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天台宗

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「仏教入門」(東京大学出版会版)
「十章 仏教の歴史」の中程を読みました。

仏教が中国に根を下ろし、飛躍的発展を遂げるのは南北朝時代に入ってから。この時期の代表的人物が鳩摩羅什(344-413)である。『法華経』をはじめとする大乗経典、ナーガールジュナの『中論』や『大智度論』など重要論典の訳を行っている。

この学説が弟子の僧肇らの手で伝えられ、それ以前の老荘的無による解釈に代わって、般若の空思想が正しく理解されるにいたった。

南北朝末期には、おびただしい数の漢訳経典の間で、いずれを最高のものと考えるか種々の基準によって優劣を決め、それによって釈尊一代の説教を統一整理して理解しようとする傾向があらわれた。これを「教相判釈」、略して教判論という。

しかしながら南北朝時代はインド仏教の輸入、消化の時代であり、真の中国独自の仏教に脱皮するのは随の時代に入ってからである。教判論の結果、隋唐時代に成立した諸宗を以下に示す。

1.三論宗
羅什の弟子が伝えた系統。教義の確立は随の吉蔵(549-623)による。

2.天台宗
第三祖智�莟(538-597)によって教学が大成した。かれは天台山で禅定体験をつみかさね、それにもとづいて止観とよぶ独自の修行体系を組織した。『法華経』を教学の中核におき、その宣布につとめた。天台の教学は三諦円融、一念三千を旗印とし、十界互具の性具説を唱えた。

3.三階教
北斉末、末法思想の流行とともに信行によって唱えられた。仏教の発展を時代によって三段階に分かつもので、第三段階は仏性思想にもとづいて万人を普敬すべしという。実践を重んじ、信徒の結社をもったため、しばしば国から弾圧されている。

4.浄土教
三階教と同じく末法相応の教えとして浄土往生を説く。北魏の曇鸞(476-542?)がヴァスバンドゥ(世親)の『浄土論』に注(『往生論註』)を書き、称名念仏を説いたのに始まる。唐に入って道綽(562-645)が『観無量寿経』にもとづく教義を確立し、その弟子善導(613-681)によって大成した。『観経疏』は善導の教説の基本。浄土教は学派というよりは広く民衆にまで及ぶ宗教運動で、その念仏の教えはその後も長く中国民衆に浸透している。

5.禅宗
北魏の時代、菩提達磨(ボーディダルマ)によって伝えられたのを初伝とするが、今日のような禅の教団の基礎は慧能(638-713)によって固められた。そのあと、江西の馬祖や湖南の石頭によって、後に臨済、曹洞、雲門、法眼、�蕃仰の五家七宗となって発展する南宗禅(洪州宗)が確立し、禅の主流になる。禅宗は教外別伝、不立文字と唱え、見性成仏をモットーとするが、これは慧能以後に確立した主張である。所依の経をもたないところにかえって独自の思想を展開し、その表現手段として、語録とか公案の類を多く残した。師嗣相承を重んずる。

6.法相宗
玄奘(602-664)の弟子基(632-682:慈恩大師)が師の教えに基づいて法相宗を組織した。宗旨は『成唯識論』を基本として学説を組織し、『倶舎論』などのアビダルマの教学も尊重した。一時は大変な盛況で他宗を凌駕したが、三乗を究竟とし、五性各別、一分不成仏の説を主張したため、一乗説に立つ天台宗などの主流から批判され、後に華厳宗が大成するにおよび、急速に力を失った。

7.華厳宗
杜順(554-640)を開祖とし、智儼(602-668)を経て、法蔵(643-712)によって学説の組織体系化が完成した。地論宗を受け、『大乗起信論』如来蔵縁起説を媒介として『華厳経』を解釈するもので、重々無尽の法界縁起と呼ばれる。衆生ひとりひとりに如来の性徳が現われるといって、これを「性起」と呼ぶ。則天武后の保護のもと、唐帝国のイデオロギーを支える世界観となって、大いに発展した。が、最後はその教学を自家薬籠のものとした禅宗のうちに吸収された。天台と並んで、中国が生んだ最高の仏教理論と言える。

8.律宗
戒律研究の諸学派の中で最も力を持ったのが道宣(596-667)の始めた南山律宗である。律宗がインド伝来の戒律を忠実に守り、それによって出家教団の制度の基本となったのに対し、その中国社会慣習との違和感から、独自の規律をつくろうとする動きが禅宗の間に生まれた。それが「清規」と呼ばれるもので、確立者は百丈懐海(720-814)である。清規の特色の第一は、作務と称して労働を重んじ、僧院の自給自足の生活を認めた点にある。インドではおよそ考えられない点である。

9.密教
善無畏(637-735)『大日経』の訳出に始まる。ついで金剛智不空によって『金剛頂経』が訳出され、当時のインド密教がそのまま輸入された。善無畏と不空の教えは、それぞれ一行恵果によって伝えられ、しだいに中国に根づきはじめたが、まだ宗派の形成にならぬうちに会昌の破仏(845)にあい、発展の芽を絶たれた。

《つづく》
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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の七」を読みました。


最澄について書かれています。

《以下引用》…
最澄の生涯をみて、極端な言い方がゆるされるなら、かれは教団の形成というもっとも世俗的なしごとをしたわりには――もっともその完成となると、弟子やさらにそのあとあとの人々がやったのだが――およそ世俗の機才にとぼしかった。そのくせ、かれは世俗の棟梁である国王から手厚い庇護をうけ、大官たちがすすんでかれのために便宜をはからい、かれが何か希望を持っているということがわかると、世俗のほうから進んで走り寄ってくるというぐあいになるのである。とくに前半生が、そのようであった。

《引用終わり》

その理由については司馬遼太郎がいろいろ推理していますので、本書を読んでいただくことにします。ただ、平安京遷都前に、京都の鬼門に当たる比叡山に最澄が寺を構えていたということだけ、ここではメモっておくことにします。

長岡や平安京への遷都は、仏教の巣窟である奈良から逃げ出すための桓武の政策とも言われ、奈良仏教に代わるものとして桓武に選ばれた天台はとてつもなく強引に優遇されます。

《以下引用》…
かれら(奈良六宗の学匠たち)はくやしさを噛みころして、微笑していたにちがいない。やがて最澄の後半生はかれら奈良六宗の復讐的な反撃のために暗いものになってゆくのだが、その因のひとつは、この最澄にとって幸福すぎる事態がつくった。

《引用終わり》

さて、空海は…

《以下引用》…
最澄以上に経典を渉猟したであろう空海にとって、天台はすでに取捨の対象の中にあったはずであった。かれは経典の比較検討について長じていた。この能力については後世数千万の僧が出たが、かれを越える者がない。そういうかれが、天台の諸典籍について無知であるはずがなかった。知っている以上は、天台がすでに唐にあっても古色を帯びて色が褪せているということも知っていたにちがいなく、ひるがえっていえばそういう利き目の鋭どさが、空海の身上のひとつでもあった。後年、空海は教学としての天台をはげしく攻撃した。空海からすれば天台は顕教にすぎず、読んであからさまにわかるというものにすぎない。天台は「宇宙や人間はそのような仕組になっている」という構造をあきらかにするのみで、だから人間はどうすればよいかという肝腎の宗教性において濃厚さに欠けるものがある。そのことを空海は後年やかましく論ずる。

《引用終わり》

天台が所依の経典とする法華経については…

《以下引用》…
法華経は西北インドで成立した。詩的修辞の才の横溢した人物が書いたらしい。作者は一人ではなかった。時代が降るにつれて次々に増補され、ついに二十七章というぼう大なものになった。多数の手で編まれたにしてはその華麗な文体が統一されており、また釈迦の本質を詩的に把握したという点でどの経もこれに及ばないであろう。さらにこの経は最澄の疑問とする小乗的な教理からまったく離れてしまっている。釈迦の教説として伝承されてきたものを下敷にし、体系としては般若経の空観の原理を基礎としている。空観を唯一の真理とし、それを中心に世界把握の体系を構築しているもので、見様によっては華厳経よりさらにすすんだものであるかもしれない。空については、先蹤の経典として般若経がある。般若経においては、数学のいう零(空)にこそ一切が充実していると見る。その零の観念が、法華経に発展したときには壮大なものになる。零こそ宇宙そのものであり、極大なるものであり、同時に極小なるものである、という。すべての世界現象は零のなかに満ちみち、しかもたがいに精巧に関連しあって組み合わせられている。さらにいえばその極小なるものの中に極大という全宇宙が含まれ、同時に極大なるものの中に極小がふくまれ、そこに一大統一があるというのである。しかもこの経はインド的性格ともいうべき哲学理論におちこむことなく、おのおのの構造を説きつつも仏陀をもって永遠の宗教的生命であると讃美し、その讃仰の姿勢のなかに、「論」の奈良仏教がもたなかった宗教性をもっている。さらにいっそうに宗教的であることは、仏陀の偉大さと恩寵を説くについては宝石のようにきらびやかな詩的修辞をつかい、感性をもってその世をひとびとにさとらしめるだけでなく、比喩や挿話をもって神話的世界に誘いこむという点で、ひとびとを恍惚たらしめる。

《引用終わり》

ということだったんですか…もう一度、法華経を読まなくちゃ。

《つづく》
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