トトガノート

All about TOTOGA

北斗の拳

videoストアで「北斗の拳」を一気見しました。本放送の時はサウザーが死ぬところまでしか見ませんでした。結末が見れて、スッキリしました。

「悪」と対峙するものは普通は「善」だと思うのですが、番組では「愛」ということになっていました。だからキリスト教的なのかと言うとそうでもなく、どちらかと言えば「哀」に近く、仏教的な印象です。哀しみから起こる怒りは大きな力を生むものとされています。

この怒りの扱いや、相承の厳しさ、奥義を唱える時に梵字が出てくるところなど、真言密教をモデルにしているように感じました。また、他者を守るために、自分の身体の一部や命を捧げるところは、太平記のような軍記物の魅力を含んでいます。そう考えると、このアニメの面白さは、仏教史や太平記とか三国志などの要素を織り込んだところにあるのかもしれません。

今になって思うと、仏教史とか軍記物とか、本物の方が断然面白いんですが…もともとそういうことに興味があったから「北斗の拳」に魅かれたのか、「北斗の拳」でそういう興味が芽生えたのか、よくわかりません(笑)

(2013/1/25記)
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

videoストアで「北斗の拳」を一気見しました。本放送の時はサウザーが死ぬところまでしか見ませんでした。結末が見れて、スッキリしました。

改めて見て気づいたのは、「死ね!」とか「消えろ!」とか、小学校では使ってはいけないチクチク言葉が頻繁に出てくること。身体が吹っ飛んでしまう戦闘シーンも残酷ですし、教育上はよろしくないですね。

この間違いの始まりが正に二元論だと思うのです。つまり、善と悪をはっきり峻別できるという前提。それに基づいた勧善懲悪のかっこよさが全編に流れています。

どこまでも卑劣な悪い奴ら。だからどんな酷い言葉で罵っても良いし、どんなに残酷な方法で殺しても構わない…という論理。

泥棒の財産なら盗んでも構わない、人殺しの命なら奪っても構わない、という法は無いはずなのですが、ケンシロウがそれをやると痛快だと思ってしまう。これが、勧善懲悪のお話の落とし穴のような気がします。

現実には、水戸黄門や必殺仕事人のように分かりやすい悪は存在しません。絶対的かつ恒常的な悪の存在は有り得ません。悪と思える人たちがいたとしても、その人たちにはその人たちの善があり正義があるかもしれないのです。だから、酷い言葉はいけないし、暴力もいけないのです。

そんなことを考えてしまって、昔のようには気持ちが入り込みませんでした。

(2013/1/16記)
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ