トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:時間

ブログネタ
ブログを書いていてよかったことはありますか? に参加中!
私のブログを読んで下さった方から言われました。
「娘さんたち、幸せですね。大きくなってから、このブログ読んだりするでしょうから。ブログってきっと無くなったりしないでしょう?」

正直、ドキリとしました。そんな先まで考えてなかった。そんな状況を想定してなかった。自分が死んでからも読まれたりするんだろうか…

年齢とともに時間が速くなります。一瞬一瞬の感覚も希薄になります。「自分」というものが希薄になっているような気がします。

息が出入りするほどに、飲み水が入って出ていくほどに、食べ物が入って出ていくほどに…時が通り過ぎて行くほどに…「自分」がどんどん希釈されているような気がします。現実の「自分」が。

一方、日々更新のブログは日に日に大きくなっている。

小説家にしろ芸術家にしろ、自分の作品を大抵「我が子」に例えるけれど、私にとって私のブログは「私自身」です。なぜなら、私だけの言葉を綴ったものであって、妻と相談して書いているわけではないから。

仮想世界で成長し続けるもう一人の「自分」。いろいろな人からのアクセスに応じて、「私」の言葉を発していく。他ならぬ「自分」でありながら、読み返してみると、そこに確かな「自分」を発見したりする。

薄まりすぎた現実の「自分」が、本来の「自分」を探しに仮想世界に訪れることがある。デジタイズされた、希釈されない「自分」は、現実の「自分」よりも確固としている。しかもこの「自分」は死なないかもしれない。

大人になった娘たちに語りかけるかもしれない…

あー、やだやだ、遺書を書いてるような気になってきた。今日は、これくらいにしておきます。
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ブログネタ
爆笑問題 に参加中!
NHK「爆笑問題のニッポンの教養#76」(6月23日放送分)を見ました。実験心理学の一川誠先生でした。今回は無難に終わってつまんなかった。

前回は空間認識にまで思いを馳せました。今回は時間認識ということで、話がつながってると言えばつながってます。

最近は電波時計も珍しくなくなってきて、時計がくるうということすら無くなってきている。時間が絶対的なものだという錯覚を犯しやすくなっているような気がします。

歳とともに時間が経つのが速く感じるのは誰しも気づくことです。「ゾウの時間」とか「ネズミの時間」というのもあるらしい。「子どもの時間」とか「大人の時間」とか、こういう感覚は大切にしたいものです。

私たちの時計はセシウム原子を使った原子時計によって決められています。私たちの社会は「セシウムの時間」で動いているということでしょうか。

セシウムが一番正確だということなんですが、こんなにいろいろ時間があるのに、「正確」だという意味がわかりません。家族で一緒に歩いてるときに、「お父さんのペースに合わせよう!」ということはあるけど、「お父さんのペースが一番正確だ!」という言い方は変ですよね。

時間軸というのは「ひとつの座標軸として最も信頼できる絶対的なもの」と思いがちなのですが、実はこれほど胡散臭いものは無いかもしれません。

うちの妻は、時計を5分くらい進めておかないと気がすまない人です。だから、電波時計は大嫌い。でも、それが人間臭くて、いいかな…

《つづく》
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ブログネタ
アカデミックな日常。 に参加中!
第15章「人間の進歩・幸福に不可欠な「徳育と知育」」を読みました。

《以下引用》…これまで考慮の対象にならなかった重要な経験的要素として、時間の心理的な価値がある。幼年時代とそれ以後の時代とでは、時間の価値は同じではない。子どもにとっての一年は、生理学的にも心理学的な面でも大人の一年よりはるかに長い。十歳の子どもの一年は二十歳の大人の二年分に相当する。年齢がもっと低くなれば、この差はさらに大きくなる。
 三歳から七歳のあいだに流れる時間は、大人で言えば、おそらくは十五年から二十年にあたるだろう。ところで、将来の人生に起きる、あらゆる出来事に対応していくための精神的枠組み、とくに自分の道徳律を子どもが築き上げるのは、まさにこの時期と言える。だからこそ、生まれて数年のあいだに、かなりの量の知識が蓄えられていくのだ。親や教育者は、ぜひこの点を肝に銘じていただきたい。…《引用終わり》


著者のご専門はまさにこの部分です。生理学的時間を算出する方程式の考案者なのですから。そんなわけで、ここはメモらせていただきました。この定量化が妥当かはわかりませんが、早い時期の教育がいかに有効であるかは、子どもに接していると毎日気づくことがあります。

《以下引用》…基本的な原理は一つであっても、その提起のしかたや展開の方法は、学ぶ側の器にあわせなくてはならない。学ぶ側には、「教えの精神」を汲み取ってもらわねばならない。同じ言葉を使ったからといって、ポリネシア人や高校生や大学生に同じ結果をもたらすとはかぎらない。…《引用終わり》

この本は異教徒や途上国の人に対して侮蔑的な表現が多く、とても気になります。その辺は目をつぶって上の文章を読みますと、これって「方便」だよね!と思いました。

《つづく》
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