トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:文明

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数学の教材G教材を先日から始めました。最初はF教材までの復習ということで整数・分数の四則演算があります。足し算・引き算はとっても苦戦しました。これからどんどん大変になるぞ…と心配になりました。

ところが掛け算・割り算が入ってくるとむしろ楽になりました。さらに、G教材で新しく学ぶこととして負の数とか指数とか出てくるわけですが、こういった高級な具材が入ってくるほどむしろ楽になってくる。つまり、頭を使わないような気がする。

掛け算は繰り返しの足し算を瞬時のうちにやってしまうわけですから、足し算よりも難しいという先入観があります。少なくとも、その原理を理解するためには足し算を理解していることが不可欠です。しかし、その操作自体は暗記した九九でやるだけで、足し算を頭の中で繰り返すことはしません。

逆に言うと、足し算の繰り返しをして掛け算をしない限り、掛け算が足し算より頭を使うということはありません。九九という、足し算のプロセスを排除して結果を丸暗記する方法を用いるのが普通なので、掛け算は足し算より簡単なのです。

指数とか対数とか平方根とか微積分とか、最初に習うときは原理的な説明がなされますが、少なくとも私の場合は、それを理解しようとはしましたが、分かったような分かんないような気分のまま、結局それ以上時間をかけることもできず、やり方だけ分かれば受験は何とかなるから…みたいな感じで通り抜けてきました。

今、思います。文明とはそんなものじゃないだろうか…

車の運転をしない大人は珍しいけれど、自分が乗っている車の設計図が書けたりエンジンを調整したりできる人は少ない。パソコンを使っている人は多いけれど、CPUの出力信号を描ける人は少ない。テレビを見ない人はほとんどいないけれど、テレビの回路図を描ける人はほとんどいない。

プログラミングの世界でオブジェクト指向という言葉があります。私もC++とかjavaのプログラミングに挑戦した時期があり、その時に知りました。いわゆる関数をインターフェースの厳格なモジュールとして組むことによって、中味を気にせずに、ひとつの道具としてプログラムのいろんなところで使えるようにするというもの。

細かい所を気にせずに、どんどんモジュールを組み上げて、大きなプログラムが作れるようになるので生産性が上がります。

車に乗る、パソコンを使う、テレビを見る…細かい所を気にしないから、便利な生活ができるのです。

もちろん、そこに首を突っ込まなければいけない事態もあり得ますし、それを仕事にしている人もいます。でも、大抵はそうしなくてもいいから、文明なんじゃないだろうか?

計算ができるだけじゃダメだろう…という批判も間違いではないかもしれないけれど、計算だけにしておかないと計算すらする時間が無くなってしまうのが現実ではないでしょうか?

例えば…あなたは円周率を自分で算出できますか?「パイ」とか「3.14」で済ませておかないと、ひとつも問題が解けませんよね。
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先日書いた記事の逆を書いてみます。

一番わかりやすいのは生活習慣病です。私たちの体は、ある程度の運動をすることで血行が保たれ、筋肉や骨の脆弱化を防ぐようにできています。文明が開ける前は、ギリギリの高負荷運動を強いられ、飽きるくらい有酸素運動をして、やっとそれに見合うかどうかのカロリーを含む食事にありついていました。このバランスを崩して、生活習慣病なるものを誘発させているのは他ならぬ文明です。

健康に関する限り、文明が人類の自己改善に寄与しているとは必ずしも言えません。

さてここで、とても重要なことに人類は気付くべきかもしれません。この文明が開ける前の暮らしを続ける中で、私たちの知能は発達してきたということです。文明は、私たちの知能発達には寄与してくれているんだろうか?

これを疑う人はいないかもしれません。つまり、竪穴式住居で火を起こしての生活と、都会での忙しい生活と、どっちが頭にいいか?日々限界に挑戦し、難しい問題に頭を悩ませていると、どんどん頭が良くなるような気がしますよね。

でも、本当にそうなんでしょうか?

頭が活性化するのは、本を音読したりとか、手先を使ったりとか、比較的簡単にできることを何度も反復するとか、…と最近は言われています。だから、高度な文明にドップリ浸かった生活が、脳を活性化させるとは必ずしも言えないのではないか?私たちの脳は産業革命とかIT革命とかの後に発達したのではなくて、竪穴式住居にいたころ(あるいはもっと昔)により顕著に発達したのだということを再考するべきではないか…と思うのです。

体の単純作業は機械化できる。頭の単純作業はコンピュータにさせればよい。それでできた余暇で、人間はもっと高いレベルの問題に取り組むんだ!という方針で、我々の今の文明は走っていると思うんですが…

これって、体と頭のトレーニングを怠ることになりませんか?つまり、体も頭もどんどん軟弱になっているのかもしれません。難しい仕事ばかりしているとバカになるかも…職業病?

政治家をやっていると頭が悪くなるんじゃないか?とは、かねがね思っていることです。一方、毎日単純作業の繰り返しをしている農家のおばちゃんたちの頭の良さ(おまけに人も良い)にはいつも驚きます。
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第11章「人間の知性が「本能」を克服するとき」を読みました。

私はどうもしっくり来ないのですが、人間の知性は動物の本能や知性の延長ではないということをこの章でも強く主張しています。それを顕著に示す例が、人間のみが持っている抽象的概念だそうです。

《以下引用》…たとえば子どもが使う丸いボールを例にとってみよう。…動物は、ボールに対する自分なりの「定義」にすっかり満足する。この定義は、その動物がボールから期待するものと一致しているし、おそらくは子どもや原始人がくだす定義と違ってはいないだろう。
 ところが知性をもつ人間は、ボールの特性をいくら言葉で言い表したとしても、そんな定義には満足しない。動物と人間の二種類の知性のあいだに根本的な差が生じるのはこの点だ。
 人は、現実のボールをもとに、幾何学的な特性を備えた理想のボール、ただしその特性が限界にまで突き詰められた絶対的に完全なボールを想像すること、言い換えればそのようなボールを創造することからはじめる。人はその理想のボールに、形状にまつわる特性だけを与え、ボールの実体、つまり色や硬度、重さ、弾力性などに関する特性は排除する。と言うのも、このような特性は、別の形をした他の物体にも見られるからだ。…そして人は…最後に、この新しい対象を完全に「理解する」ために、大きさも質量ももたない目に見えない要素を考案する。この要素はこれまで一度も存在せず、いまも、そして今後も現実に存在することはないが、球体を定義するには絶対に欠かせない要素であり、それなしに球体を思い描くことができない。この奇妙な要素が「中心」である。そしてこの「中心」という人間独自の考え方が、抽象的な観念にほかならない。《引用終わり》


でも、やっぱり動物の知性の延長ではないという根拠にはならないと思うんだな…。子供は動物と同じなんでしょう?大人の知性は子どもの知性の延長ということにはならないのかな…?

《つづく》
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第10章「「自己改善」の手段としての文明」を読みました。

《以下引用》…文明の真の目的は、物理的な努力を軽減するような、珍妙な機械を考え出すことではなく、あらゆる方法で人間の自己改善を助けることであるべきだ。そうしてこそ文明は進化のメカニズムとなり、持続していく。なぜなら文明の堅固さは、すべての個人個人の力が組み合わされるかどうかにかかっているからだ。文明とは、外側からではなく、内側から作り上げられなくてはならない。機械の発達や技術的な解決に頼る文明は、なんであれ、必ず失敗を招くのである。…《引用終わり》

現在でも十分通用する警鐘のように思います。この文に第二次大戦の反省も入っているとすると、我々はあの大戦でやはり何も学べなかったのかもしれない。

《以下引用》…人間はみずからを束縛から解放しなくてはならない。この束縛は、動物にとってはあたりまえであり、だからこそ人間にとっては悪なのである。人間がみずからの目的を達するには、肉体の完全な支配が必要とされる。その目的は、いかなるかたちの隷従とも相容れない。だが、もしもこのような本能―動物との心理学的な血縁関係に由来する本能―が克服されれば、それは、もはや恐れるにたりなくなる。恋愛、飲食、娯楽は、節度を守るかぎり、それ自体なんら非難されるべき行為ではない。この「節度」という言葉は、良心、つまり人間的尊厳の意識という調節弁を意味する。不節制とは、まさにこの調節弁が壊れ、野獣性が勝利をおさめることにほかならない。…《引用終わり》

こういう説教を聞かされたのは、小中学生のころかな…でも、大事なことなんだな…

《以下引用》…終局的究極目的論でいう道徳性は、人生から満足や健全な楽しみを奪うどころか、逆に真の人間としてふるまったり欲望や本能への隷属を脱したりすることによっていっそうの満足を与え、人生を豊かにしてくれる。この自由の感情は、みずからが進化の発展に貢献しているという確信と結び付いて、人間に無尽蔵の喜びの源泉をもたらしてくれるにちがいない。この喜びは、人間の生理学的な性向や健康状態とは無関係であるため、他の喜びよりも深く、長続きしていく。…《引用終わり》

人類の進化を背負って日々行動するということか…重いな…

《つづく》
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