トトガノート

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Tag:文殊師利

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「智光明荘厳経」の「三 如来の本質――みずからさとり、他をしてさとらせる」の後半と「四 如来の讃嘆」を読みました。

菩薩行(さとりへの道)

どうすれば菩薩としての実践(菩薩行)を行じることになるか?以下のようにすればよい。

もろもろの現象を滅尽するために慢心を起こさないのでもなく、滅尽しないためにでもなく、生ずるためにでもなく、究極的に滅尽しているものを滅尽するためにでもなく、また、究極的に生じないものを壊すために、慢心を起こさないのでもない。

過去心をすでに滅尽したものとして修習せず、未来心をまだ得ないものとして修習せず、現在心を現にあるものとして修習しないで、過去・未来・現在の心に執着しない。

六波羅蜜(布施・戒・忍耐・精進努力・禅定・般若の知恵)・菩提・衆生・如来を、無二で、二分できないと見る。

形あるもの・感受作用・表象作用・その他の心作用・主体的認識作用は、空とも修習せず、空ではないとも修習しない。

滅尽とは究極的に尽きているもの(畢竟尽)、それは尽くさるべきものではないから無尽である。この如実に尽きているものには、ほんの少しも尽きるものがない。それは無為、即ち生・住・滅という諸条件によってできた現象の特質を離れた絶対そのものである。それは不生・不滅だからである。ゆえに「如来がこの世に出現しても、あるいは出現しなくても、この、ものの本質(法性)、真理の確立性(法住)、ものの根元(法界)はまったく確立している」と言われる。ものの根元に安住すれば、その知は進みはたらくこともなく、あともどりすることもない。漏れ出る汚れは生ずることもなく、滅することもない。

さとりは滅尽(心の汚れを滅尽すること)と言われるけれども、それは言語表現、音声、文字、ことばの上のとりきめにすぎず、そこにはなんら生滅するものはない。

《つづく》
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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「智光明荘厳経」の「三 如来の本質――みずからさとり、他をしてさとらせる」の後半を読みました。

さとりの特質――十六種

文殊師利:如来はどのようにして菩提を得られたのですか?
世尊:如来は根もなく(無根)、よりどころもなくて(無住)、菩提を得たのです。

文殊師利:根とは何ですか?
世尊:身体が実在するという見方(有身見)が根である。誤った判断(虚妄分別)が拠り所である。如来は、菩提の平等性によって全ての現象の平等性を知る。それゆえ、如来は根もなく、拠り所もなくして、菩提を正しく完全にさとられた…

1.
菩提は寂静(内的感官)であり、外的感官は付随的寂静である。
眼は、我・わがもののいずれとしても空(無実体)であり、それが本性であるから寂静と言われる。人は空であることを知り、眼の対象たる諸々の物を追いかけない。以下、耳・鼻・舌・身・意について同様の記述。

2.
菩提は本性なるもので、汚れがなく、虚空と等しい。ゆえに、本性として光り輝いている(自性明浄)。

3.
菩提は何ものも取らず(不取)、何ものも捨てない(不捨)。不取性とは、すべての現象に対し執着しないこと。不捨性とは、すべての現象をひとつも捨棄しないこと。

4.
菩提には認識の根拠もなく(無因相)、対象もない(無所縁)。根拠なしとは、眼識(眼という感官によって知るはたらき)・耳識・鼻識・舌識・身識・意識が知覚されないこと。対象なしとは、対象の形を見ないこと、音声を聞かないこと、香りを嗅がないこと、味わわないこと、触れないこと、現象一般(法)を認識しないこと。

5.
菩提は過去を思惟せず、未来に対して慢心を起こさず、現在に対して多様で個別的な誤った考え方をしない。

6.
菩提は無身(眼・耳・鼻・舌・身・意の感官によって認識されない)であり、無為(諸条件によって条件づけられたのでない絶対:心・意・認識によって認識不可能なもの:生起も存続も消滅もない)である。

7.
菩提は無差別なよりどころである。以下、無差別とよりどころの組み合わせを列挙。
・名もないこと、真如
・一箇所にとどまらないこと、法界(すべての現象の根元あるいは本質)
・差異がないこと、真実なるものの極限
・無知覚(不可得)、不動
・空性(実体のないこと)、無相(根拠となる特質をもたないこと)
・無分別、無願(願い求むべきもののないこと)
・完成するもののないこと、衆生のないこと
・衆生の固有の性質のないこと、虚空
・無知覚、衆生
・無滅、無為
・所行のないこと、さとり
・寂静、涅槃
・形成のないこと、生起のないこと

8.
菩提は身体によっても心によっても明らかにさとれるものではない。身体は無情の物質で、不動で、精神がないからである。心は幻のごとくであって、無核、無実(空っぽ)で、実在せず、作られないからである。

9.
菩提はどんなものによっても表現することはできない。菩提には、それによって語句や会話が成立するようなよりどころが一つも存在しないからである。

10.
菩提は無取性(感覚的に把握するものがないこと)のもの、無所依性(感覚のはたらく場所・対象がないこと)のものである。(眼・耳・鼻・舌・身・意それぞれについて繰り返してあります。)

11.
菩提は空性の同義語である。菩提は空性はない(空性に関して空である)が、その同じ空性はすべての現象にもまたない。

12.
菩提は虚空と等しい。いづれも、平等でもなく不平等でもない。

13.
菩提とは如実の根拠である。菩提がそうであるように、すべては真如の外に超え出ない。

14.
菩提は形相(行相)にはいることによって、無形相としてとどまる。
・形相とはいっさいの善法を作り出すこと。一箇所に固定しない心の状態。すべての現象について、考え、量り、数え、分けること。もろもろの有為の現象に対する個別的認識。
・無形相とはいっさいのものが知覚されないということ。「すべての存在は根拠となる特質をもたない」と観ずる三昧(無相三昧)。なんらの認識作用もなく「量ることを完全に超越する」。諸条件によってつくられたのでない絶対の法。

15.
菩提は無漏(煩悩がこぼれることなく)、無取(執着をもっていない)。
・無漏とは、欲漏(欲望を伴う生存にかかわる汚れ)、有漏(輪廻生存一般にかかわる汚れ)、無明漏(真理に対する無知という汚れ)、見漏(ものの見方にかかわる汚れ)の四漏を離れること。
・無取とは、欲取(欲望に対する執着)、見取(仏教以外のまちがったものの見方に対する執着)、戒禁取(異教徒の戒律や禁制に対する執着)、我語取(我ありという執着)の四取を離れること。

16.
菩提は清浄、無垢、無汚点である。
・清浄とは、実体のないこと(空性)。本性。無戯論。真如。天空。内をよく知ること。など。
・無垢とは、根拠となる特質のないこと(無相)。完全清浄。離戯論。法界(ものの根元)。中空。外に活動しないこと。など。
・無汚点とは、願い求めるもののないこと(無願)。明浄(光り輝くこと)。戯論寂滅。実際(真実の極限)。低空。内外を知覚しないこと。など。

《つづく》
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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「智光明荘厳経」の「三 如来の本質――みずからさとり、他をしてさとらせる」の前半を読みました。

一切の現象をあらしめる本質――さとりの意義

如来は全ての現象の平等性の極限、無二性の極限、出生することのないものの極限であって、常にいたるところで平等であり、分け隔てせず、差別しない。すべての現象もまた同様である。なぜなら、すべての現象は知覚されない(不可得)からである。それは平等性であり、安定性であり、不動性であり、何ものにも依存しないということである。

すべての現象に依存しない心には固定した住処はなく、不生となる。そのような心は転倒せず、ものごとをありのままに理解し、誤って行動することもない。ものの本質(法性)と矛盾せず、すべてのものに随順し、ものの本性(自性)から乖離しない。ものの本性を得たものは少しも拡散しない。なぜなら、すべてのものは原因(因)と諸条件(縁)とによって生ずるからである。

原因や諸条件によって生ずるものは究極的に不生である。そのような人はさとりへの決定を得、すべての現象を思惟することと同一の基盤には立たない。そのときには、依存すべき何ものもなく、何も出現せず、消滅することもない。そのとき、人はものの本性に基づきつつ真理を体得する。はじめて道理に従って(如理)、真理に安住する。この人にとっては、どんな現象といえども仏の徳性ならざるものは何一つとしてない。すべてのものが実体をもたないこと(空性)をさとること、それが菩提にほかならない。

その人が、すべてのものが実体をもたないこと、根拠となる特質をもたないこと(無相)、願い求むべきものをもたないこと(無願)、形成さるべきものをもたないこと(無行)、依拠すべきところのないこと、出現のないこと、取りつくもののないこと、よりどころをもたないこと、をさとるゆえに菩提であって、菩提とは道理に従って修行することである。

それは、すべての現象が上昇することもなく、安定することもなく、所作もなく浄化もないと見て修行すること。束縛もなく、解放もないと見て修行すること。一でもなく、多でもないと見て修行すること。くることがないと見て修行すること。

如実に修行するものには、修行すべきこともなく、断ずべきものもなく、修行の果の達成もない。なぜなら、心は本来、光り輝いているからである。一時的に付着した煩悩(客塵)によって汚染されているけれども、本性としては汚染されたものではない。したがって煩悩を断つべき対治者も必要ではない。本性として清浄であり、浄化する必要もなく、無生であり、非難されないものであり、欲望を断じたものである。そこではすべての根元的執着(渇愛)が消滅し、それが煩悩の不生であり、不生なるものが菩提である。

菩提なるものは平等性であり、ありのままなること(真如)である。このことにおいて、もろもろの縁によって生じた生・住・滅を特質とする有為の諸現象のすべてと、生・住・滅を超越した無為の諸存在のすべてとが、ともに成り立つ。有為と無為はありのままなることにおいて成り立つから、ありのままなること(自体)には有為も無為もなく、両者を仮設することもない。それが、ありのままなることである。

ありのままなることは、それ以外のあり方ではないという意味で真如である。変化しない、くることがない、去ることがない、あるがままなる真如である。それは一つとして真如ならざるものはないということであり、汚れもせず、浄められもしない。生ずることも滅することもなく、涅槃と平等である。生死輪廻もせず、完全な涅槃に入らないもの、それは過去のものでもなく、未来のものでもなく、現在のものでもない。下でも中でも上でもないもの、それがありのままなること、即ち真如であり、真実の意義の同義語である。

ありのままの真実(真如真実)こそが真如であり、如来たるわれと無二である。われと真如を分ちえないこと、それが菩提であり、真実の意義をさとることである。真実の意義とは、すべての如来の所説の教えにおいて、すべての存在には実体のないこと、根拠となる特質のないこと、願い求むべきもののないこと、の三つの解脱に至る門に入ることを知ることである。すべての現象が三世にわたって平等であること、無差別であることを悟入することである。音声なく、言語表現なく、ことばなく、ことばを断じたものである。

知るとは、以上のように意義をさとる知と、意義内容という対象を知る知り手としての認識主体をさとる知とである。それこそがもの(法)の本質を知ることにほかならない。意義をさとる知と、認識主体をさとる知と、究極完全なる意義(了義)を覚知する知、この3つによってさとるものがものの本質である。これが真理の確立性(法住)であり、真理の決定性(法位)であり、ものにおいてはたらかない。ものにおいてはたらかないことと、意義とそれを表現する語句の平等性ということとは、無二という意義によって平等である。
それが無二の門にはいることによる平等性の知である。

教えの究極・完全なる意義と不完全なる意義(未了義)とは、平等なることにおいて意義が等しいこと、それが空性(即ち現象の無実体性)である。空性においては、意義の平等性、人の平等性、法の平等性、解脱の平等性が平等である。解脱の平等性をさとることこそが菩提にほかならない。

さとりの因――汚れと浄め

×対象の色かたち(色)への執着。
○色かたちと、それを見る眼との固有の性質(自性)を知る。

×固定した見方に執着。
○すべての見方はそれ自体が本来無実体であることを知る。

×道理にかなわない心のはたらかせ方(非如理作意)に執着する。
○道理にかなった心のはたらかせ方(如理作意)にもとづいて観察し、その固有の性質は本来存在しない(自性空)と知る。

×疑惑の垢に対する執着。
○疑惑をもたずに素直に心を傾け、信頼する。

×懈怠の垢に執着。
○法をありのままに証得する。

本来は清浄であるすべての現象は、因と縁との集積から生起する。菩薩は、心を汚す現象(迷いの世界)の原因たるものと、心を浄める現象(さとりの世界)の原因たるものとを見分けるべきである。しかも、汚れの因も浄めの因も本来は清浄なのだから、どちらにもとどこおるべきではない。

×我(アートマン)の観念を生起せしめ、固定した見方をする。
○すべての現象は、それを個物たらしめる固定的な実体をもたない(無我)とさとる。

×自分には固定的な実体があると固執すること(我慢)。自己の本体はかくありと固定的に見ること(我見)。
○内に向かっては心を鎮め(内寂静)。外に向かっては心をはたらかせない(外不行)。

×愛欲や怒りの心や害心や理論的考察(覚)。
○人が通常愛着を抱くすべての現象は不浄で嫌悪すべきものと観ずること(不浄観)。すべてのものに対し量り知れないほどの慈しみ、共感、喜びを抱き、特定のものに対する関心を捨てること。縁の法に悟入すること。

×無常を常と思い、苦を楽と思い、無我を我(アートマン)と思い、不浄なのに好ましいと思う四転倒(転は常用外の字を使うのが本当)。
○この身体は不浄、感覚は苦、心は無常、すべての現象には固定した実体がないと考える4種の憶念すべき基盤(四念処)。

×愛欲、怒り、睡眠、心のたかぶりや後悔、疑惑という5種の心を蔽う妨げ(五蓋)。
○信ずること、努力精進すること、教えを憶念すること、心を安定集中させること、正しき知恵という5種の能力(五根)。

×眼・耳・鼻・舌・身・意という6つの認識の入口(六入)。
○仏・その法・その法を実践する教団・おきて・世間的欲望の放棄・神格についての憶念という六随念。

×七種の正しからざる法
○教えを憶念すること、正しい法を選ぶこと、努力精進、歓喜、心の平安、心の安定集中、特定のものへの関心を捨てることという7種の覚りの条件(七覚支)

×八不正事(邪見・邪思・邪語などの八法?)
○八正法(おそらく八正道:八見・八思惟・八語・八業・八命・八精進・八念・八定)

×九悩事:私に不利益なことを行った、行うであろう、現に行っている。私の愛するもの好むものに対して不利益なことを行った、行うであろう、現に行っている。私の愛さざるもの好ましからざるものに対して利益を行った、行うであろう、現に行っている。
○九種の禅定の段階

×十種の不善の行為(殺生、盗み、など)
○十種の善行(不殺生など)

《つづく》

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「智光明荘厳経」の「一 序章」「二 不生・不滅の法門――九つの比喩」を読みました。

不生・不滅とはどんな法を説明することばですか?というマンジュシリー(文殊師利)の問いに、世尊が答えます。

1.インドラ神の影像
神々の王シャクラの影像は動かず、思惟することもなく、妄想することもなく、主客に分けて構想もせず、誤った判断(虚妄分別)もしない。

これと同じように、如来も構想もなく、誤った判断もなく、思惟もなく、心をはたらかすこともなく、寂静・清涼であり、生なく、滅なく、見られず、聞かれず、嗅がれず、味わわれず、触れられず、相(すがた)もなく、表徴もなく、認識もされない。

如来は不生をよりどころとするけれども、鏡の中に姿が映るように世間に姿を現わす。衆生たちの心の傾け方に応じて、姿の差異や寿命の長短の差異を示して、衆生を成熟せしめ、信仰の力によって悟りを望む器となった衆生たちには影像を現わす。

2.天の太鼓
「華厳経如来性起品」(如来の音声の第三喩)参照

三十三天の神々の大法鼓と同じように…

如来もまた不可視、不可見、非存在、不生で、思い及ばず、無心であり、相(すがた)もなく、形あるものでもなく、音声もなく、実体もなく、無二であって、視野を超えているにもかかわらず、衆生たちの前世の業が成熟すると、彼らの望みや意向に応じて、法の音声を授ける。

如来は存在することがないのに、世間は法の言葉によって、如来という想念を生ずる。衆生たちの前世の善業が成熟すると、それを如来から出た音声であると普く知る。

3.雨雲
「華厳経如来性起品」(如来の音声の第七喩)参照

雨を観察して世間では雲という想念が生ずるが、実際には雲は不現であり、不生・不滅・非存在である。そんな雨雲と同じように…

如来はそもそものはじめから完全な涅槃の境地に入っているのだ。実在することはない。
法を説くのを見て、如来が在(おわ)すとの想念が生ずるのである。

4.梵天
「華厳経如来性起品」(如来の可見の身の第七喩)参照

三千大千世界を支配する梵天と同じように…

如来は空にして虚、生起することなく、文字もなく、音声もなく、はたらく場所もなく、実体もなく、思議も及ばず、根拠となる特質もなく、心・意(おもい)・認識を離れ、不生・不滅である。しかし、衆生たちの善根の集積の力で、如来の住居から動くことなく、あらゆる(行・住・坐・臥の)行動の型をもって、鏡に影像が映るように、世間に出現する。

5.日光
「華厳経如来性起品」(如来の可見の身の第四喩)参照

日光のように…

如来という日輪の放つ知恵の光線はあれこれ分け隔てしないけれども、大地の高・下・中の差異によって、光明も大・小・中の種々の光線となる。

6.如意宝珠
「華厳経如来性起品」(如来の可見の身の第十喩)参照

大海中にある「一切の望みをよく成就させるもの」と呼ばれる宝珠のように…

如来の深い志は純浄なる知恵という宝で、それを大いなるあわれみという幢(はたほこ)の頂に置けば、そこからいかなる衆生であれ、その衆生の志と心の傾け方に応じて、それにかなった教えを説き、衆生たちに普く知らせるが、彼らに対しても全てに平等であって差別しない。

7.こだま
「華厳経如来性起品」(如来の音声の第二喩)参照

こだまのように…

種々の深い志をもつ衆生たちの、言語や、その他種々の報知から(それに反響するように?)、こだまの種々の音声が生じ、ありのままに普く知れわたる。

8.大地

草・木・森林は大地に依存し、大地に根をおろして生長・増大・広大となるように…

全ての衆生たちの一切の善根は如来に依存し、如来に安住して成長する。如来は分け隔てがなく平等である。

9.虚空
「華厳経如来性起品」(如来の可見の身の第二喩)参照

虚空のように…

如来も全てに対して平等で、分け隔てせず、差別せず、不生・不滅であり、過去でもなく、未来でもなく、現在でもなく、根拠となる特質もなく、あれこれ誤った考えもなく、形もなく…である。

最後の一節が面白かったので引用します。
《以下引用》
…如来は、「この衆生は戒、もしくは忍耐、もしくは精進、もしくは禅定に心を傾けているから、この衆生には戒、もしくは忍耐、ないし禅定の法話を説くべきである」とは考えない。…如来は「この衆生は究極・完全なる知恵(般若波羅蜜)に心を傾けているから、この衆生には究極・完全なる知恵について法話を説くべきである」とも思わない。…如来には、そのような分けへだての心はまったくないのである。…如来は真理(法)を体とするもの(法身)であるから、…如来は完全に不生・不滅なのである。
《引用終わり》

《つづく》
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