トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:最澄

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「空海の夢」(春秋社)
「15.対応と決断」を読みました。

最澄が空海を認めてくれたことにより、最澄との微妙な友情関係を構築し、国内での足場固めをする時期を「対応」とし、最澄と決別し密教と顕教を対峙させる瞬間を「決断」としています。

“他者の眼”を気にせず行動したと思われる最澄と、“他者の眼”を計算して動いた空海との差が描かれています。

《以下引用》
…すでに平安仏教界の第一人者となっていた最澄が、まったく惜しみもなく空海の密教活動の拡大することに力を貸したのだ。おかげで朝野の在俗の士も最澄のプロモーションに心を動かされ、空海の評価はいやがうえにも増すことになった。

こうした事態に一番驚いたのは南都の仏教界であったろう。南都諸宗を攻撃する最澄が空海に三顧の礼をつくしているのだから、これはただならぬ状況の変化と映った。しかし最澄自身はこれらのプロモーション活動を展開するうちに、しだいに密典秘籍にたいする関心から『大荘厳論』などによる密教的助力を重視するという関心に移っていった。「一乗の旨、真言と異なるなし」という主張をしだいに強める最澄なのである。

《引用終わり》

南都諸宗を攻撃する最澄、空海がこれを討つことを画策したであろう南都諸宗の僧たちのことは以前も書きました。最澄と空海の接近をハラハラしながら見ていたことでしょう。

《以下引用》
…ひるがえってみれば、空海も当初は最澄からもたらされるやもしれぬ天台止観に多少の期待があったのだろうし、最澄がしきりに求める“秘密宗”についての典籍貸与や法門教授についても、いったい自分の構想する大いなる術がこの当代随一といわれる最澄の眼にどのように判断されるかを知っておきたかったのだろうとおもわれる。それに、この時点までは空海の密教思想を中央の誰が正当に評価したわけでもなかった。もとより嵯峨天皇や冬嗣は文化や政治の関心で空海を見ていたのであったし、広世や真綱も外護者の立場にとどまっていた。僧綱所には密教思想の十分の一も理解できる者はない。唯一、最澄こそが空海の本意とはいわないまでも、その方向を評価していただけである。

こういう事情では、空海もしばらくの沈黙による「対応」をはかっているしかなかった。その存分の「対応」が可能であったこと自体、空海の怖るべき思想の重量をわれわれに、伝えるものであるが、さらに「対応」がいつしか完了を迎え、いつのまにか緊張をみなぎらせた「決断」におよんでいるというその急転直下にもいっそう驚かされるところであった。

《引用終わり》

「顕教とは報応化身の経、密蔵とは法身如来の説」という表明あたりを皮切りに、空海の決断が遂行されていきます。

著者は、果分可説の表明を「すこぶる強烈」と書いています。そう言われて、私も少し考えてみたら、宇宙観が少し変わったような気がします。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の三十」を読みました。

《以下引用》
…(空海は死の一年ほど前に)奈良の学徒にしきりに講義し、とくに東大寺真言院において法華経を講じているのである。…法華経は空海にとって専門外の顕教の――さらには最澄が天台宗の根本経典にしたところの――経典で、これを講義することじたいがひとびとに意外であった。しかも空海はこの講義においてじつに入念で、『法華経釈』という解釈論まで書きおろしたほどであった。ついでながらこの作品は空海にとって最後の著作となった。察するに、
「いままで顕教とか法華経などくだらないと言いつづけてきたが、すこし修正しなければならないかもしれない。顕教もまた重要であり、法華経はわるくないものだ」
という気分が、この著述に溜息のように洩れてくるように思えるのである。空海はあたかも手だれの政治家のように政治的にはしばしば妥協したが、教学的には研ぎすまされたはがねで論理を構築するようで、妥協ということをいっさいせず、法華経講義はその意味で異変といってよかった。…空海の軟化はこの時期、弟子たちに対し、「顕教をも外教として学べ」(密ヲ以テ内ト為シ顕ヲ以テ外ト為シ、必ズ兼学スベシ。コレニ因ツテ本宗ヲ軽ンジ、末学ヲ重ンズルコト勿レ――御遺訓九箇条のうち――)とまでいっているほどで、以前のかれの体系に対する厳格さからは想像しがたいほどのことであった。
《引用終わり》

真言宗が存在感を増すにつれて、頑なに守りつづける必要も薄れてきたでしょうし、自分の死後は顕教と共存していってもらいたいという気持ちの表れではないでしょうかね。「狭キ心」ではなかったと思いたいです。

《つづく》



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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十九」を読みました。

《以下引用》
…帰国後の空海は、なるほど多忙であった。
かれは、日本文化のもっとも重要な部分をひとりで創設したのではないかと思えるほどにさまざまなことをした。思想上の作業としては日本思想史上の最初の著作ともいうべき『十住心論』その他を書き、また政治的には密教教団を形成し、芸術的には密教に必要な絵画、彫刻、建築からこまごまとした法具にいたるまでの制作、もしくは制作の指導、あるいは制作法についての儀軌をさだめるなどのことをおこなっただけでなく、他の分野にも手をのばした。たとえば庶民階級に対する最初の学校ともいうべき綜芸種智院を京都に開設し、また詩や文章を作るための手引きをあたえ、その道に影響するところがあり、さらには『篆隷万象名義』という日本における最初の字書もつくった。このほか、讃岐の満濃池を修築し、大和の益田池の工営に直接ではないにせよ参与した。
《引用終わり》

多彩な多才です。僧侶としての仕事だけを見ましても、多忙です。

高雄山寺に住んでいましたが、当時は和気氏の私寺でしたから、この経営を見なければなりませんでした。密教は彫刻と絵画を中心とした美術によってその思想を表すので、いかなる宗よりも経費がかかるそうですが、これを捻出しなければなりません。このため、まだまだ高雄山寺の密教化は満足のいくものではありませんでした。

奈良の東大寺の別当も兼ねていました。これを密教化するために真言院は建てたものの、東大寺は華厳の中心機関であり、南都仏教の根拠地のひとつであるため、空海の思いのままに改造できるわけではありませんでした。

密教の中心機関を設けたいということで、高野山に私寺を造るという構想も抱いていたはずですが、おそらくいろいろな事情でままならなかったことでしょう。

そこに東寺の話がありました。既存の建物を利用するとはいえ、国費で密教の中心機関を造るという話です。空海は東寺に講堂を建立し、そこに二十一尊の仏像をおさめました。さらに潅頂堂、鐘楼、経蔵、五重塔もたてました。しかしながら、他宗の者は入らせないという閉鎖的な道場にしました。

《以下引用》
もともと密教というのは、唐では「宗」という一個の体系のものとは言いがたく、仏教界におけるありかたも、既成仏教のなかにあらたに入ってきた呪術部門という印象のものであった。
空海が唐ばなれしたのは、本来仏教に付属した呪術部門である密教を一宗にしただけでなく、既成仏教のすべてを、密教と対置する顕教として規定し去ったことである。しかも密教を既成仏教と同格へひきあげたのではなく、仏教が発展して到達した最高の段階であるとし、従って既成仏教を下位に置き、置くだけでなく、『十住心論』において顕教諸宗の優劣を論断し、それを順序づけた。…「他人」が東寺に雑住しにくることさえ禁じたのである。
「他人」の代表的な存在は、密教を依然として呪術部門としたがる最澄の天台宗の徒であった。かれらは密教をことさらに「遮那業」とよび、その名称でもって天台宗の一部門とし、空海から遮那業を学びとろうとして、たとえば泰範問題がもちあがった。空海は「雑住」を禁ずることによって泰範的な問題が繰りかえされることをふせごうとし、さらには密教が一宗であることを護ろうとした。
「狭キ心ニアラズ」
と空海はいうが、たしかにそうではなく、密教を一宗として独立させようという大目的のための他者への拒絶とみるべきであった。しかしながら、空海以後の日本仏教の各宗が宗派仏教としてたがいに胸壁を高くし、矮小化してゆく決定的な因をなしたという点で空海もまた最澄と同様、その責をまぬがれえないともいえる。ただ論理的体系とはつねに「狭キ心」から出てくるという一般論のレベルからいえば、空海はこの国にあらわれた最初の論理家ということもいえるであろう。
《引用終わり》

この言い訳に、人間空海の苦悩が感じられます。真言宗が一宗派として確固たるものになるまで御存命であれば、この禁をあるいは解いたかもしれませんね。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第八章 空海と最澄」を読みました。

当時NHK番組制作局教養番組部ディレクターの森下光泰さんの文章です。

《以下引用》
最澄のことを考えていて、数年前に急死してしまった友人と学生時代に比叡山に登ったことを思い出した。同志社大で学生自治会の委員長などしていた男で、ニーチェの思想をテーマに毎年卒論を書こうとしていたが、結局除籍となってしまった。そのときは前の晩から話しこんだ続きに「見晴らしのいいところに行こう」などと言って出かけた。

この番組の取材中、よくその男のことを考えた。なぜ仏教世界において、密教が生まれなければならなかったのか、原始の密教の何が人々の心をつかんだのだろうかと思いをめぐらせるとき、キリスト教において、生を肯定する哲学を対置しようとしたニーチェの思想が道標のように見えたからだ。そして私自身もニーチェによって、世を去った友人によって、空海の世界に誘われているように感じられた。
…《引用終わり》

ルネッサンスはキリスト教によって抑圧され続けてきた「人間」を表に出す動きだったと習ったような気がします。ニーチェも抑圧に対する反動のような位置づけなのでしょうか。

理趣経の内容を考えますと、密教は人間の生(性?)を肯定したものと言えます。宗教は大抵、自分の本能を抑圧するところから始まります。そして、経年変化が起きてくると、人間性の解放を願う動きが強まるのかもしれません。「自然に帰れ」ということですね。

人間が人間である以上、人間の本性を否定し続けて生きるということは、老病死とはまた別の「苦」を生むだけかもしれません。人間の本性を認めない教えは、人間の宗教としては不完全ではないだろうか?

そこに密教の必然性があるように思います。尤も、全ての衆生を救うということで、大乗仏教にそもそもその意味合いは含まれているとは思いますけど。

《つづく》


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実は、このタイトルで、記事一回分、暖めていた構想がありました。

大乗仏教には「お互いの違いを認めた上で一緒に行こう」という雰囲気があるようなので、その方法論とかエッセンスみたいなものを抽出することができれば、世界平和とか、これからの地球の舵取りの大きなヒントになるんじゃないだろうか?というものです。

そんなに簡単ではないだろう、とは自分でも思っていましたが、先週のコメントに書きましたら、「やはり無いだろう」という回答を即座に頂きました(笑)

回答いただいた水波坊さんは、こういった私の突飛な考えをそのままぶつけることができる方であり、きちんと受け止めて膨大な知識に裏打ちされた深遠かつ適切な回答を下さる方です。いつもありがとうございます<m(__)m>

さて、ポシャッたところで、もう一度考えてみました。すぐにコメントしてしまうと一回分ブログに穴があいてしまうので(笑)、ゆっくり考えてみました。

「幾何学に王道なし」ということがこの場合にも言えるということですから、要するに地道に行くしかないのですね。そこで思い起こされるのが「一燈照隅」。「萬燈照国」と続きます。そしていずれは「億燈照星(地球)」へと…。

「隗より始めよ」、まずは己が「お互いの違いを認めた上で一緒に行こう」という精神を持ち続けること、それは少なくとも私の場合は大乗仏典を読んで精進を重ねることであるわけです。そういう自分から発信される言葉や行動は、少しずつ周囲をも照らしていくはずです。

このブログもそのひとつとなればいい…。

「自分の実践しかないのだ!」と気付いたときに、先日紹介した弘法大師の言葉を思い出しました。「それはすなわちお前自身の三密がそれではないか。決して外に求めるべきではない。」という激しい一節。「己の身を惜しんで、近道など考えるなよ!」と一喝された気分でした。

この一節は最澄に送った絶縁状の中の一文ですから、この場に引くのは躊躇したのですが、先にあげた「一燈照隅萬燈照国」は最澄の言葉ですから、それぞれの意見を聞くという意味で、まあいいかな…。

この二人の確執が日本仏教の宗派間の行き来を閉ざすきっかけとなったそうですが、仏道を極めたお二人でさえもそういうことですから、難しいんだな…ということは分かりますね。

尤も、二人の場合は、閉ざすことによって併存(共存)の道を開いたのだと、私は解釈してます。そう解釈すれば「お互いの違いを認めた上で一緒に行こう」の良い模範(つまり一乗のテクニックのひとつ)とも言えますが…苦しいかな…。
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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十八」を読みました。

高校の時、芸術という授業がありまして、確か音楽と美術と書道のどれか一つを選択するものでした。私は書道を選びました。その時の講師の先生の口癖が「書は人なり」でした。

書の腕前は全然上達しませんでしたが、王義之と顔真卿の名前は覚えました。空海が、この二人のみならず、いろいろな書体を自由自在に操っていたということは、授業で触れられていたかどうか、記憶にありません。

「弘法も筆の誤り」という言葉は知っていましたが、書家としてこれほど凄かったとは、この章を読むまで知りませんでした。

《以下引用》
…空海は嵯峨の請いによって、狸毛の筆を作って献上した。真書用のもの一本、行書用のもの一本、草書用のもの一本、写書(写経)用のもの一本、計四本である。…このときに添えた空海の文章(啓)に、
「良工ハ先ヅノ刀ヲ利クシ、能書ハ必ズ好筆ヲ用フ」
とあり、さらに、文字によって筆を変えねばならぬ、…として、書における筆の重要さを説いている。瑣末なことのようだが、このことは、空海の論じたり行じたりすることが、つねに卒意に出ず、何事につけても体系をもっていることをよくあらわしている。
体系だけでなく、道具まで自分で製作するという徹底ぶりは、かれの思想者としての体質がどういうものかをよくあらわしているといえるだろう。
《引用終わり》

その場面や気分で、書体を自由に変えていたというのですから素晴らしい。クリック一つでフォントを変えられる時代でさえ、なかなかそこまでできません。最澄に書いた手紙は、最澄の手紙に合わせて王義之流で書かれているそうです。

《以下引用》
ともかくも空海の書は、型体にはまらないのである。
このことは、空海の生来の器質によるとはいえ、あるいは、自然そのものに無限の神性を見出すかれの密教と密接につながるものであるかもしれない。自然の本質と原理と機能が大日如来そのものであり、そのものは本来、数でいう零である。零とは宇宙のすべてが包含されているものだが、その零に自己を即身のまま同一化することが、空海のいう即身成仏ということであろう。空海において、すでに、かれ自身がいうように即身にして大日如来の境涯が成立しているとすれば、かれの書というのは、最澄のように律儀な王義之流を守りつづけているというのも、おかしいであろう。かれは、嵯峨にあたえるときには嵯峨にあわせ、最澄にあたえるときには最澄にあわせ、さらには額を書き、また碑文を書くときにはそれにあわせた。型体はときによってさまざまであり、多様なあまり、空海がどこにいるかも測り知れなくなる。
《引用終わり》

変幻自在、観音様のようでもあり、怪盗ルパンのようでもあります。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十七」を読みました。

《以下引用》
愛などとは、いかにも唐突だが、仏教徒においてはかならずしも高貴な感情とはされない。覚者の境地としては、むしろ愛から止揚されて純化した慈悲という普遍的な精神とはたらきが尊ばれ、なまの愛はほぼ否定される。ときに、極端に否定される。貪欲、妄執、とおなじ内容としてとらえられ、さらには、男女が相擁して離れがたく思うという性愛としてとらえられる。
《引用終わり》

「愛」の兜という捉え方は、やはり間違いですね…

最澄は泰範に対して、そういう感情を多少は持っていただろう、と司馬遼太郎は書いています。私も、そう解釈するのが自然だと思います。戦国武将では男色が珍しくありませんでしたから、更に前の時代ということになると何があってもおかしくはありません。プラトニックだったとは思いますけど…。

最澄が泰範に送った手紙の内容は、自分を棄てた恋人に対する未練がましい恨み事に似ています。泰範が書くべき手紙を空海が代筆し、弟子を守ろうとするのも分からないではない。それで、きっぱり弟子共々、最澄への絶縁状とできれば一石二鳥。

最澄は己の「愛」の感情をコントロールしかねていると言えるでしょう。このような人に理趣経を見せることは危険極まりない…。

《以下引用》
泰範は空海に魅せられていたことは、たしかである。
魅惑されたのは、空海の人格によるのか、空海の教学によるのか、泰範にいわせればそれは不二だというにちがいない。…密教の師弟の関係は、他と異なり、師そのものが法である以上、弟子である側にとっては師は大日如来であらねばならない。すくなくとも弟子がそのように信じこまねば、密教における師弟関係は成立しないのである。…まして泰範は熱心な密教行者である以上、そういう姿勢をとりつづけていたであろう。…あるいは空海に対して愛をおぼえることも、ありえたであろう。愛は、釈迦の仏法と異なり、密教においては自然そのものであるとして、菩薩の位であるとされている。空海もまた泰範に愛情をおぼえていたとしても、そのことは――それを宇宙機能の一表現と感ずるかぎりにおいては――空海の教理にすこしもさからわない。
《引用終わり》

中国の仏教も奈良仏教も宗派間の行き来は自由だったのですが、泰範の事件以後、日本の仏教は他宗派に対して閉鎖的になったということです。

《つづく》


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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十六」を読みました。

《以下引用》
密教は、宇宙の原理そのものが大日如来であるとし、その原理による億兆の自然的存在、およびその機能と運動の本性をすべて菩薩とみている。さらにはすべての自然――人間をふくめて――は、その本性において清浄であるとし、人間も修法によってまたその本性の清浄に立ちかえり、さらに修法によって宇宙の原理に合一しうるならばすなわちたちどころに仏たりうる、という思想を根本としている。このため文字のみによる密教理解を「越三昧耶(おつさんまや)」として甚だ憎む。

最澄は「筆授」を専一としていることにおいて、越三昧耶を犯しているかのようである。最澄という聡明な器は、そのことを十分理解していたであろう。
《引用終わり》

最澄は天台教学の完成に全てを賭けていたわけで、密教は立場上、成り行きで、その資格が必要になっただけ。密教で仏になろうなどとは毛頭考えていない。越三昧耶は確信犯である。

適切な例えか分かりませんが、交通法規を学び、車の運転方法も机上で完全に理解していたとしても、ハンドルをほとんど握ったことの無い人に運転免許は与えられません。

「実際に運転は絶対にしません。ペーパードライバーを通しますから、ライセンスだけ出して貰えませんか?実際の運転は弟子にさせますから、弟子にしっかり運転をたたき込んでください。」

何度も謝りながら、執拗に無理なお願いをしてくる。最澄の行動は、そんなふうに見えます。それに対して、ついにぶち切れた空海の回答。以下、現代語の部分を抜粋します。

《以下引用》
…自分は不敏であるが、自分の大師が訓えたところをいまから示す。だからよく聴け。

…聞くということはお前の声から聴け、これが声密というものである。

…可視的な理趣とは、要するに目に映ずる万物の現象である。もっと端的にいえばお前さん自身の肉体を見ればよい。他人の肉体にもとめてはいけない。

…要するに理趣とは、お前の声に密があり、お前の目に密があり、お前の心に密があるということである。

…お前は理趣釈経などというが、お前の三密がすなわち理趣ではないか。おなじ意味で、私の三密も釈経なのである。私がお前のからだを得ることができないように、お前も私の体を得ることができない。繰りかえすが、お前は理趣釈経という。お前は誰にそれを求めるのか、求めようがあるまい。また私も誰にそれを与えるのか、与えようもないことだ。

…私が理趣を求めようとする場合、その私(我)とは何か。我に二種類ある。一つは五蘊(人間の心身)という我である。ただしこれは仮の我にすぎない。もう一つの我は、無我の大我である。もしそれ、五蘊の仮りの我に理趣を求めれば、本来仮りの我であるから実体がない。実体がなければ何によってこれを得ることを覓められるであろう。無意味である。しかしいま一種類の我――無我の大我――にこれを求めれば、すなわちそれこそ遮那(毘盧舎那仏――大日如来)の三密である。遮那の三密はいずれの処にあるか。それはすなわちお前自身の三密がそれではないか。決して外に求めるべきではない。
《引用終わり》

これに対して、最澄の反応は余り残っていないそうですが…

《以下引用》
…奈良朝以来、唐文化全般を受容すべくつとめてきた日本としては儒仏道あるいは書画その他ほとんどの分野にわたって書物によって――筆授で――それをうけ容れた。その日本文化の伝統を新来の真言家はほろぼしてしまった、と最澄は長嘆息するようにいうのだが、ひるがえってみればこの長嘆息に最澄の我のつよさを思わざるをえない。
《引用終わり》

それでも、その後、二年半も文通が続いたそうです…。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十五」を読みました。

この章は、泰範という僧について書いてあります。

《以下引用》
泰範は最澄から天台学を最初にまなび、弘仁元年正月、叡山の学頭になった。もっともこの間のことは、最澄が手をとって天台学を泰範に教えたということは、情景としてはなかったに相違ない。さきに入唐した最澄は、国家からあたえられた任務が請益僧であるということもあって、唐の現地で学ぶことをせず、請益の字義どおりただ経典その他のいっさいをもたらすことだけをして帰国した。最澄はそれらの経典類を叡山の上に据え、それらをみずからあらためて読みはじめた。こういう伝来の仕方を最澄は他の場合において「筆授」といったが、いずれにせよ、書かれたことを読むことによって、叡山の天台学は成立した。読むについては、最澄も読み、同時に泰範も読んだ。双方、請来されたぼう大な文字の量を読みつつ、弟子や後進に教えるというかたちが、すくなくとも数年つづいたであろう。その意味では、泰範は厳密な意味では最澄の弟子ではなく、同学の人だったともいえる。

…帰国後、最澄は国政面における天台宗を奈良六宗と同格の存在にするためなどで奔走し、叡山にいる時間がすくなかった。最澄が請来した経典その他は、最澄よりも泰範のほうが読む時間が多かったかもしれず…
《引用終わり》

悪く言えば、最澄は、唐に本を買い付けに行っただけとも言えます。もちろん、優れた目利きではあったでしょうが。

弘仁二年(最澄帰国後6年目)の八月に、泰範は辞任書を最澄に提出しています。それでも最澄は、翌年五月に遺書を公表し、泰範を自分の後継者に指名しています。しかし泰範は、六月に「謹ンデ暇ヲ請フ」という手紙を最澄に送っています。

こんな遣り取りの数ヵ月後に、最澄が空海に懇願して実現した金剛界潅頂が高雄山寺で行われます。最澄一門が揃って参加していますから、当然泰範も最澄に誘われているのですが、泰範は来ませんでした。しかし、その翌月に行われた胎蔵界潅頂には現われました。そして、そのまま高雄山寺、即ち空海の下に残りました。

最澄は弟子の円澄らを空海に託し、泰範も自分が指示したように取り繕いましたが、泰範だけは自発的な行動でした。

《以下引用》
…この時期の泰範の様子をみるに、高雄山寺潅頂以来空海のもとにゆきっきりになって、もはや最澄のもとに帰って来そうにないことが、たれの目にもあきらかになっていた。泰範が空海とその法流に魅せられていることはどうやらたしかなようだが、それにしても最澄とその法流をそこまで好まないというのも、異常なばかりである。たとえば泰範にして密教が好きというなら、天台にも遮那業という密教部門がある。げんに泰範はそれを学ぶために空海のもとに委託生として留学しているのである。叡山にかえっても遮那業に専一できるはずであるのに、そこまで帰ることを拒むというのは、最澄に対する感情であるかともおもえる。それだけに、最澄も、感情的になっていた。
《引用終わり》

泰範あての手紙で、最澄は自分のことを「被棄老」、つまり棄てられた老人と呼んでいます。

最澄と空海の確執については、どちらかと言うと最澄を善玉、空海を悪玉とする傾向があるそうです。しかし、泰範の一件を考慮すると、最澄側にも言い表しにくい「何か」があったような気がします。

《つづく》


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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十四」を読みました。

最澄という人は、飽くまでも日本国内の人という感じがします。唐に渡っても、長安に立ち寄りもせず、必要な書物の収集に専念しました。密教の伝法にしても、おそらく空海が恵果から二カ月足らずで受け継いだ点だけに着目し、自分もそれで済むと思っている。

《以下引用》
最澄は、天台という顕教をすてて真言という密教に転身する気はなかった。ただかれは国家が正規に採用したかれの天台宗において、採用試験の部門に国家の要請で(おそらく)「遮那業」という密教科を入れたため、責任上、自分自身がそれを学ばねばならぬとしているだけのことなのである。できれば資格だけほしかった。
《引用終わり》

書物だけで習得するのが、日本では当たり前だったのかもしれません。でも、中国でもインドでも、それは通用しませんでした。

空海はグローバルな人でした。漢語もこなし、サンスクリット語さえも理解する。密教にしても何十年と独習している。その卓越した能力があればこそ、伝法も二カ月で済んだのです。恵果千人の門人で伝法灌頂を受けたのは6人だけということですから、その他の人は何年修行しようがだめだったのです。

能力主義だったと言えるかと思います。それを思えば、「あと何カ月で伝法してもらえますか?」という最澄の質問は非常識です。私なら「それはあなたしだいでしょう!」と答えますが、空海は「三年」と答えました。これは親切と言うべきか不親切と言うべきか。

根本的に視点が違うので、二人の亀裂は深まるばかりです。

《つづく》


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