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こんな私でもたまには部屋の掃除をします。忙しくない時には「できれば毎日したい!」と思います。

でも忙しくなると、「一日おきにしてもそんなに変わりはないし、手間は半分になるわけだから2倍の効率化になるんじゃないか?」と思い始めます。

「一日おきでも結構きれいなもんだな…二日おきにして効率を3倍にするか!」と思いつきます。

あとは想像に難くないと思いますが、間隔がしだいに空いて、「最後に掃除したのはいつだっけ?」という状態。そしてどんどん汚くなって、ふりだしに戻る…この繰り返しです。

「明日掃除をするのなら、今日掃除をするのは無駄」という考え方をしていたら、掃除なんてする気になりませんね。

最近、掃除をしながら思うのです。部屋がきれいであることは重要ではないのではないか?と。重要なのは部屋をきれいにしようとすること、そうしようとする心を持ち続けること、そういう行為を続けること。部屋がきれいであることはそれに付随してたまたま起こる結果であり、二次的な現象ではないのか?少なくともこういう考え方もアリじゃないだろうか?

現代人の捉え方は、あたりまえな話ですが、掃除は部屋をきれいにすることが主目的です。明日きれいにするのなら今日きれいにすることは無駄。今日掃除をしたあとに汚くなるのなら今日の掃除はしても無駄。つまり、意味が無い。

さて、生きる意味です。人生についても現代人は同じスタンスで測ろうとしていませんかね。人生の目的として、何かを作ることとか、有形無形を問わず何かを設定して、それを達成できたとき自分の人生に意味があったと評価する。

でも違うんじゃないだろうか。自分らしく生きようとすること、それだけなんじゃないだろうか?息が途絶えるまで夢中で自分らしくいられたら、何も目標達成できなくてもいいんじゃないだろうか?

生きるとは、「何(what)をしたか?」ではなくて、「いかに(how)生きたか?」ではないだろうか。うまく言い表せないのだけれど…

えんえんと砂の山を築くこと。それで自分らしさを発現し、かすかな喜びを感じることができればいい。せっかく積み上げた楼閣が波に消え去ろうとも、積み上げることに喜びを感じたのであれば無駄ではなかったはず。また、ゼロから積み上げればいい。

息絶えたとき、砂の山が高いからいいとか低いからダメとか言うものではない。高さには意味がないはず。だって、みんな違う高さに生まれ落ちて、スタートしてるんだから。

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