トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:十善戒

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以前、不殺生について考えた時から、人間は生まれた瞬間から二律背反に苦しむさだめ…という憂鬱なとらえ方をしていました。

改めて噛みしめてみて、確かに憂鬱なとらえ方が基本だとは思ったのですが、ちょっと吹っ切れたところもあって、何だか明るい気持ちにもなったのでした。

それは、「不殺生を完全に守ったら、人間は生きられない」ということは、生きること自体が破戒になるということではありますが、「生きる」を認めるなら不殺生の例外も認められるということに気付いたことでした。

人がいなくなってしまったら、仏道も修行もなくなってしまうわけです。だから、「人が生きる」ということは善悪はともかくとして受け止めなければいけない。他者を食べたり他者に食べられたりという衆生のドロドロとした営みは受け止めることになる。

そう考えると、正邪はともかく淫もなければ人は生まれてこないわけで、これも受け止めざるを得ない。で、結局、十善戒ことごとく必要悪として受け止めざるを得ない部分があるのではないか…

淫を受け止めたのが理趣経だ!という言い方をしてみると、空海という思想家、真言密教という思想に、現実的なものを感じました。

そもそも、宗教は生きた人間が修めるもの。死んで生まれ変わったところにしか希望が持てないような教えでは話にならない。つまり即身成仏を唱えなかったら、何の意味があるのか?

人間が生まれ出ることを受け止めずして何とするか、例えそれが暗いものであるにせよ。
人間が生き続けることを受け止めずして何とするか、例えそれが他者の冥い死の上に成り立っているにせよ。

この吹っ切れが結局なににつながったかと言いますと、「金を稼ぐ」ことで感じていた罪悪感を軽くしたのでした。獲物を追いかける雌ライオンのように、仕事も頑張らないといかんな…と思ったのでした。
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「釈尊の生涯」(春秋社)
「13.ウルヴェーラーにおけるカッサパ兄弟の帰仏」を読みました。

釈尊はマガダ国のウルヴェーラーに向かいました。ここにカッサパという姓の高齢の三人兄弟のバラモンがいて、三人合わせて千人の弟子がおりました。釈尊は長兄を教化することで全員が仏弟子となり、千人の比丘を率いることになりました。

さらに国王ビンビサーラも帰依し、国王所有の竹林精舎が仏教教団に寄進されました。

比丘たちは、毎日規則的な生活を繰りかえし、一日の大部分を禅定思惟によってすごしました。世間的なむだ話は禁じられ(聖黙)、話し合うならば仏教の教理学説や実践修行に関することに限られました。

《以下引用》
比丘たちに禁ぜられている世間的むだ話には、国王の話、盗賊の話、大臣の話、軍隊の話、恐ろしい話、戦争の話、食物の話、飲物の話、衣服の話、乗物の話、床臥の話、華鬘の話、香料の話、親類の話、村落の話、町邑の話、都市の話、国土の話、女の話、男の話、英雄の話、路傍の世間話、井戸ばたの雑話、死者の話、うわさ話、俗哲学、宇宙開闢の話、有りや無しやの話などのものがあげられる。

比丘が話すことを奨められている法談には、少欲の話、知足の話、欲を遠離する話、烏合の集会をしない話、精進努力の話、戒律の話、禅定の話、智慧の話、解脱の話、解脱したとの智見自覚の話などの十種(十論事)があり、その他、修行、証果、涅槃などについても語るべきである。
《引用終わり》

結構、細かい人なんですね…

《つづく》


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「釈尊の生涯」(春秋社)
「12.ベナレスにおけるヤサなどの教化」を読みました。

ミガダーヤ(鹿野苑)のあるベナレス(バーラーナシー)は釈尊時代の二三百年前から賑わっていたと考えられ、富裕な商人が数多く存在した。その豪商の子、ヤサに行われた説法が施論・戒論・生天論の三論と言われています。※三論宗の三論とは別です。

これは、仏教以前からウパニシャッドなどで説かれて来た業報因果の説です。釈尊当時のインド思想では最も健全穏当な学説でしたが、仏教の正しい教理学説を理解するために役立つものだったのでヤサに説いたと考えられます。

施論(施与慈善の話):常に慈悲の心がけをもって、困窮者や宗教家などに、衣食住などの施与をなすこと。

戒論(戒律道徳の話):生物を殺傷せず、他の金銭財物を盗まず、うそをつかず、よこしまな姦淫を犯さず、というような戒律を守り、常に道徳的な生活を続けること。

生天論(幸福な天国に生まれる話):上記の二つをを守っていれば、その応報として、来世には天国に生まれて、幸福な生活を送ることができる。逆に守らなければ、来世は必ず地獄に生まれて、苦難不幸の報いを受ける。

原始仏教の十善が大乗仏教で十善戒になったということですが、この戒論がルーツかも知れません。

仏教を知らない初歩の者には当時のインドでは常識的な上記の三論を説き、相手が業報思想を理解し因果の道理を正しく信ずるようになると四諦を説くという方法を、釈尊は取りました(次第説法)。

ヤサの友人たちなどに教えは広まり、阿羅漢が約60人になりました。この人たちが布教活動を始めることになります。

《以下引用》
…仏教の目的は、社会全体が平和で幸福になることであって、単に出家者のみのものでない…。むしろ出家者は在家者のためにあるのであり、世間の大部分を占める在家者を全体的に向上発展させるのが仏教の目的である。この関係は、医者と民衆との関係にも似ている。…医学や医術は医者のためにあるのではなくして、一般民衆のためにあるのである。これと同じく、民衆の精神的病気を治療すべき出家者は、民衆指導のために仏教を学び仏道の修行をするのであって、仏教は僧侶のためにあるのではなく、一般民衆のために存在するのである。
《引用終わり》

出家は当時のインドの習慣のようなものなので、仏教教団も自然とそれに倣ったということでしょう。

ですから布教形態は、時代や場所に応じて、変化していいと、私は思います。

《つづく》


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大乗起信論(岩波文庫版)
第四段「信心の修行(修行信心分)」まで読みました。以下、自分なりにまとめてみます。

信心には4種ある。

1.根本を信ずること(信根本)
心の真実のあり方(真如)を願い求める(楽念)。

2.仏は無量の徳性を具えていると信ずること
常に仏を思い、近づき、供養し、恭敬しつつ、善根を起こし、仏と同じ一切智を得たいと祈願する。

3.仏の教え(法)には大いなる利益があると信ずること
常に法を思い浮かべ、諸種の究極完全な行を実践する。

4.僧はよく自利の行、利他の行を実践するものであると信ずること
常に願って菩薩たちに親近し、如実の行を学ぶべく努める。(僧に対する戒め?)

修行には五門ある。その五門を通じて、信心を完成させる。

1.布施門(施門)
・財物を乞い求める人には、慳貪(ケチな心)を捨てて、自分の力の許す限り、分け与えなさい(財施)。
・災難に遭い恐怖する人、危険が迫っている人には、自分の力の許す限り、悩みと恐れを取り除いてあげなさい(無畏施)。
・教えを乞う人には、自分が理解しているのに応じて、教え(法)を説いてあげなさい(法施)。
・決して自己の名誉・利益、相手からの恭敬を求めてはならない。ひたすら自己と他者のために役立つことを念じ、その功徳をさとりに向け直す(廻向菩提)。

2.持戒門(戒門)
表現は若干違うのですが、十善戒を守る!ということでいいと思います。
十善戒とは…不殺生不偸盗不邪淫不妄語不綺語不悪口不両舌不慳貪不瞋恚不邪見

3.忍耐門(忍門)
他人から悩まされた場合、それに耐えて、決して報復を考えてはならない。利益と損害、不名誉と名誉、称賛と誹謗、苦と楽など、いかなる世間的評価にも煩わされず耐えること。

4.精進門(進門)
善事を成すに、怠ることなく、志を立て、決してひるまないこと。自ら利し、他を利益せしめ、速やかに諸々の苦からの解脱を心がける。諸仏を礼拝し、懺悔し、勧請し、教えに共感し(随喜)、得た功徳をめぐらす(回向)。

5.止観門(心の安定と正観の修行)
「止」(シャマタ)とは、心を安定・集中して、対象の相が現れないようにすること。
「観」(ヴィパシュヤナー)とは、諸々の現象の因縁によって生起する相(心生滅の相)を見分けること(分別因縁生滅相)。
これについては次回詳述。

《つづく》
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第二章の教判論を読みました。

釈迦教(釈迦牟尼仏を本尊・教主とする)、弥陀教(阿弥陀仏を教主とする)、大日教(大日如来を中心とする)という分類を恥ずかしながら初めて知りました。同じ仏教でも、拝んでいる対象が違っていたとは、ちょっと驚きでした。

釈迦教は小乗仏教,法相宗,三論宗,天台宗,華厳宗,禅宗,日蓮宗。弥陀教は浄土教の諸宗派。大日教は真言宗。

弘法大師が創作された十住心は、凡夫,声門,縁覚や、法相宗,三論宗,天台宗,華厳宗、そして真言密教を分類・ランク付けしたもののようです。まあ、ひとつひとつ修行して階段を上っていくというものでもないのでしょうね。そうだとしたら、次々と宗派を変えていかなければならなくなる。

私の場合は凡夫の中でも、宗教的に目覚めて第一歩を踏み出した段階(第二住心:下から2番目)というところでしょうか。まずは十善戒を守るよう頑張ってみたいと思います。

《つづく》
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邪な見方をやめて、物事を正しく見つめましょう!ということのようです。でも、正邪がはっきり分かるものは、あまり悩みの原因にはなりません。意見が二分していて、どっちもどっちという時が一番困ります。誰もが正しいと信じて疑わなかったことが、実は間違いでした!ということも往々にしてあります。

正邪の見極めがきちんとできるならば、この戒めを守ることは簡単なのかもしれない。何が正しくて、何が正しくないか、そこが一番の大問題です。

大河ドラマ「独眼竜政宗」(原作:山岡荘八)で、政宗を教育した虎哉禅師が「へそまがりになれ!」と教えました。もちろん偏屈になれということではなくて「人と違うものの見方をせよ」ということだったと思います。

正邪の見極めというのは、結局、神ならぬ身なれば常にきちんとできるわけがない。としたら、ひとつのことを最低でも2つ、できれば多方面から見つめて、良し悪し、メリット・デメリットを評価・判断するしかないと思います。

ディベートというのがあります。ひとつのテーマに関して、賛成派と反対派をくじで決めて、それぞれの立場で議論しあうというゲームです。もともと自分の意見は賛成派なのに、反対派として意見を述べなければいけないということもあります。そこが面白いところ。

自分の見方を根本から見つめ直すことにもなります。「あの人は賛成派のはずなのに、あんなこと言ってるぜ」みたいな観衆の目もあるでしょう。先入観や偏見を排除するのに効果的な方法だと思います。これを自分の頭の中で行い、いろんな見方を養うのが「へそまがりになれ!」ということだと私は解釈しています。

検察側と弁護側が議論して判断を下すという、裁判の形式も結局はディベートですね。真理は相反する2つの意見の間(どちら一方の完全な勝訴という場合も含めて)にあるということ。神ならぬ身が他人を裁く方法として考え出されたということでしょう。

そもそも、ものごとに、メリットしかないもの、デメリットしかないものというのは珍しい。必ず、両方あるものです。「これは絶対まちがいない!」「これは絶対正しい!」なんて思えるものは、大きな間違い(デメリット)が隠れている可能性があります。

そう言えば、私のブログのテーマ(そんなのあったのか!?)も「人と違う見方の提案」であります。「ずいぶん変わった人もいるもんだ!」とか「なんて偏屈なやつだ!」とか思われる方もいらっしゃると思いますが、これこそへそまがりに対しては最高の褒め言葉であります。

こんなやつですが、今後もお付き合いのほどをよろしくお願いいたします。

《最初から読む》

独眼竜政宗 完全版 第四巻独眼竜政宗 完全版 第四巻
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怒るな!ということです。最近、キレる人が増えています。カルシウムが不足しているからとか、教育がどうだとか、ストレスがどうだとか、いろいろ説明されていますが、栄養の偏りだけではないと思うし、年齢に関係なくキレやすくなっているから教育のせいでもないし、ストレスのせいっていうのは当たり前じゃないでしょうか。

…そういうハード(外部環境)の問題ではなくて、ハートの問題じゃないかな…

みんな人間が薄っぺらになったからじゃないかな。とにかく自分の立場を主張するのが最優先で、相手の立場を考えたり、自分を客観視してみたり、という面倒なことをしなくなったような気がする。「取りあえず自分の正当性が主張できればいいや」というような気持ち。これは、自分の反省でもあるんですけど。

私が子供のころは「短気は損気」と親に言われて、癇癪を起すたびにからかわれました。だから、怒ることは恥ずかしいことという感覚がどこかにあります。ところが、最近は私もキレやすくなっておりました。これではいけない!と思ったのが、仏教を勉強してみたいと考えた理由のひとつです。

「私憤」と「公憤」という区別があります。育児の場面では、「怒る」と「叱る」という区別が常に問われます。自分の怒りをなかなかきれいに分別(ぶんべつ)できないことが多いですけど、基本的には前者がバツで後者がマルということでしょう。後者の怒りでキレるということは少ない。

ただ、公憤ならいいのか?と言われれば、必ずしもYesではないのが難しいところです。みんなのために正義を貫こうとする行為が戦争だというのが私の持論ですから。大東亜共栄圏はアジア民族のためだったでしょうし、ベルサイユ体制打破はドイツ国民のためだったでしょうから。もちろん単なる大義名分だったかもしれませんが、それを正義と信じて熱狂した国民が少なからずいたことは間違いない。

不動明王は一般大衆を叱りつける存在のようです。「するな!」と戒められている怒りの感情を露わにしたそのお姿は、非常に心惹かれるものがあります。と共に、「てめえ、キレるんじゃねえぞ」と睨まれているようでもあります。

《つづく》
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けちけちするな!欲張るな!ということのようです。お布施をしましょう!という補足もありました。慳貪は「つっけんどん(突慳貪)」のけんどんなので、とげとげしい不親切な物言いや酷いことはやめましょう!という意味も含まれているかもしれません。

お金で買えるものと買えないものがあって、本当に値打ちのあるものは後者である、という考え方が、私が小さい頃は当たり前でした。これについては明日も書きますが…

祖母をはじめ周りの大人たちは、一度も大金持ちになったことがないはずなのに「金なんか貯めてもいいことはない」といつも言っていました。とはいえ、無駄遣いは一切せず、小銭を貯め込もうという努力は欠かさなかったのですが…

でも子供ながらに、そこに理想と現実というか、倹約とケチの違いというか、そんな微妙なものを感じ取ったように思います。

それが社会で揉まれるうちに、「金が全てじゃない」⇒「そう思いたい」⇒「ほとんどのものは金で買えるよね」⇒「とりあえず金があればいいよね」⇒「金がほとんど全てだ」と変化していったような気がします。

木下順二の「夕鶴」(「鶴の恩返し」とか「鶴女房」という民話がベース)の心を忘れてはいけないのですね。金を追い求めていくと、大切なものが逃げていく。お金という手段(道具かもしれない)を使って、お金と物をグルグル回すことによって、私たちは本当に大切なものをつかみ、磨いていくのであって、お金が最終目的ではない。

今の世の中、この見落としが大きいんじゃないかな。

《つづく》
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二枚舌を禁じています。昔は両舌と言ったのか…とまた感心しました。舌が二枚もあるといいだろうな…といろいろ変なことも考えてしまいました。八方美人と同義でしょうか。

こっちでいいこと、あっちでいいこと、よく言えば臨機応変に、相手に合わせて口裏を合わせる人は居るようです。不本意ながらそうなるケースももちろんあります。「NO!」と言えなくて、「こうだよね?」と念を押され、つい「うん。」と言ってしまう。

仕事上でも悩んでしまうのは、「○○さんって、××ですよね?」とお客様に言われて「はい。」と答えると、「先生もそう言っていた!」と○○さんに告げ口する人がいらっしゃる。だから、悪口に対する相槌は気をつけなければいけません。私は「ん〜、ハッハッハッハー」とごまかすことにしています。この発音だと確かに舌は使いません。

「喧嘩の仲人」と呼ばれる人がいまして、その○○さんに告げ口する人もそうなんですが、「Aさんがあなたの悪口を言ってましたよ。」と味方のような顔をしてBさんに告げ口し、同様に「Bさんがあなたの悪口を言ってましたよ。」とAさんに告げ口するという人もいらっしゃるとか(私はお会いしたことないですけど)。良縁の仲人は非常に難しくなっている昨今、こういう仲人はいけませんね。

喧嘩の仲裁をする場合には、多少二枚舌は使わないといけないかもしれませんね。それぞれ別々に言い分を聞いてあげて、「君の言い分ももっともだね。」と肯定してあげなければいけないでしょうから。「それでもね、あの人はこう感じたのかもしれないよ…」と別な見方を付け加えることが不可欠ですけどね。これは、二枚舌ではなく、一枚の舌を使い分けるということになるかな?

ああ、牛タンが食べたくなった…牛タン屋さんは、たくさん舌を使って欲しいところです!

《つづく》
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悪口を言うな!ということですね。弘法大師の時代から「悪口」って書くんだなあ、と変なところに感心してしまいました。でも、昔は「あっく」と読んだのでしょうか。悪口雑言と書けば「あっこう」と読みますね。どれも意味は同じなんでしょう。災いの元になるのは古今東西同じでしょうね。

まず、陰口はいけませんね。最近は裏サイトで流行っているそうですが。でも、強烈な面白さがあるのも事実です。ある人の陰口で盛り上がると、陰口をたたいた者同士は強い共感を持つことができます。同盟国同士の団結を固めるために、あるいは国内の世論をまとめるために、戦争を起こしたという例が歴史上多々あります。一部の人間関係に(怪しげでスパイシーな)光が灯るのも事実ですが、それ以外の部分には暗い影を落とします。全体としては、いいことありません。

相手に面と向かって言えれば陰口にはなりません。それが相手のことを思ってのことであり、忠告として受け止めてもらえれば、真の友情が生まれるんでしょう。「苦言を呈した」、上司に対してであれば「諫言した」ということになります。でも、罵詈雑言を浴びせ合う結果にもなりかねないし、そうなれば最悪です。

毒を薬と呼んで用いるのが医学であるように、悪口という毒が有効な場面も少なくないようには思います。ただ諸刃の剣であることは間違いない。素人(凡夫?)にはお薦めできない!というのが大師様のご忠告なのでしょう。

《つづく》
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