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「ザ!世界仰天ニュース」で、高松市議会議員岡野朱里子さんに関する内容(2月24日放送分)を見ました。例によって、よその家で。

拒食症を克服して市議会議員にまでなった岡野さんですが、固く閉じた心を開かせた最初のきっかけはオーストラリアの精神科医の一言でした。

「犯人捜しをするのはやめよう。君が悪いのでもない、お母さんが悪いのでもない、社会が悪いのでもない。今の君にとって最善の未来だけを見つめて生きよう。死ぬ前に…生きているうちに僕の前に現れてくれてありがとう。」

…というような言葉だったと思います。異国の人が異国の言葉で語りかけたのも良かったんでしょうね。日本の街角で突然出会ったオジサンにこんなこと言われたら気持ち悪いね。

結局そうは言いながらも、心を開いた朱里子さんは、幼いころにトラウマとなっていた母への不満をぶちまけるようになります。つまり、お母さんのせいになってしまいました。親を責める娘ほど怖いものは無いと思うのですが、それを真っ向から受け止めて耐え続けた母…すごいですね。

そんなわけで、キーワードのようで全然キーワードではなかったのが前掲の精神科医のセリフです。でも、なぜか、私には感動的に響きました。

犯人捜しをするのはやめよう。誰のせいでもない。もちろん、あなたのせいでもない。

別に悩みがあったわけでも、誰かを責めたり、自分を責めたりしていたわけでもないんですが、このフレーズを頭の中で繰り返すだけで心がグーッと緩んでいくような感じがしました。

現代社会では、問題が起こると、まず責任論から始まります。誰が悪いのか?

トヨタの問題でもそうでした。リコールの決定権はアメリカにあったのか、日本にあったのか。アメリカは、日本のせいであることを強調します。

思えば、竜馬の時代、幕府との交渉で、ペリーは幕府側の責任者が誰なのか不明確だと不満を言ったそうです。江戸幕府という組織では、責任の所在が明らかでなかったようなのです。

これは、未発達の組織であると言えるかもしれません。少なくともペリーはそう思っただろうし、今日の先進国の人々もほとんどがそう思うでしょう。

でも、責任の所在を明確にするということは、「責任者」が他の人に責任転嫁できなくなるということではありますが、「責任者」に責任者以外の人が責任転嫁する行為でもあります。「責任者」のせいにだけしてしまっていいのか?という良心の呵責のようなものが、幕府の組織としての発達を阻んでいたとは言えないでしょうか?

「だれかのせいにする」ということはビジネスの上では重要なのですが、病んだ人を癒すときにはタブーなのです。この「せいくらべ」が得意だったペリーの国と、「せいくらべ」が苦手だった江戸幕府の国とで、どちらが良い国だったかは一概には決められないように思います。

ただ、アメリカと同じアングロサクソンの国の精神科医が、「せいくらべ」をするのはやめようと言ったというのが、新鮮でもあり奇異でもありました。