トトガノート

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Tag:大乗

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「釈尊時代の仏教は出家者向けであり、大乗仏教は出家できない人向けである。救われる人が違うから優劣はつけられない。」というのが、佐々木氏の意見です。

宗教に優劣をつけるとすれば、何人の人を救済できるか?がひとつの評価基準になりうると思います。しかしながら、少なくとも今の日本において、本当の出家ができる人は何人いるんでしょうか?修行のために生産活動を一切行わずに乞食になるような志を持った人が。

日常の苦しみから逃れたくて宗教にすがるんでしょうから、出家などという形で日常から抜け出せる人に宗教の需要があるんだろうか?抜け出せないから苦しんでいるんじゃないだろうか?在家の人を救えない宗教など、少なくとも現代においては実用的な意味がほとんどないように思います。

さて、「苦しみから逃れるために生産活動を休止する」と考えたら、それは入院みたいだなと思いました。うつ病やアルコール依存症の治療のために仕事をやめる人も少なからず居るようです。これは出家に似ているかもしれない。

波羅蜜など、大乗仏典に書かれてあることは、出家できない人向けの処方箋ということになります。日常生活を続けながらの治療です。

こんなふうに仏教と医療をダブらせていったら、救急救命こそ、佐々木氏が忌み嫌う超越者の概念なのではないか?と思いました。(私も最初は釈然としないものが有りましたが、観音様阿弥陀様に関して、今回さらに整理ができたような気がします)

ギリギリの切羽詰まった状況、担当医すら「ダメじゃないか?」と思うような危険な状況、そんなとき本当のことを患者に告げる医者はいないと思います。
「絶対に助かるから!僕が助けてあげるから!大丈夫!僕を信じて!」
と言い続けるはずです。医学的・科学的根拠が全く無くても、これは人道上許される方便です。そのおかげで気持ちをしっかり持つことができて、助かる人も少なくないはずです。

仏教が広がって、いろいろな人が救済を求めてきて、教団のほうでも一人でも多くの人を救いたいと思った時期が歴史上あったはずです。超越者を認めないというスタンスの仏教でしたが、超越者の話をしないとどうしても救えない人もたくさん居たはずです。仏教として、この人たちをも救いたいとなれば、不本意ながら作られる超越者の話は方便として許されるのではないでしょうか?

医療が進んでおらず家族の死に直面することも多かったであろう時代、生産技術も進んでおらず一日中仕事に追われた時代、天災や政情不安も今以上に多かったであろう時代…探しても探しても何の望みも見つからない現実の中で、何とか夢や希望を抱いてもらうには超越者の話しか無いのではないでしょうか?幸か不幸か、彼らはまだ「科学」という猜疑心を持ち合わせてはいない。

一部の裕福な権力者を除けば、大多数の人は超越者の話以外に救う手だてが無かったかもしれない…

絶対神宗教は、すべての人に超越者の話をします。しかし、大乗は人を見て、その人に合った話をすることができます。サンタクロースの話をしなくても夢を描ける人には、サンタクロースの話をする必要はありません。

仏教はあらゆる思想やアイデアを含むということですから、総合病院(救急救命完備)のようなものかもしれません。眼科、耳鼻科、整形外科、…それぞれの患者に適した処方箋(経典)が必ず見つかる。

診療科の区別、あるいは病気の進行度の区別みたいなものが、大乗仏教では十地経とか十住心に相当するのかもしれません。

より多くの人を救うという意味で、(大乗の)僧侶は一般人に極めて近い生活をしていたほうがいいと思います。乞食をしている人に生活苦の相談をする気にはならないし、結婚してない人に夫婦の問題を相談する気にもならないですから…

《つづく》
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「犀の角たち」(大蔵出版)
「第五章 そして大乗」から最後まで読みました。

釈尊の没後、仏教が次第に勢力範囲を拡大し、独立した僧団が各地で散在する状態になると、僧団ごと地域ごとに教義の食い違いが出てきた。お互いに自分たちを正統仏教と考え、他者を破僧集団として非難するという深刻な分裂状態が発生した。

そこでもう一度、仏教をひとつにまとめるために、アショカ王時代(在位は紀元前268〜232年頃)ころに破僧の定義が変更されたらしい。「仏の教えに反する意見を主張する者が仲間を募って別個の僧団を作ること」が破僧の定義であったが、半月に一回の布薩儀式(いわば反省会)に僧団全員が参加すればいいことになった。つまり、これに参加しない者を「破僧」と定義し直した。

これによって仏教は多様化していくこととなる。この様々な新仏教運動を総称して「大乗」と呼んでいる。

その特徴は…
・我々自身が仏陀になろうとする。我々自身が釈尊と同じ立場のリーダーになって世の生き物を悟りへと導かねばならないという思いが前面に出ている。
・在家の人でもできる修行として六波羅蜜(特に智慧の完成を意味する般若波羅蜜)という修行方法が考案された。

***ここからは気をつけて読んで下さい***

さらには、我々が仏陀になるためには別世界にいる仏陀に会う必要があって、そのためには神秘的な作用・現象をも考案し、超越的な存在を想定せざるを得なくなった。

ゆえに、釈尊の仏教と大乗仏教とは別個の宗教であり、超越的存在を想定するという意味で、大乗仏教はユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの絶対神宗教に近い。

***ここからは私の意見***

第4章の釈尊の仏教のところまではとても心地良く読んできたのですが、第5章で流れが一変します。釈尊の仏教を「人類史上もっとも希有な宗教」と絶賛しますが、大乗には冷たい。大乗非仏説論まで持ち出して、仏教とは呼べないという主張のようです。

私は仏教についての勉強を始めたばかりですし、大乗仏典しか(それもほんの一部)読んでいません。それでも十分感動しております。だから、大乗が仏教では無くなったとしても、私にとってはそんなに大事件ではない。

例えば、ユダヤ教とキリスト教は経典を共有しています(旧約聖書)し、聖地(エルサレム)はイスラム教を加えた3宗教が共有しています。原始仏教と大乗仏教は全く別の宗教だと分類することになったとしても、そんなに異例のことでも無いように思います。

むしろ大乗を「不合理な超越者の宗教」と断じ、釈尊と大乗との間に境界線を引こうと躍起になっているところが、猿と人間との間に境界線を引こうと躍起になっていた人たち(神の視点から離れられなかった人たち)みたいでカワイイ

逆に、釈尊のごくごく普通の人間的なところが大好きだ!と第4章で書いている佐々木氏が、第5章では釈尊に固執し神のように崇めているところが気になります。釈尊を超人化(神格化)しているのは、むしろ佐々木氏の方なのではないか?と感じます。

釈尊とて我々と同じ人間だ!という認識があるからこそ、我々も仏陀になって衆生を救済しようという発想も生まれてくるわけです。そういう意味で特に即身成仏は極めて自然な発想だと思います。キリスト教ならば「みんな頑張って神になろう!」という発想はむしろ不自然ですけど。

視点の人間化の流れを進めたものが大乗仏教だ!という結末を信じて疑わずに第4章までを読み終えましたので、私なりの第5章が既に頭の中に出来上がっておりました。佐々木氏の第5章と私の第5章ではどこが違うだろうかと楽しみに読み進みましたら、何と全然似ても似つかない内容でした。ある意味、最も面白い展開でした。

恥ずかしながら、私の第5章を次回から4回くらいで書いてみたいと思います。まだまだ不勉強ゆえ、勇み足で変なことを書くかもしれません。遠慮なくご指摘下さい。

《つづく》
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