トトガノート

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対称性

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「空海の夢」(春秋社)
「17.イメージの図像学」を読みました。

《以下引用》
…カイヨワはその著書『反対称』のなかでこのように書いている。「確立された完全な対称の中に、部分的で偶発性のものでない破壊が突如として生ずることがある。この破壊はすでに形成されている平衡を複雑にする。このような破壊が厳密な意味での反対称である。反対称は、結果として、反対称が生じた構造あるいは組織を豊かにする。すなわちこれらに新しい特性を与え、より高度の組織の水準に移行させる」。…

マンダラにもそれがあてはまる。マンダラが全体においては大同の対称性を求め、かつ部分においては小異の反対称を演じているという知られざる秘密をこめていることは、「ゆらぎの科学」が発達するにつれ、今後さらに興味深いテーマになってくるにちがいない。
《引用終わり》

この文章が書かれたのは、プリゴジンの散逸構造論が注目を集めたころだったろうと思われます。「ゆらぎ」は扇風機の制御にも使われ、とても身近なものになりました。「ファジー」はボケたときの言い訳によく使われました。

昨年これを語るなら、益川敏英先生らの「対称性の破れ」が使われたかもしれません。

《以下引用》
さきに、空海は『即身成仏義』において「須弥山=宇宙身=マンダラ」という等式を発見したと書いた。空海は須弥山を六大に同定したのである。これを一口に「随類形の構想」と名づけてもよいかとおもう。

随類形とは類にしたがって形をあらわすこと、仏教用語では所生、すなわち「生みだされるもの」の意図である。空海は六大を能生、すなわち「生みだすもの」ととらえ、その六大が四種法身とマンダラと三種世間を生みだすと考えた。六大という能生によって、マンダラなどの所生がもたらされていることである。ソシュール言語学でいうのなら、所生を「シニフィアン」(指し示すもの・意味するもの)と、能生を「シニフィエ」(指し示されるもの・意味されるもの)とみなしてもいいだろう。しかも空海にとっては、この能生と所生は不即不離なのである。マンダラは「生みだすもの」と「生みだされるもの」の関係の同時性のうちにとらえられるべきものだったのだ。日本語にもしばしば「造作なく」という用法がつかわれる。造(な)すというも作(な)されるというも、これは両義的な象徴表現である。空海はそこを一口に「法爾の道理に何の造作かあらん」と書いていた。
《引用終わり》

この世はすべて造作ないこと。造作なく生きればいい…。

《つづく》
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これを「」と呼ぶのが正しいのか、少し迷いはあるのですが、強引にそう呼ばせていただきまして、今日も書きたいと思います。すなわち、すべてのポテンシャルを含む状態、これを「空」とします。

すべてを含んでいるとき、それは最もバランスがいい状態ですから、この世に存在することはできません。何かを捨て去ってバランスが崩れた状態、つまり対称性が破れたとき、おそらく物質としてこの世に現れます。

ウイルスでさえ、モラルのようなものがあるらしい。そのために捨て去るべきポテンシャルというのもあるでしょう。

さらに多細胞生物として生まれた場合、反社会的ポテンシャルを捨て去るほうがいい。より社会的な方向にバランスを崩したほうが、多細胞生物という自分の立場との整合性が良くなります。

そのうえ人間である、ということになると、捨て去るべきものが多分にあるのだろうと思います。その時代や国・地域での社会的制約、風習とか思想とか…いろいろなものが複合する中で、いろいろなものを捨て去っていかなければならなくなる。

そんなふうに勝手な「空」想をしたとき、それは植物の剪定みたいなものだなと思いました。

あらゆる方向に伸びていこうとする植物。最初に、天と地の制約に出くわします。地に根を張り、天に向かって芽を出す。天にも根を伸ばそうというポテンシャルは捨て去らなければいけません。

芽を出し、順調に育っているようでも、日当たりや雨風の影響で何らかのポテンシャルは捨て去って、成長していきます。

そして、実をたくさんならせようとしたとき、その作物ごとに剪定の仕方は異なります。

本当はあらゆるポテンシャルが、ポテンシャルとしては「有り」なんだけれども、現実世界の制約と突き合わせたときに、相克関係になってしまうものがある。つまり、捨て去った方がいいポテンシャルがある…

雪が解け始めると、東北の果樹畑では剪定作業が始まります。
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