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「釈尊の生涯」(春秋社)
「22.最後の遊歴」を読みました。

自分の死期が近いことを知った釈尊(悪魔との約束で、三ヶ月後の入滅を宣言してしまったということになっているらしいのですが…今なら医者による告知ですかね…)は、比丘のために四大教法を説きます。

《以下引用》
1.ある比丘が、「自分はこの教えを直接に釈尊から聞いたのであるから、これこそ仏教の正しい教法であり、戒律であり、正しく師の教えである。」と主張した場合に、これをそのままに肯定したり否定したりすべきではない。まずその説をば経と律とに照合して、それが正しい経と律に合致しないときは仏説でなく、かの比丘は仏説を誤り伝えたのであると判定すべきである。もしそれが経と律に合致すれば、まさしく仏説であって、かの比丘はこれを善く伝えたのであると判定すべきである。

2.ある比丘が、「自分は多くの博学な長老耆宿を含んだ教団からこの教えを聞いたのであるから、これはまさしく仏説と見なされるべきである。」と主張したとしても、これをそのまま肯定することも否定することもせずして、第一の場合のように、経と律とに照らして、適宜に判定すべきである。

3.ある比丘が、「自分は多くの博学な長老耆宿からこの教えを聞いたのであるから、これはまさしく仏説に相違ない。」と主張したとしても、これをそのままに肯定も否定もせずして、第一の場合のように、経と律とに照らして、適宜に判定すべきである。

4.ある比丘が、「自分は一人の博学な長老耆宿から、この教えを聞いたのであるから、これはまさしく仏説である。」と主張したとしても、これを無条件に信頼せず、第一の場合のように、経と律とに照らして、もしそれが経や律に合致しないとすれば、仏説とは見なされないのであり、合致する時のみ正しい仏説と判定すべきである。
《引用終わり》

これに関して著者は、「釈尊の立場が、独断や妄信をを全く許さず、あくまでも合理的であり批判的であった」と評しています。

「経と律とに照らして適宜に判定すべし」ということですから、解釈にかなり幅が出てきそうな気がします。解釈のしようによっては仏説、別の解釈からすれば非仏説ということがありそうです。というか、現に多くの大論争があったようです。

でも、この「幅」が仏教自体に幅を持たせ、適宜な判定のための議論を活発化させ、大乗へと発展していったのかもしれません。そういう意味では絶妙な基準かも…。

《つづく》