界でいえば旧仏教であることから密教のレベルへもう一跳びでたどりつけるということである。華厳経は宇宙の運動法則とその本質を説明する世界で、あくまでも説明であり、あるいは純粋に哲学といえるかもしれない。その哲学を、密教の目標である即身成仏という世界へ宗教として変質させるということが可能だというのが空海のなんとかなるという意味であった。その言葉により、奈良の長老たちは願望をもった。「東大寺を密教化してもらえないか」ということであった。そのことは、長老たちの思想家としての本心から出たのか。それとも、
――ざっとした鍍金(メッキ)でいい。
ということだったのか。
《引用終わり》

空海は高雄山を出ないと宣言したにもかかわらず、嵯峨天皇の便利のために乙訓寺別当を命ぜられ、奈良仏教からの依頼で東大寺別当をも勤めることになりました。

最澄の存在感が急速に失せているのと、これまた対照的であります。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十二」を読みました。

この章は、平城上皇と嵯峨天皇との対立について詳しく書かれています。

薬子という女性が関わって国が傾いたということで、玄宗皇帝と楊貴妃の話にダブらせた見方ができなくもない、とのこと。

でも、唐の話は老皇帝と若い女性であるのに対し、こちらは熟女と若い帝。しかも、この熟女は権力を手に入れるためならどんな男とも関係を結んでいる。長恨歌のような詩にはとてもなりえない…。しかし、詩にならぬとも、使い道はある。

《以下引用》
…しかしながら空海はこれを安禄山ノ乱と見、不空とおなじことをした。
空海は、事件を始末する詔勅が出てからすぐ、
「沙門空海、言ス。…伏シテ望ムラクハ国家ノ為ニ」
修法をしたい、という上表文をたてまつっているのである。その修法がいかなるものであるかについては、日本の朝廷の認識を得させるべく唐の朝廷の例をひいている。唐においてはその宮廷の重要な建造物である長生殿を捨って修法の道場にあてているほどに大がかりなものだ、という。自分は高雄山でそれをやるが本来それほど重要なものだということをよく認識せよ、ということを言外にこめている。…

…嵯峨天皇はこの空海の企画とそれについての上表文によほど感動したらしく、とりあえずの費用として綿一百屯の下賜があり、あわせて嵯峨が得意とするところの七言八句の詩一首を空海にあたえ、自分の感動をつたえた。
《引用終わり》

このとき、この修法のために六年間高雄山を出ないと宣言しているにもかかわらず、一年後には嵯峨の命令で山城国の乙訓寺の別当になっている。これは、漢文的表現というのは表現世界にとどまるものであり、厳密に守る必要はないということを、空海も嵯峨も教養の前提として知っていたのだろう…ということです。

北京オリンピック開会式の映像も、同じことだったのかもしれません。嘘をつくこと、そしてそれを真に受けないことが中華式教養ということでしょうか?

平安の漢文的教養期が衰弱し、農民の出が武士や郎党として政権の基礎をなす鎌倉幕府期には、日本でもその習慣がなくなったそうです。

《以下引用》
…空海は多分に芸術とされる文章的世界と、そして現実とのあいだの境界が、ゆらゆらと立ちのぼる陽炎のように駘蕩とした時代人でもあった。その意味においてはいかがわしさのなかにものどかさがあるようでもあり、しかしながら同じ時代の人である最澄がそうでもないことを思うとき、空海の形相のしたたかさを思い、この男はやはり西域人不空の再来であるのか、とややぼう然とする感じで思わざるをえない。
《引用終わり》

《つづく》


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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十一」を読みました。

空海は京の高雄山寺に移りました。この時期の前後、空海は密教の教相判釈を行っていると考えられます。

《以下引用》
…仏教渡来以来、この時期までに日本にもたらされた仏教は、奈良六宗もまた最澄の天台宗をもふくめ、中国で完成されきったものを、そのまま将来して、定着し、そこに独創を加える必要も余地もなければ、もともとその気分もなく、ただ海を渡って移動したものであるにすぎなかった。完成されきっているというのは、解説書から批評についての論集もそろっているという意味である。…

空海の場合は、…かれがもたらしたかれの密教だけはそれ以前のものと事情が異っており、空海自身がそれらを作りあげねばならなかった。…

空海は、インドにも唐にもなかった「真言宗」という体系を樹立するのだが、このために、「横の教判、竪の教判」といわれるすべての仏教から縦横に密教を見る理論をつくりだす必要があり、また密教がそれを可能だと主張する即身成仏という最終目的についても、他の批判に堪え、かつ誰にも理解できる理論をつくりあげねばならない。顕密二教の判釈ということについても、そうであった。顕教とは外側から理解できる真理――天台宗をふくめてすべてのいままでの仏教――であり、密教とは真理そのものの内臓に入りこみ、たとえば胃そのものになり、脾そのものになり、肝そのものになり、それらの臓腑がうごくとともにうごきつつ宇宙に同化するという行法と理論をいうのだが、空海としては顕教の本質を暴露しつつ密教が顕教をも包摂する最高の仏法であるということをあきらかにせねばならない。
《引用終わり》

その作業に多忙をきわめる空海の下へ、そんな作業を全くする必要のなかった最澄から使いが来ます。「密教の経典を拝借したい」と。

顕教と同じように、密教も書斎の作業として独習しようとしているらしい…。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の十九」を読みました。

大宰府を立った空海ですが、和泉国(大阪府南部)の槇尾山寺に留まり、尚も京に入ることをしませんでした。ここで、もち帰った経典類を整理するとともに、おそらく恵果から託された「両部不二」の着想を論理化・結晶化させていったのではないかと思われます。

この間、最澄は苦しい立場に追い込まれていきます。最澄は旧仏教(奈良仏教)に対して、「論であって教ではない。天台宗こそ教たりうる」という批判をしていました。唐に行く時には「天台宗でいいぞ!」と言ってくれた桓武天皇が、帰国してみると「密教だ!」ということに豹変しておりました。越州で密教(雑密の一種)をちょっとかじってきたということに大喜びされてしまい、それを用いて旧仏教の長老たちを潅頂するよう、最澄は命じられます。

後になって思えば、この命を気骨をもって、辞退すれば良かったのでしょうが、相手が二度も遷都するような強引な帝ということになれば、楯つくこともできないのが普通です。

最澄に対する旧仏教勢力の憎悪が頂点に達したところで、この原因をつくった張本人の桓武天皇が御隠れになります。そのすぐ後に、正統な密教の継承者となった空海が帰国。空海は旧仏教勢力とは親しい関係にありました。

当時は政教一致ですから、空海の登場は政変と言ってもいいような気がします。が、歴史上あくまでも宗教の話となっているのは、空海の密教が余りにも完璧だったからではないかな、と思います。空海も持っていたにちがいない野望を、完全に覆い隠すほどに壮大かつ堅固な「法」の要塞…。

《以下引用》…
いまでも、私のなかにその疑問がある。真言宗は空海以後、多くの俊才が出たが、しかし教義を発展させるという仕事は、ほとんどしていないように思える。空海が、完璧な体系をつくりすぎたせいではないか、ということである。

空海と最澄とはさまざまな面で対照的であるが、この面でも逆であった。最澄は唐から持ちかえった天台宗や越州の密教を、多くは整理しきれず、その間奈良仏教との抗争などで忙殺され、未整理であることを憂えつつ死んでしまった。しかしひるがえっていえば、そのことがむしろ後世を益したともいえるのである。たとえば天台密教の成立は最澄が死んでからのことであったし、また鎌倉の新興仏教の祖師たちが、最澄の持ちかえったものを部分的に独立させ、部分において深めたことなどを思うと、最澄のように、唐から請来した諸思想を完璧な一個の体系にすることなく――極端な言い方をすれば――叡山の上に置き去りにしたというほうが、歴史の発達のためにはよかったかもしれない、という意味なのである。
…《引用終わり》

対照的な二つの体系が併存したことは、仏教史のみならず日本史を豊かにしたと言えるでしょう。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の十八」を読みました。

ひと足先に帰国して天台宗の体系を持ちかえった最澄ですが、桓武天皇や廷臣たちの関心は、ついでに越州から持ちかえった密教に集中しました。空海が出発したころの無関心さとは一変していました。玄宗皇帝が不空の密教に傾倒したという話が伝わってきたのに、密教は伝わっていなかったために、大いに関心がたかまっていたのです。

桓武天皇は、最澄のもたらした天台については触れず、密教にのみ昂奮し、密教をもたらしたがゆえに最澄を国師であるとし、旧仏教の長老たちに潅頂を受けさせよ、と命じました。

最澄の密教は、越州で(ひと月ほど滞在)、順暁という僧から教わったものでした。
《以下引用》
このとき最澄自身には自分が何を得たのか、十分わからなかった(あとになって最澄は気づき、最澄らしくきまじめな、いわば好もしい態度で狼狽する)。さらにいうと、最澄はこの越州でのあわただしい相承のとき、正統密教を構成する二つの部門である金剛界も胎蔵界も、区別がつかなかったような気配さえある。
…《引用終わり》

一方、帰国の途に就いた空海もこの越州に四カ月ほど滞在し、神秀という華厳の大学者に会い、その奥旨を会得しました。

帰国した者は大宰府に一旦滞在し、朝廷からの指示を待つのが恒例でした。そして、なぜか、空海だけが残留し、一年ほどここで過します。大宰府には観世音寺があり、奈良六宗の西国における出先機関でした。

《以下引用》…
空海の旧仏教に対する立場が――これは生涯を通じてのことであったが――最澄ときわだって異なっている。空海が、越州において華厳学者神秀を訪ねたことでもわかるように、かれは奈良六宗の一部門である華厳学に関心が深かった。かれは入唐以前、大日経的世界を独力で模索していたとき、独力ながらもその深奥に達することができたのは、大日経世界に類似する哲学ともいうべき華厳経に通じていたからであった。空海は華厳経に対して学恩を感じていたようであってし、ひきつづき関心を継続させていた。のちにかれは華厳研究の専門機関である東大寺の別当に一時期就任するはめになってしまう(空海が別当になったことによって東大寺の華厳哲学に密教的解釈が入るようになり、こんにちなおその伝統がつづいている)。つまり、それほどまで、空海は奈良仏教に親近感をもっていたし、すくなくとも最澄のようには排撃しなかった。

すでに、奈良六宗のひとびとは、最澄から攻撃されるまでもなく、自分たちの仏教が論であって教ではないと思い、旧物に化しつつあるという落魄感を、多少はもつむきもあったに相違ない。やがてその救いを、最澄と対立するかのような空海に求めようとするのだが、
この筑紫においてもすでにそうであったであろうか。観世音寺の学僧たちは空海の説くところをきいて、すくなくともその教説に敵意は持たなかったことだけは、十分想像しうる。…《引用終わり》

最澄を国師としたところに、空海が現われました。密教の伝法者が二人も出現し、朝廷は当惑したことでしょう。僧と寺に関する最高行政機関の僧綱所が調査をしたはずです。僧綱所は、不空の嫡系が恵果であることも知っていたであろうから、空海が不空密教の正嫡であることも想像できたでしょう。一方、最澄に密教を譲った越州の順暁がどういう人かも分かっただろうし、最澄は越州に一カ月足らずしか居なかったことも調べたでしょう。

「最澄、未ダ唐都ヲ見ズシテ、只辺州ノミニ在ツテ即便還リ来ル」という痛烈な奏文を、後年、奈良の長老護命ら書いているとのこと。

以上は、空海だけが大宰府に残留したことに関する司馬遼太郎の推理です。

ともあれ、「上京してその教えを流布せよ」という勅命が、空海に下ります。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の十六」を読みました。

《以下引用》
…インドにおいては、その後の人類が持ったほとんどの思想が、空海のこの当時までに出そろってしまっているが、それらの思想は、当然、言語に拠った。厳密に整理され、きびしく法則化されてきたサンスクリット語によって多くの思想群が維持され、発展してきたが、空海がすでに日本において学びつくした釈迦の教えやそれをささえているインド固有の論理学や認識学も、さらに蘊奥を知るには中国語訳だけでなくこの言語に拠らねばならない、ということは、インド僧だけがそういうのでなく、インド的体温のまだ冷めないこの時代の唐の仏教界では中国僧もそう思っていたにちがいない。
《引用終わり》

恵果に会わずに「置きっぱなし」にしていた5カ月間、空海は、世界中のものが揃っていた長安という都において、その好奇心と吸収力を存分に発揮したようです。そして密教習得に不可欠なサンスクリット語(梵語)も、インドの僧から習っていたようです。

《以下引用》
…恵果の空海に対する厚遇は、異常というほかない。
空海をひと目みただけで、この若者にのみ両部をゆずることができると判断し、事実、大いそぎでそのことごとくを譲ってしまったのである。空海は日本にあってどの師にもつかずに密教を独習した。恵果は空海を教えることがなかった。伝法の期間、口伝の必要なところは口伝を授け、印契その他動作が必要なところはその所作を教えただけで、密教そのものの思想をいちいち教えたわけでなく、すべて空海が独学してきたものを追認しただけである。空海の独学が的外れなものでなかったことを、この一事が証明している。
《引用終わり》

奇跡のような偶然の積み重ねが空海という一点に集結し、密教は日本にもたらされました。余りにも偶然が重なり過ぎているがゆえに、何か大きな「必然」に見えてしまいます…。

《以下引用》
…空海は、恵果から、一個人としてゆずりうけたのである。…
空海の帰国後の痛烈さは、こういうことにも多少理由があるであろう。かれは、その思想が宇宙と人類をのみ相手にしているというせいもあって、国家とか天皇とかという浮世の約束事のような世界を、布教のために利用するということは考えても、自分より上の存在であるとは思わず、対等、もしくはそれ以下の存在として見ていた気配があるし、また国務でもって天台を導入した最澄に対し、空海の天台体系への仏教論的軽視ということはあるにせよ、ごくつまらぬ存在であるかのようにあつかったのは、このあたりに根のひとつを見出しうるかもしれない。
空海は、極端にいえば私費で、そして自力で、密一乗を導入した。
《引用終わり》

空海の奇跡はまだまだ続きます。

《つづく》
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「仏教入門」(東京大学出版会版)
「十章 仏教の歴史」の後半を読みました。

渡来系氏族と密接な交渉のあった蘇我氏が、物部氏らの廃仏論者と争ったすえ、これに勝って、仏教が公認されるようになった。蘇我氏と縁の深かった聖徳太子が、法華・勝鬘・維摩の三経に対する注釈『三経義疏』を著したとされている。

太子の定めた方針を継承する大化の新政以後、仏教は朝鮮半島のみならず大陸からも直接伝来するようになり、留学僧の往来も頻繁となった。一方で、日本古来の宗教、習俗を守ろうとする勢力も根強く、仏教側は妥協策として「本地垂迹」の説を打ち立てた。このような神仏習合は、その後も長く日本仏教の特色となっている。

奈良時代はひたすら中国の仏教の吸収に努めた時代で、種々の学派が成立した。世に言う南都六宗である。

1.三論宗
高麗の慧観によって太子の時代に伝わった。

2.成実宗
百済の道蔵が721年に来日して『成実論』を講じたのが始まり。最終的には三論宗の付宗にとどまった。

3.法相宗・4.倶舎宗
唐に留学した道昭(629-700)が653年に伝えたのが始まり。興福寺を中心に、法隆寺、薬師寺などがその伝統を現在まで受け継いでいる。倶舎宗はその付宗。唯識説と倶舎の学を伝承して、長く仏教教学の中心となり、学問所として宗派を問わずに重んぜられた。

5.華厳宗
新羅の審祥が良弁(689-773)に迎えられて、東大寺で『華厳経』を講じたのが始まり。

6.律宗
唐の鑑真(687-763)が、五度の挫折にめげず日本に渡来し、四分律宗を伝え、戒壇を設立した。これによって初めて日本で正式な受戒儀式による僧侶の得度が可能となった。

・天台宗と真言宗
平安時代に入って、最澄(766-822)および空海(773-835)によって、唐から新しい仏教が輸入された。

・浄土思想
平安時代中期になると、比叡山の中に念仏による浄土往生の思想が盛んとなり、貴族を通じ、しだいに民衆にも浸透するようになる。地方における争乱の連続、末法到来(1052年が仏滅二千年)などから、厭離穢土・欣求浄土の願いを真剣に抱くようになったとされる。法然(1132-1212)が、往生のためには他の雑行はいらないと、専修念仏を唱え、天台宗からの独立を宣言したのが浄土宗の始まり。その弟子の親鸞(1173-1262)は、さらに行としての念仏に代わって、弥陀の慈悲によっても我々の往生が決定しているとの信に基づく報恩の念仏を強調して、浄土宗からも独立し、浄土真宗を創り上げた。両者とも中国の浄土教の教えを受け継ぐものとその宗旨の系譜を主張しているが、教団の運動としては純粋に日本発生のものである。

・禅宗の伝来
禅宗(北宗禅)は最澄によって伝えられたが、天台の禅というべき止観の法を基本としていたため、中国のように独立の教団を形成するには至らなかった。栄西(1141-1203)が二度目の渡宋で請来に成功。道元(1200-1253)は、叡山で得度し、建仁寺で学んだ後、入宋し、諸方遍歴の後、曹洞宗の系統に属する如浄の法を伝えた。彼自身は曹洞宗とも禅宗とも名のることを嫌い、仏心宗と称したが、後継者たちは曹洞宗の名で独立の教団を組織した。道元の主著『正法眼蔵』のなかで本証妙修、修証一如の綿密な行持の宗教を高揚している。

・日蓮宗
日蓮(1222-1282)も諸宗の祖師同様、初めに叡山に学び、そこで法華経をただ一つの所依とする宗旨を選び取って、独立を宣言した。『法華経』の題目を唱えることに行の基本を集約するという簡潔性が人々に受け入れられた。一方、日本の神々を仏教守護の神として尊崇するなど、民族主義的色彩も強かった。これは、浄土、念仏の諸宗が超越的宗教もしくは個人の内面性を重んじ、国家を下位に置こうとしたのと異なる。

以上、鎌倉時代に始まった諸宗は、その教義が、念仏とか禅とか法華経というように、一事に専らであること、国家の宗教としてでなく個人の宗教として出発していること、貴族以外の多数の民衆の間にその教団の基礎を置いた点などが共通する。

室町時代は南北朝の動乱を契機に、新仏教が全国へ普及した。総持寺の曹洞宗の拡張、真宗教団による一向一揆、法華宗の法華一揆などの動きがこれである。信長・秀吉の新体制によって、これら仏教教団の権力はいっさい根こそぎにされた。

俗世的権力を剥奪された仏教は、江戸幕府によって完全な管理体制下におかれ、檀家制度の下で戸籍係の役を果たさせられる。経済的には安定したものの、往年のエネルギーは失われ、新しい宗教運動を生むこともなく、明治時代を迎える。

明治維新前後、民族主義の台頭によって仏教は廃仏運動に直面したが、これをきっかけに仏教浄化の運動が起こり、多くのすぐれた僧侶が輩出して、各宗それぞれに近代的教団として脱皮し、今日に至っている。

《最初から読む》
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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の十三」を読みました。

年が明けると、空海のような長期滞在予定者以外の人々は早々に帰国しました。最澄も帰りました。三十年前に唐にやってきた永忠という僧も、このとき帰国しています。この人と入れ替わりに、空海が西明寺に滞在することになります。

《以下引用》…
空海には、永忠のように書物の虫のようなところはない。かれはとほうもなく抽象的思考力にめぐまれている一方、並はずれて現実に対する好奇心がつよく、しかも詩文を愛するという、一通りの仏徒からみれば浮華とも映るところがあり、このような浮華の虫が、かれを永忠のように、この一室で尻の下の床の饐えるまですわりつづけるということをさせなかったにちがいない。
《引用終わり》

ガリ勉でもない…勉強しなくてもできるタイプですかね。

《以下引用》…
空海が西明寺へ行って止宿するのは二月十日で、恵果を訪ねるにいたるのは、五月なのである。この間、想像するに、かれは長安の早春、爛春、晩春を充実して楽しんでいたであろう。ふりかえってみれば、そのあたり、最澄とのちがいが、滑稽なぐらいさえある。最澄は入唐するや、長安にもゆかず、ただちに台州へ直行した。そこで天台の体系を得るや、追われるように明州の港にもどって帰りの船にとび乗っている。いかに期間のみじかい還学生とはいえ、息のつまるような日程である。
それにくらべれば、どうやら空海は閑々とした日々を送っているようでもある。
《引用終わり》

長安は異国の人が多く訪れる国際都市でした。街路樹が植えられた並木道を車馬が盛んに往来する計画都市でもあり、漢詩に詠み込まれた風景がいたるところにある文化都市でもありました。

最澄という人は、無粋というか、面白味がないというか…真面目な人だったんでしょうねぇ

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の十二」を読みました。

長安に向かって、大変な旅路でした。悪路をスプリングの無い馬車を飛ばして進みます。しかも、「星ニ発シ、星ニ宿ス」ということなので、ほとんど休憩の無い強行軍。衛生上の問題もあって、赤痢に罹る人もいたようです。そんな中でも、空海は超人ぶりを発揮します。

一行が長安の入り口にたどり着いたのが12月21日。そこで、最澄が乗った第二船の人々は11月15日に長安入りしたことを知る。

《以下引用》…
空海は、最澄の消息について知りたかった。
かれは趙忠のそばに寄り、長安の官話で話しかけた、かと思われる。趙忠はこの僧がうつくしい音で喋ることにおどろき、汝ハ我国ニ曾テ遊ビシヤ、ときいたであろう。空海はワレハジメテ入ル、と答えたにちがいない。…
「その僧は、長安には入らなかった。かれは一行とともに明州に上陸したが、疲労はなはだしく、しばらく医者の手当をうけて休養した。そのあと一行は長安にむかったが、最澄とその随行の僧のみは明州で別れ、そこから天台山にむかった」
と、答えた。
なるほど最澄のめざすところは長安ではない。目的が天台の教学と経典の招来であったために、天台山に直行するのが当然であった。天台山は台州にある。明州から台州へは十日ほどで行ける。となれば最澄はすでにその教学の伝授をうける作業に入っているはずであった。空海はそれをきいてあせりを感じたかどうか。
あるいは、長安の華美を見ようともせず明州から台州へ直行した最澄の生真面目さに内心おどろいたかもしれない。
《引用終わり》

最澄は辺地の密教を少しばかり習ってきたということでしたが、こういう経緯だったようです。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の九」を読みました。

《以下引用》…
空海がやったことは国家がやるべき事業でありながら、空海個人の負担によっておこなわれた。最澄の場合、天台教学を移入することは国家が公認している。その経費は国家もしくはそれに準ずる存在から出たが、空海はそうではない。このことは、空海のその後の対国家姿勢にも重大な影響をあたえたといっていい。かれは帰国後、自分と国家・宮廷を対等のものと見た。ときにみずからを上位に置き、国家をおのれの足もとにおき、玉を蹴ころがすように国家をころがそうという高い姿勢を示した。その理由のひとつとして、自分こそ普遍的真理を知っている、国王が何であるか、というどすの利いた思想上の立場もあったであろう、そのほかに、
「自分の体系を国家が欲しいなら、国家そのものが弟子になってわが足もとにひれ伏すべきである」
という気持ちがあった。さらにその気持をささえていたのは、遣唐使船に乗るにあたってかれが自前で経費を調達し、その金で真言密教のぼう大な体系を経典、密具、法器もろとも持ちかえったという意識があったからにちがいない。空海は私学の徒であったとさえいえる。
《引用終わり》

最澄と空海は好対照な点が多々あるようですが、上記の点について着目すると、「官」の最澄、「民」の空海、と言えそうです。

唐への滞在費用から、お土産、日本に持ち帰るもの一切を調達する費用等々、莫大なものです。最澄の場合は、それら全てを国家から準備してもらい、しかもすぐに帰国する予定です。ところが、空海は全部自前である上に、滞在予定は20年。

尤も20年というのは建前で、空海自身はすぐに帰ってくる腹づもりだっただろうと司馬遼太郎は推理しています。したがって、20年分の滞在費用を惜しげもなく必要なものに投入できたのだろう、と。

それにしても、どうやって資金を集めたのか。この能力だけでも素晴らしい。そして、集めた大金をドンと使う度胸の良さ。現代ならば、一代で大企業を創ってしまうような才覚です。

だから、強力なパトロンがいたんじゃないか?という気もします。しかし密教の体系を構築するに際し、遠慮しなければいけないようなパトロンがいれば、かくも完璧な体系は出来上がらなかったような気もします。千利休と秀吉のようなことになりかねないですから…。

謎は尽きませんが、空海は間違いなく超人です、俗世においても。

《つづく》
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