トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:小泉純一郎

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先日、「自民党」という大樹から離れられない議員の弱さについて少し触れました。そこで思い出したのは、私が小泉純一郎という人を素敵だと思ってしまうのはそういう弱さを彼が全く持たないからだ、ということ。

以前、猪瀬直樹さんの講演で聞きました。小泉さんが総理になるずっと前から「郵政民営化は正論だが、そんなことを言っていたら総理にはなれないですよ。」と猪瀬さんは忠告していたらしい。でも、「それでなれないのなら、なれなくていい」という考え方。

総理になってからも、郵政解散のときも、その考えを一貫して持っていたと思います。自分のポストなどどうでもいい。それよりも自分の信念の方が大切だ。政治家はそうでなくてはいけないと思う。…まあ、政治家に限らないと思いますけどね。

小泉改革の良し悪しを論じるほど政治経済には詳しくないのですが、それは別として、その精神に男惚れしています。

私は、その精神を四誓偈の中に見つけました。「皆を救えないのなら、仏になど成りません!成っても意味がありません!」という宣言。法蔵菩薩を名のる若いころの阿弥陀さま。カッコイイと思います。

仏教を熱心に信仰している人の中には、「成仏するにはどうすればいい?」とか「往生するとどんな所に行けるの?」とか「成仏すれば本当に楽になれるのか?」とか「どうすれば助けてもらえるか?」とか、そこにばかり興味関心を持つ人が少なくないように感じます。でも、それはダメな自民党議員と同じなんじゃないかと思うのです。

自分のポストに固執するようでは、国会議員たり得ないと思います。国民が苦しんでいても自分が楽しければいいのなら、やはり国会議員たり得ないと思います。

どういう段階になると、成仏と言えるかは分かりませんし、仏教界(?)でも議論が分かれているのではないでしょうか。でも、仏になっても敢えて涅槃(楽な場所)に安住せず、衆生の救済に励むのが仏の道と心得ます。だから、自分が成仏していようがいまいが、楽になれるかなれないかはどうでもいいことでなくてはいけないのではないでしょうか?

自分が成仏したかどうか気にするようでは、仏では有り得ないのではないか?他人が苦しんでいても自分が楽になれればいいというのなら、それは仏では有り得ないのではないか?であるがゆえに仏の教えは尊い。

そういう意味で阿弥陀さまにも男惚れしています。
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どうしようもない政治 に参加中!
日本の政治…本当にどうしようもない状況です。先日ふと湧いた素朴な疑問…小泉純一郎がいいと思って投票して圧勝してできた衆議院なんだから、小泉さんが総理を辞めたら解散すべきなんじゃないだろうか?総理の任期が一政党(自民党)の総裁の任期で区切られるのはおかしいんじゃないか?国会よりも政党の都合が優先されてませんか?…という疑問。

でも、これが政党政治ということなんですね。衆議院の第一党の代表が総理になるという決まりなのでしょう、きっと。だから第一党の都合が優先される。

安倍さん以来、いくら政権が傾いても、総裁をすげかえて生き延びていく。頭を変えてアンパンマンのように強くなるのならまだいいのですが、どんどん弱くなっていく。トカゲはしっぽを切って生き延びていきますが、自民党という生き物は頭を切り捨てて生きていく恐ろしい化け物です。頭を取り換えたら、普通は別人格になると思うんですが。

解散しない理由は、「いま選挙したら負けるから」の一点のようです。聞こえてくるのは「このままでは選挙で戦えない」という悲鳴ばかり。世論調査の結果に即した行動をとる議員がいると、「党として団結しなければいけない時に、勝手な!」という批判。

国民世論を全く無視していながらも強気でいられるのは、現自民党議員は「自民党」という看板を背負わない限り再選はできないから、党に盾突くことはないだろうという確信があるから。

結局、国会議員たちにも自分の生活がありますから、「国民の利益」よりも「自分の再選」の方が大事ということですね。「国民の利益が守れないのなら、自分は国会議員になれなくてもいい!」という気概が無い。国会議員に最も必要な気概だと思うんですけど…

ともかく現状は、一政党の都合だけが優先されている。それが政党政治ゆえならば、政党政治という制度自体を改めるべき時期が来ていると言えそうです。

例えば、選挙の都度、同じ考えを持った人が集まって、政策グループを作り、マニフェストを発表し、選ばれたら任期中はその実現に専念する。その政策に反対する世論が増えてきたら、議会も政策グループも解散する。…そんなやり方もあるんじゃないだろうか。

政党政治という仕組みが、民意を政治に反映させるのに有効な時期もあったのでしょう。しかし、今の日本においては明らかに違っている。国民の意見や利益よりも、一政党の都合が優先されている。

これが、この国の政治をどうしようもなくしている原因のひとつであることは間違いありません。
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憂国 に参加中!
「何でこんな政党が与党なんだ?」「こんな政党を選挙で選んだっけ?」と不思議になって、少し過去を思い出してみました。

今の内閣は郵政選挙の結果がそのまま続いている…頭を何度もすげかえて。確かに、私はあのとき自民党に投票した。「郵政民営化大賛成!」と叫びながら、自民党の大勝に喝采を送った。

でも、違うんだ。私が投票したのは小泉純一郎に対してなのである。「郵政民営化」も大賛成ですが、あのとき私が最も支持した彼のスローガンは「自民党をぶっ壊す」なのです。自民党は大嫌いだが、小泉純一郎は大好きだ。それなのに、「自民党」と書いて投票する違和感を今でも思い出すことができる。

だからワタクシ的には、小泉純一郎が総裁を辞めた時点で、郵政選挙の結果は無効なのだ。

でも最近、「このままでは自民党は壊れてしまう」という声を聞くようになりました。麻生総理が見当違いのことばかりしているからです。就任早々に解散したら、私も間違って自民党に入れたかも知れない。でも、今となっては、冗談でも自民党に入れる気にはならない。

そこで深読みしてみました。実は麻生総理は、「篤姫」の将軍家定のように、馬鹿のふりをしているのだ。彼の真の狙いは「自民党をぶっ壊す」こと。

皮肉にも、小泉純一郎は、選挙で大勝することにより、自民党を元気にしてしまった。「自民党をぶっ壊す」ことには大失敗しているのである。

この宿願は、麻生太郎の大芝居によって、来年早々にも実現しそうな勢いである。あの男、実は、大物なのかもしれない。彼は破壊者小泉の正統な継承者なのだ!きっと!

きょうの言葉:燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや(ツバメやスズメのようなちっぽけな鳥が 鳳 ( おおとり ) の大きな志がわかるはずがない)。

…とでも考えなければ、現状を到底理解することができない。
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悟りへの道 に参加中!
福田政権下でねじれ国会が大騒ぎされていたころ、ある論説を読んでなるほどと思いました。衆参両院が違った意見を持ってこそ両院の存在意義があるのだし、ねじれが無かったら独裁政治の危険性が出てくるわけだから、「ねじれ国会」は民主主義としては望ましい形なのではないか?という意見。

自民党内でのねじれ、政官のねじれをむしろ演出し、逆手にとって積極的に活用していった小泉さんに比べると、雲泥の差だと思います。民主党の偽メール事件があった時に永田さんがストレスを理由に国会に出てこなくなったのですが、この時に小泉さんは「この程度のストレスは、私なんか毎日ですよ」というようなことを言ったと思います。思わずテレビに向かって拍手したのを覚えています。

そもそも世の中というのは、国会に限らず、ねじれが有って当たり前なんじゃないでしょうか?むしろそれが健全な形なんじゃないかと最近思うようになりました。家庭でも同じこと、親と子の世代間のねじれ、嫁姑のねじれ、夫と妻のねじれ…その対立の中でより良い選択を模索していく。

美輪明宏さんの有名な結婚観を思い出しました。「結婚=幸せ」なんていう大嘘を周りが吹き込むから、みんな結婚して失敗したと思うのだ!昔は「結婚=不幸せ」と教えて泣きながら嫁に出したから良かったのだ!

世の中全体が、今、そうなんじゃないでしょうか?スイッチを押せば電気がつくのが当たり前という感覚で家族や仕事先の人にも接するから、ちょっとでも思い通りにいかないとストレスになる。遠足の日は天気になるのが当たり前だと思っていれば、天気にさえもストレスを感じるようになる。

いろんな意見、違った意見の並存状態・アンビバレントな状態を当たり前とする感覚を、仏教徒だった昔の日本人は持っていたのではないかと思います。そこを出発点として、どうやってうまくやっていくかが思案のしどころ。そこに人生の醍醐味がある(んじゃないだろうか)。

ところが、今の人はその出発点で諦めたり、キレたりするのが当たり前だと思っているような気がする。「ご破算で願いましては…」という、まさにこれから始めましょうという段階で本当に「ご破算」にしてしまう人が多い。

若者に限りません。安倍さんも福田さんもそうでしたから。

《つづく》
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 もう20年近く前になると思いますが、西部邁さんの講演(だったと思います)を聴きました。「いまや日本においてマスコミこそが最大の野党であり、世論形成に大きな影響を及ぼしている。むしろ与党よりも強大な権力と言え、大いに警戒すべきである。」という内容だったと記憶しています。この状態に変化が起こったのではないかと私が感じるようになったのは、小泉首相が出現してからです。

 小泉さんという人は誰に何と言われても自分の信念を曲げません。総理になること、そしてその地位を守ることが永田町の常識です。だから、それよりも自分の信念を大切にする人は変人になってしまうわけです。「やると言ったら必ずやる」はリーダーとして大切なことです。いざという時に腰砕けになる大将では、部下は安心してついていけません。こういう人を「変わっている」と言うべきか、変人呼ばわりする価値観が「変わっている」のか?

 拉致問題など政治家やマスコミにとってタブーとされてきたことにも取り組みました。政治記者という人たちも永田町の論理に毒されているようで、最初は小泉首相の批判を行いました。しかし、世論調査を行って国民の小泉支持が明らかになると、急に論調が変わりました。その度に私は、マスコミやそれに出演していた専門家の方々の信念の弱さを感じました。と共に、世論の強さを感じました。そう言えば日本国憲法の原則は国民主権であった…マスコミ主権でも専門家主権でもなかった…。

 そんな矢先、新聞社や放送局での記事捏造事件や不正事件も起きて、マスコミに対する信頼も無くなりました。以前は、「この放送局のキャスターがこう言ってるんだから、そう考えるのが本当なのだろう」とか「この新聞がこう書いているんだから…」というのがあり、マスコミを通してオピニオン・リーダーたる有識者の意見に接し、自分の意見を矯正する必要を感じていました。しかし今は、どんな報道機関であろうが、どんなに立派な専門家であろうが、自分と同じ一億分の一の重みしか感じません。

 今回の総選挙の後に、筑紫哲也さんが「今回の選挙結果は我々の考えにそぐわないものであり、我々もこの選挙の敗北者のであることを認めざるを得ない」というようなコメントをされていました。「やっと気付いて下さったか」と思いました。私の一票には、マスコミに対する反対票という意味合いも強く込められていましたから。

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