「唯識入門」(春秋社)
「第二章.認識の構造」の「四.唯識説における空」を読みました。
《以下要約》
縁起したもの=空なるもの、という場合には、自性がない(無自性)というのが、『中論』以来の説明でした。これと「所取・能取の二がない」ということは、どうつながるのか。
所取・能取がないということと、自性がない、ということは別のことです。所取・能取のないことが、ただちに虚妄分別が縁起したものであることの説明にはなりません。
だから、私はここで、この「空性」は修道論的な意味で「なくなること」(=滅)の意味であると申し上げたのです。
それは、虚妄分別が無自性であること、縁起したものであることを否定しているわけではありません。なぜなら、虚妄分別は「依他なるもの」と規定されていますから。
唯識説では、ことばのうえの規定としては「空性」を修道論的に説いていて、そのかぎり、無自性という意味はないが、同時に「空性」ということばを通して、この無自性、縁起したものであることという点は自明のこととして含まれているとみなしていたのではないか…。
《以上要約…詳しくは本書参照》
この違いが分かったような分からんような、これが何につながってくるのか…。ということで、取りあえずノートしておきます。
《つづく》
「第二章.認識の構造」の「四.唯識説における空」を読みました。
《以下要約》
縁起したもの=空なるもの、という場合には、自性がない(無自性)というのが、『中論』以来の説明でした。これと「所取・能取の二がない」ということは、どうつながるのか。
所取・能取がないということと、自性がない、ということは別のことです。所取・能取のないことが、ただちに虚妄分別が縁起したものであることの説明にはなりません。
だから、私はここで、この「空性」は修道論的な意味で「なくなること」(=滅)の意味であると申し上げたのです。
それは、虚妄分別が無自性であること、縁起したものであることを否定しているわけではありません。なぜなら、虚妄分別は「依他なるもの」と規定されていますから。
唯識説では、ことばのうえの規定としては「空性」を修道論的に説いていて、そのかぎり、無自性という意味はないが、同時に「空性」ということばを通して、この無自性、縁起したものであることという点は自明のこととして含まれているとみなしていたのではないか…。
《以上要約…詳しくは本書参照》
この違いが分かったような分からんような、これが何につながってくるのか…。ということで、取りあえずノートしておきます。
《つづく》