トトガノート

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Tag:国語

L教材の200番まで終わりました。

『蘇軾』も高校の漢文で習ったような気がします。教材に引用してある「赤壁懐古」だったような…。当時は三国志を知っていたかどうかも定かでありません。それほどに冷めた気持ちで授業を受けていたようです。

私にとっては「三国志」と言えば、NHKの人形劇です。


諸葛孔明や劉備玄徳も、周瑜や孫堅も、浮かぶイメージは川本喜八郎さんの人形です。

最近では、映画「レッドクリフ」があります。


問題を解いている間、頭の中ではレッドクリフのテーマが繰り返し流れていました。

『蘇軾』に戻りますと、この時代(宋代)は詩経的楽観を回復しているとのこと。

『李商隠』は記憶にありません。ただ、「国の大事より、恋人の方が大切」というような色艶があって、こういう詩の方がいいですね。

時代は晩唐ですから、宋代から前後してます。

これまでの詩人は、たいてい科挙を受けていて、運良く官吏になった場合でも勢力争いに巻き込まれて左遷され、不遇の中、年老いて髪が抜けることを嘆くというパターンが多かったような気がします。科挙を受けているので儒教の世界からも抜け切れていない。

晩唐に至ると、この儒教的な雰囲気が官僚の中でも変化してきていたようで、政治的な風向きの変化が李商隠の詩の中にも感じられる…というようなことが解説に書いてあります。私もそう感じます。

これまで恋人のことを、こんなに熱く詠った人は居なかったように思います。日本の古典文学に近いものを感じます。

【グラス片手に大人の公文】国語〔L-200〕
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L教材の180番まで終わりました。

『韓愈』は柳宗元と並び称されて韓柳(かんりゅう)と呼ばれたとのこと。ちなみに今流行ってるのは韓流。柳宗元は直喩が多いのに対して、韓愈は隠喩が多いそうです。

馬を使う名人のことを伯楽と言い、「ばくろう」の語源になったというのも勉強になりました。私の父の世代くらいですと「ばくろう」という言葉はよく使います。

また、韓愈は四六駢儷体を排したとのこと。日本の空海とほぼ同時代(空海が6歳ほど若い)を生きています。空海が若い頃に書いた『三教指帰』「・・・四六駢儷文のことごとくが中国の古典の用例にもとづいて、空海の恣意的な造語はほとんどないといってよいほど・・・」だったそうです。四六駢儷体とは形式ばかりにとらわれた装飾過剰で殆ど中味が無い文章。それを嫌った中国の韓愈と、それを積み木遊びのように積み上げて自分の文章を作り上げた日本の空海。面白い好対照だと思います。

『白居易』は髪が抜けることを気にしています。杜甫もそうです。学生の頃は分かりませんでしたが、この歳になると気持ちがよくわかります。

「売炭翁」の話は、ツルゲーネフとか魯迅の作品と似ています。庶民の窮状を訴え皇帝を遠回しに諭すのが主旨(諷諭詩というらしい)なので、事情が同じなのですね。

柳宗元と同様、韓愈と並び称されて韓白と言われているそうです。ただ、白居易は平易流暢な文章なので中国でも日本でも圧倒的にポピュラーです。教材に引用されている詩は、『平家物語』『枕草子』香炉峰の雪)にも出てきます。

【グラス片手に大人の公文】国語〔L-180〕
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L教材の160番まで終わりました。

『杜甫』は「国破れて山河在り…」の人です。

当時の中国の知識人は、科挙を受けて官職に就き、政治の世界で活躍することを志しました。しかし合格できない場合は、時の有力者からの推薦してもらうしかありません。そこで、有力者に詩を贈るというのが流行っていたようです。杜甫もそういう人の一人でした。

しかし、低い官職には就くことができたものの、青雲の志を満足するような職に恵まれることはなく、安史の乱に巻き込まれ家族とも離れ離れの生活をおくったりします。そんな境遇を嘆いている詩が多いようです。

ただ、そんな苦労をしたから歴史に残る詩を作ることができたと言うこともできます。生前の栄誉と後世の栄誉と、選べるとしたらどちらを選んだことでしょうか。

『柳宗元』は学生時代に読んだかどうかわかりません。

この人は科挙に21歳で合格した秀才。順調に出世しますが、権力争いに敗れて永州に左遷されます。この永州はとんでもない僻地でしたが、自然が素晴らしい。この自然の美しさを文章で記述しています。

形式が自由な古文で書かれていて、美しい風景を詩的に表すというよりは、大きさを数字で表したりして地形をそのまま書いています。現代の観光ガイドに近い文章です。

客観的な描写ばかりかと思っていたら、哲学的な思索も書かれています。創造主たる天はあるやなしや。

このように美しい自然を国家の中心に創らずに、その有難味も分からないような蛮族が住む辺境の地に創るのは、天が存在するならば辻褄が合わない…というような思考パターンです。

哲学的水準は低いですね。

【グラス片手に大人の公文】国語〔L-160〕
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L教材の140番まで終わりました。

『世説新語』という書名は全く習った記憶が無いのですが、王昭君の悲しい運命とか、竹林の七賢人とかは頭にあるので、きっと習ったのでしょう。

儒教がしっかりと定着した社会の中で、それを皮肉ったりパロディのように扱ったりというのは文化が成熟したということだと思います。一番最初の引用文、「馬を問わず」で返す話はなかなか面白いと思いました。

儒教が余り好きではないので、この『世説新語』は気に入りました。

『李白』は「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」。これだけはしっかり覚えていました。でも、漢字が並んでいるのを目でなぞった記憶だけで、天にまで届くような長江をいつまでも眺めているイメージはやはり残っていません。漢文として勉強しただけであって、漢詩を鑑賞していたわけではないようです。

漢文と言えば返り点などが重視されていたようで、どこからか持ってきた一文を「書き下し文にせよ」という設問がたくさん並んでいるイメージがあります。公文式の場合は逆で、今回の教材では再読文字を書き下す問題がありますが最小限に抑えられていて、解釈・鑑賞が重視されているのが分かります。

古文の時もそうでしたが、現代国語で漢詩の鑑賞文を読んでいる形です。面白い構成だと思います。

【グラス片手に大人の公文】国語〔L-140〕
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L教材の120番まで終わりました。

『戦国策』は前漢の時代にまとめられたもので、前漢の前の戦国時代のことが書かれています。いくつもの国がある中で、その間の外交交渉を担う「説客(ぜいかく)」という人たちがいました。彼らが使った弁論術、詭弁や巧みな比喩や寓話が、一国の命運を救っていくところは実に痛快です。

「蛇足」「漁夫の利」「先づ隗より始めよ」の一節が教材では引用されています。いずれも以前習ったものですし、故事成語として今まで何度も使いましたし、寓話の内容もだいたい覚えているのですが、戦国時代の外交交渉で使われていた点だけはすっかり忘れていました。

それだけ、寓話が面白いということだと思います。

『陶淵明』の「桃花源記」「飲酒」「五柳先生」などは確かに高校で習いました。「五柳先生」を「ゴリラ先生」と呼んで喜んでいた記憶があります。「桃花源記」は、不思議な国に迷い込むところや風刺がきいているところなど、「ガリバー旅行記」に似てます。

「飲酒」の「ここに真の意あり、弁ぜんと欲してすでに言を忘る」は、『荘子』の「真の弁説は理論を振り回さないものであり、言論が分析的になればなるほど真実というものは把握できない」という考え方をベースにしているとのこと。とってもいい解説文を引用して下さっています。

呂律が回らないほど酔っぱらって、困ったものですね…という意味だとばかり思っていました。

【グラス片手に大人の公文】国語〔L-120〕
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L教材の100番まで終わりました。

『淮南子』は、淮河(わいが)南方の淮南(わいなん)の王劉安(漢の高祖劉邦の孫)が編纂させた書物ですが、「えなんじ」と読むそうです。中央において儒家による思想統一の動きが強まっていたので、この地方には道家の学者が多く集まっていました。そんなわけで、この書も道家を中心とした諸家の学説を含む百科全書的性格の書に仕上がっているとのこと。

秦代には荀子や韓非子が重用されて、反儒教的雰囲気でしたが、漢になってまた儒教が復権してきたようです。

内容に統一性とか関連性はないようですが、いろいろな短い話が書いてあって面白いです。一番有名なのは「塞翁が馬」ですね。

『史記』は改めて読み返してみますと、司馬遷の描写のうまさを感じます。引用部分は、項羽と劉邦の所です。「鴻門の会」と「四面楚歌」。学生時代に確かに習ったことを覚えているので、それだけ内容が面白かったということだと思います。

一人の人間として項羽と劉邦を比較したときに、項羽の方が圧倒的に能力は上なわけです。「鴻門の会」では劉邦の命を助けてやったと言えなくもない。それなのに劉邦は楚と漢の和睦協定を破っているわけで、あまり好きにはなれません。一方、項羽は人格的な欠陥があったとはいえ、悲しい結末は判官贔屓を誘います。

【グラス片手に大人の公文】国語〔L-100〕
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L教材の80番まで終わりました。

『荀子』は、諸子百家の集大成を為したと言われるだけあって、思想として緻密な感じがします。これに比べると、孔子・孟子の理論はスカスカな感じがして、後世何故あれほどメジャーになったのかがよく分かりません。スカスカな部分を好きなように肉付けする余地があったから多用されたのでしょうか?

論語では学の必要性を何度も訴えていますが、性善説ベースで説明されるよりも、『荀子』のように性悪説ベースで語られた方が説得力があります。

引用文の中で、「文る」を「かざる」と読んでいるところがあり、「文」を装飾の意味に解釈しているところがあります。私は今まで、文系理系というように、「文」と「理」を対極に置くことに納得できなくていたのですが、これでスッキリしました。一つの事実をより興味深い物語に飾っていくのが文系であり、そういった装飾をどんどん取り除いて本質だけを見究めようとするのが理系だということなのだと思います。

「青は藍より出でて藍より青し」の出典は『荀子』だったのですね。

そして、「矛盾」の出典が『韓非子』です。矛と盾を売り込む商人の話だとばかり思っていたのですが、本題は儒家に対する痛烈な批判だったのですね。

古代シナの論理思想は『荀子』において頂点となり、これに『韓非子』が矛盾律を加えることで完成したという解説文が引用されています。

両者の論理性の高さに比べると、孔孟の論理性の低さは歴然としており、何故「論語」などという名前なのかと不思議に思うほどです。

【グラス片手に大人の公文】国語〔L-080〕
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L教材の60番まで終わりました。

「胡蝶の夢」の『荘子』は面白いですね。

湯川秀樹氏の文が引用されていますが、「小学校へ入る前から、漢学、つまり中国の古典をいろいろ習った。」とあり、中学校に入るころには「もっと違った考え方」を求めてお父さんの書斎をあさったとのこと。就学前にL教材ということでしょうか?

そして、やはり「荘子を特に面白いと思うようになった」とのこと。同じ物理学を勉強した人間として、とても嬉しいというか、納得です。知魚楽は、確か中学校の国語の教科書に湯川さんの文章が載っていて、それで初めて知りました。論理学の面白さというか、奥深さを知りました。「ここまで言われても反論するのか!?」という荘子と恵子の頭の良さというか、議論好きというか、「いい加減にしろよ!」と言いたくなるほどのしつこさというか…感嘆したものです。

今回も再読することができて、良かったです。

『孟子』に関しては、論理的な『荘子』と比較すると雲泥の差です。そのことが解説文にも書いてあるので、それを読んで「だよね!」と納得しました。ところが、学校の授業では、なかなかここまで批判的な評論はしてくれません。そうすると、「だよね!」という強い共感は生じなくて、結局、「よく分からない…」という印象で終ってしまうのではないでしょうか?

「だよね!」ではなくて、「僕は『孟子』好きだな」という感想を持つ人もいるかもしれませんが、それはそれで印象に残るし、漢文に興味を持つきっかけになり得ると思います。実際、私は『墨子』に関しては同情的でした(笑)

白黒ハッキリした解説文が良いと思います。

【グラス片手に大人の公文】国語〔L-060〕
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L教材の40番まで終わりました。

個人的には『墨子』が好きです。丁寧に理論を展開しているところがいいな、と。そうしたら「墨子の文章の拙さは、戦国時代から既に有名であったらしい。」という解説。「読み手にくどさとしつこさを感じさせる」のだそうです。自分の文章もそうなのかもしれません。

墨子が提唱したのは「兼愛」。「兼(ひろ)く愛して交(たが)いに利する」という考え方です。孟子は、主君や親をその他の人と同一視している点を批判しているそうですが、儒家のそういう視点の方を私はむしろ好みません。分け隔てない「愛」の概念はキリスト教のそれに近いものを感じます。

3年前に、直江兼続の「愛」の由来は何かという議論がありました。兼続の「兼」と兜の「愛」の字が、墨子の「兼愛」の文字を見るたびにチラつきました。当時、墨子の「愛」ではないか?という意見が全く聞こえなかったのは不思議です。それだけ墨子はマイナーなのかもしれません。

『列子』は寓話形式なので、楽しいですね。道家の思想だというので、てっきり「愚公、山を移す」という話は、山を動かした愚公が文字通り愚かだという話なのだと思っていたのですが、意外でした。道家にも積極的な部分があるのですね。

狙公の話もとんち話っぽくて面白いですね。タルムードの、ユダヤ人の悪口をする子どもたちに毎日褒美をやり、その褒美を徐々に減らしていくことで悪口をつまらなくさせてやめさせた、という話を思い出しました。

杞憂に関する故事も、久しぶりに読むと面白いです。天地が崩壊するという危惧は、世紀末にもありました。震災を経た今となっては、杞国の人の気持ちの方が共感を呼びそうです。

【グラス片手に大人の公文】国語〔L-040〕
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L教材の20番まで終わりました。漢文です。懐かしいです。

漢文と言うと、まずレ点とか、返り点を教えられて、まずそこでウンザリしていたような気がするのですが、公文教材は流石にそんなことはしませんね。ホッとしました。

書き下し文をまず音読するところから始めてみました。この独特の言い回しは大好きです。それから、いろんな考え方に触れるのが好きなので、諸子百家を読むのも大好きでした。

漢文と言えば、やはり最初は『論語』です。「学びて思はざれば則ちくらし…」で「学ぶ」を「読書」と解説されているのを見て、なるほど公文だ!と思いました。

ただ、何となく、この歳になって読み返してみると、孔子という人は何となく偏屈な感じがして、思想としても余り深いものを感じません。儒教が余りにもスタンダード過ぎて新鮮味を感じなくなったということなのかどうか。

その点、『老子』の方が何だか深みを感じました。「賢者を尊ばなければ人民の争いは生じない、品物を貴重だとしなければ盗みはしない…」とか「器にしても家にしても『無』があるから用を足すのだ」という考え方は、学生の頃に初めて出会ったときと同様の「なるほど」感がありました。

ただ、この思想にどっぷり浸ってしますと何もしないことになってしまいそうですが。

書き下し文に触れて、それぞれの思想のエッセンスをつかむことができますから、世界史や倫理社会の参考書としても使える教材ですね。

【グラス片手に大人の公文】国語〔L-020〕
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