トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

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「自学自習への道」の「4.可能性の追求、そして、全面発達を可能にする自学自習」(p139〜191)を読みました。(小林教室収蔵


p156〜157に2歳でも作文がを書ける!という話があります。質はともかく、自由に自分の言葉を書き連ねることはそれなりの知性を必要とするはずです。自由であれば楽しい作業であるはずで、好んで自分からするうちに知性はますます磨かれていく…そもそも学問とは、こんな形で、その楽しさに病みつきになった人々によって育まれてきたものだと思います。

幸か不幸か、我々には先人たちによる膨大な積み重ねがあります。自分の中だけで発展していくのを待つよりは、まずは先人たちの蓄積を身につけた方が速く高いレベルに到達することができます。故に、私たちには生まれてすぐくらいから先人たちの轍をなぞることが課せられます。自発的に真似ているのならばともかく、過去の鋳型を強要される学習は当然のことながらつまらないものになります。

この過去の踏襲と自分なりのアウトプットを共存させた学習法が縮約という方法なのだと思います。

学問というのは、独りでコツコツと行うオタクなものです。これまでの先人たちの蓄積が膨大であるが故に、自分なりのアウトプットという楽しい部分が遠のいてしまうのは皮肉なことですが、「自分」というものを持ち、「自分」の興味・関心・好奇心で先人たちの蓄積の世界を冒険するならば、これも決して退屈でつまらない作業ではないはずなのです。

学習のモチベーションアップの方法として「ほめる」ことが推奨される昨今ですが、これは幼児期に限るべきだと私は考えます。学問というのは先に進めば進むほど、身近な人間の理解が得られなくなるものだからです。自己満足的な楽しみを唯一の推進力としなければ、モチベーションを維持し続けることは難しいと思います。そこに火がつけば、するな!と言っても勉強ばかりしてしまう状態になるはずですし、勉強とは本来そういうものだと思います。

学習は自学自習であるべきですし、それは自楽自習であるべきなのです。

《インデックス》

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「自学自習への道」の「3.ちょうどにする指導とは、何をどう指導することか」(p94〜138)を読みました。(小林教室収蔵


p99の辺りでは、復習に対する考え方がまとめてあります。必要な復習はすかさず行う。しかし、あくまでも必要だから行うのであって、不必要に丁寧な復習ならばしない方が良い。まして、ペナルティの意味合いなど全く無い。

p104辺りから「ちょうどにする学習」の具体的な姿が描いてあります。以前まとめた「自学自習に必要なこと」「臨戦態勢の教室」「ちょうどなど、ない」とかぶる内容ですが、本書では見やすくまとめてあります。

P121辺りでは、見通しについてまとめてあります。

《インデックス》

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「自学自習への道」の「2.ちょうどの学習が教育にはもっとも大切」(p40〜93)を読みました。(小林教室収蔵

まず、学習には基礎学力が必要(p49)だということ。たとえ今現在、何年生であっても、どこまで身についているという身の丈に合わせて、学年を(下の方に)越えて、基礎学力を付けさせることが必要です。

基礎学力が学年に追い付いてきたとき、「能力の低い生徒ほど、教材をさきに進める」(p54)という学習法が有効な場合があることが、公文式の中では知られています。

残念ながら良い結果に結びつかない場合もあるわけですが、その場合の一因として考えられるのは、生徒自身が「挑戦的な学習」(p66)ができていないということ。指導者がうまく導いていかなければなりません。

壁にぶち当たったときの突破口(p76)として、数学国語英語の場合が説明してあります。

「ちょうどの学習」ができているかどうかをチェックするポイント(p79)として、3つのちょうどについて説明してあります。

面白い話があったので、引用しておきます。
《以下引用(p74)》
学校やその補習をする塾などでは、問題の解き方をまず標準形でもって提示します。あたらしい単元の導入にも人一倍、こだわります。こうした問題なら、まずこうして、こういうように解くという定石にしたがわないと、だめにします。

小学校1年生の足し算の授業を参観したとき、「7+8」の答えを生徒に挙手させて言わせるという授業を見たことがあります。そのときおどろいたことには、なんと、当てられた生徒がこう答えたのです。「答えは15です。そのわけは、……」。どうやら、8から3を借りてきて、7+3にして10、10に8−3=5を足して15と言わせようとしたかったのでしょう。こうしたやり方しか認めないのです。

先生は初めが肝心だからといいますが、この「初めが肝心」が問題です。自学自習で進む場合、どうあろうと、7+8の答えは15です。これ以上のものではありません。
《引用終り》

『「何を教えるかではなく、何を教えないか」の教育』という点と、『余白をのこして、自学自習の遊びをひき出す』という一節がありました。

私は、いろいろな考え方・プロセス(極端に言えば十人十色)があっても、最後の答えが合っていればOKというところが好きで、算数が好きでした。だから、上のような指導をされたら算数は嫌いになっただろうし、理系には行かなかったと思います。

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「自学自習への道」の「1.自分の可能性を知らない子どもたち」(p10〜39)を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用(p17)》
…「できる領域」と「できない領域」のあいだに、もう一つの領域、「自分ひとりではできないけれど、だれかに導かれることで、一人でできるようになる領域」があるのです。もちろん、さらにその外には、どんなに引っ張られても、どんなに導かれても、どうしても「できない領域」が依然として広がっています。

「できる領域」という第一の領域、「できない領域」という第二の領域、そして、この第三の領域。この第三の領域において、子どもたちは、それまでできなかったことが、自分ひとりでできるようになる。できなかったことができるに変じた奇跡的な出来事がいま、子どもたちに起こったのです。

この第三の領域こそが、子どもたちが生きて、手ずから「できる」を学び取った自学自習の場なのでした。
《引用終り》

そして、この第三の領域こそが、ヴィゴツキーの最近接領域なのでした。

《以下引用(p19)》
しばしばこんな質問に出くわすことがあります。子どもがいわゆる学習をはじめるのに、もっとも適している時期とはいったい、いつなのでしょうか、と。

一般には子どもがもっとも学習意欲をわかせ、自分からやりたいというとき、と答えるお父さんお母さんが多いのではないでしょうか。興味をもって、たのしんで学習できるときが、学習をはじめるのにもっともふさわしい時期だ、と。
《引用終り》

理想はそうでしょうが、下手するとそんな時は一生訪れない…。

《以下引用(p20)》
先生方は、子どもがおもしろがってやりたがる話(ネタ)をさがそうとします。できるだけ子どもに好かれる教育をめざすためです。質問に来たら、それにすぐにやさしく応える先生がいい先生、これが世間の常識です。
《引用終り》

しかし、子どもがよろこんで学ぶ内容、おもしろがって聞く話が、必ずしもその子の可能性を拓くのに適しているとはかぎりません。

「よろこんで学ぶ内容」とは往々にして、「できる領域」の内容です。これでは、いつまでたっても先に進みません。こんなふうに、子どもが先に進みたがらないのは…

《以下引用(p21)》
…自分自身もふくめてまわりのだれもがその子どもの可能性がどのあたりにあるのかを知らないからです。

しかし、教育の要は、まさにここ、子どもたちにとって未知なるものを学んでいく姿勢をどう身につけていくかにあります。だからこそ、いつの時代であっても教育が、その形の如何を問わず、人間の成長の過程にある種の挑戦を要求するのです。
《引用終り》

「学ぶ」とは、「命がけの跳躍」なのでありました。

《インデックス》

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(p1〜4)はじめに
1.前提となる「公文式」

「特別研究生」、その後

(p10〜43)教育の現場とは
2.佐世保の事件
3.「我に返す」ということ
4.「我を忘れる」ということ
5.学ぶということ

(p44〜58)公文公氏の最後のメッセージ、「特別研究生」
6.「教える」と「教えない」の間
7.「特別研究生」のグラフ

(p59〜69)公文公氏の方法
8.「特別研究生」つまづきの石

(p70〜89)特別研究生の後につづく指導運動―Iライン運動
9.Iラインのグラフ
10.「Iライン」運動の消滅

(p90〜109)斉田先生の教室で行われていたこと
11.斉田教室
12.自学自習を指導する
13.逆S字型学習曲線
14.特別研究生とIライン運動が目指したもの

(p110〜132)ちょうどの学習が実現できる場
15.採点について
16.標準完成時間について
17.自学自習という冒険
18.学年を越えた学習の必要性
19.自学自習の指導に必要なこと

(p133〜228)これからの教室はどう創るか
20.多様化の波
21.臨戦態勢の教室
22.斉田教室の入会初期指導
23.斉田先生の幼児教室
24.幼児教育とは幼稚な教育なのか
25.ちょうどなど、ない!
26.ヴィゴツキーの最近接領域
27.「学習とは?」再定義
28.アシスタントの役割
29.必要な二つの目と、よくありがちな教室の2つのタイプ
30.指導者管理型とアシスタント指導型
31.「ちょうどの学習」のための役割分担
32.「リアルタイムの採点」のための役割分担
33.生徒一人ひとりに目をくばることなど、しない
34.教えると、それ以上考えなくなる

番外.師匠と弟子

35.毎回、「頭をよくする」を続ける
36.頭の良し悪しの基準
37.「ちょうどの学習」と学力診断テスト
38.「見通し」とは
39.学力診断テストで「見通し」を決める
40.長期の「見通し」からの跳躍を可能にする、もう一つの「見通し」
41.無意味な復習はしない

(p229〜389)自学自習と教材の力
42.「学年を越える」とは未知の領域に挑戦するということ
43.「自学自習の指導」と「しつけ教育」との違い
44.「生徒」ではなく「指導」を点検する
45.学校の英語教育の欠陥をさらに助長する
46.英語の「運用上の言葉のきまり」を学ぶための教材プログラム
47.英語で行われる「ちょうどにする指導」
48.学力がつけば人格的にも立派になる
49.読書してるとき何が起きているか
50.「縮約」という方法〔1〕
51.縮約と読書の作法
52.考えさせる授業
53.Eの前のE五冊
54.「縮約」という方法〔2〕
55.国語で行われる「ちょうどにする指導」
56.「ろば売りの親子」のような教材改訂ではいけない
57.足し算は指折りから
58.間違いを見つける方法を分数で身につける
59.算数から数学へ
60.オランダのオールタナティブ教育

(p391〜561)自己を創造するー学年の枠をのりこえて
61.「会社の仕事」と教育の「方法」
62.個性は発達の機縁となる種子
63.個性を生かす教育
64.アシスタントはスタッフではない
65.「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の総括
66.冒険者をケアする教育

自学自習への道
(p10〜39)1.自分の可能性を知らない子どもたち
1.自分の可能性を知らない子どもたち

(p40〜93)2.ちょうどの学習が教育にはもっとも大切
2.余白をのこして、自学自習の遊びをひき出す

(p94〜138)3.ちょうどにする指導とは、何をどう指導することか
3.余白をのこして、自学自習の遊びをひき出す

(p139〜191)4.可能性の追求、そして、全面発達を可能にする自学自習
4.自学自習は自楽自習

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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「自己を創造するー学年の枠をのりこえて」(p391〜561)の「子どもの可能性に向き合う教育」(p520〜561)を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用(p532)》
…広井良典氏は『ケアを問いなおす』(1997)において、

ところが、現在の医療の展開をみると、一言で言えば、「あらゆる局面において、『サイエンスとしての医療』が、『ケアとしての医療』と思わぬかたちで出会い、”反転”を余儀なくされる」という局面が浸透しつつある。

と、述べている。
《引用終り》

本書には、高齢者医療、ターミナルケア等、具体的な解説がありますが、ここでは割愛。

《以下引用(p533)》
広井氏は、対象との切断や自然支配、統御、また、経験的、実証的な合理性を追求するサイエンスの発展の縦軸と、対象との共感や一体性、自然親和性、また、対象の個別性や主観性を重視する「ケア」の充実を横軸にして、「サイエンス」と「ケア」の分裂をシステマティックな視野のもとにおさめるマトリックスをえがいている。…しかし、どうか。生命の実態を概念で思いえがくことはできる。しかし、空転するあやうさがある。…最近の学校に配置されている学校カウンセラーが価値をもつのは、学校自体が生きて躍動する世界であればこそなのである。《引用終り》

学校での学習と、学校でのカウンセリングが強い連携を持っていなければ、学校カウンセラーはたまたま学校にいる医療カウンセラーに過ぎないのではないか?

《以下引用(p535)》
学習者は広い意味で時間とともに成長する主体者である。したがって、指導者はこの学習者の成長をつらぬく時間を見守ることになるわけで、学習する行為全体がケアする心に支えられていなければならない。もしそうであるとするなら、教育もまた、そこで学ぶ子どもたちをケアする行為として再構築しなければならないわけであり、対象とする科目に対してもまた、ケアの心でつつみこみ、人間の五感に発する人間的能力を土台にした学び方が要求されることになる。

子どもたちが真に学ぼうとするとき、これまでつちかった学力だけでなく、感覚、記憶、そして、それまでの自分の経験のすべてを出し切らないと達成できない、そういう局面に出くわす。そして、いわば、そこでの挑戦的な、自分を賭けた格闘のなかで、それを学び取っていく、この行為こそが人が学ぶ、ということである。これは従属的な姿勢のままで、与えられたことを従順に習得する行為だけで達成されるものではない。子どもが自学自習という学習経験をつみかさねていくことによって、はじめて得られるのである。けっして学力をつければいい、従順ならいい、まじめがいい、という世界のことではない。精神的能力だけでなく、身体的能力もふくめて、すべて全身全霊、かたむけてこそ、子どもの目のまえの世界は広がるのだ。
《引用終り》

面白い例があります。

《以下引用(p536)》
道でアメリカ人に道を問われたとする。語彙数一万の英語の得意な生徒はいとも簡単にわかりやすく道を教えた。中学生レベルの英語力の生徒は「パードン・ミー」を連発して、身振り手振りでなんとかその場を切りぬけた。英語の学力がなきにひとしい生徒は、やっとこさ相手の気持ちを察して目的地を聞き取ったが、道順を英語で教えることができない。ええい、めんどうだ、ぼくについてらっしゃいと、そのアメリカ人の道案内をみずから買って出た。さあ、どの生徒のコミュニケーション能力がもっともその外国人に感謝されたか。最後の生徒だろう。この生徒はこうしたアウトプットの場でいかに多くのものを学んだことだろう。しかし、これを見た指導者は、やはりこの生徒には語彙力、文法力など、基礎基本の学習が必要だと思うはずである。
《引用終り》

そうすれば、鬼に金棒ですね。

《以下引用(p537)》
基礎基本は、他流試合に敗れた人のもどる場所であり、他流試合に敗れた人のもどる場所であり、さらに流暢な英語力をものにしたい生徒のもどる場所であり、もっともしぜんな英語力を学習したいと思う人のもどる場所なのだ。教育がケアの性格をもつというのは、こうした基礎基本の学習の性格を思いえがいたうえでのことである。基礎基本を学ぶ場が、個人別の学習空間であり、自学自習の学びをする場所である理由もここにある。…

みずからの力不足を経験したかれらはしずかに自省をくり返して、自学自習の世界にもどっていく。その場が「基礎基本を学ぶ」場所である。剣術の修行者は、他流試合に敗れたら、どこへもどるのか。自己研鑽の道場へいくのである。武芸だけのことではない、スポーツの世界もそうだし、勉強の世界であっても、こと自己研鑽にかんしては同じことである。
《引用終り》

勉強の場合は、そこで「ケアとしての教育」が行われることになります。

《以下引用(p537)》
ムダな部分をそぎおとして、基礎基本だけを自学自習できる教材が「ケアとしての教育」には不可欠のものになる。しかも、学年という枠をとっぱらった無学年制の教材を用意するのだ。生徒は自己の能力に合わせて学年を越えて学習することもできるし、自分の学年以下のところにもどって学ぶこともできる。学習方法は自学自習である。学力のつき具合がはっきりわかるし、効果的でもある。学習しにくくなったら、自分の弱点を補強するために復習もできる。
《引用終り》

それが公文式の教材、ということになります。

《インデックス》

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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「自己を創造するー学年の枠をのりこえて」(p391〜561)の「子どもの可能性に向き合う教育」(p520〜561)を読みました。(小林教室収蔵

いよいよ最終章ということで、これまでのことが総括されている感じがあります。

《以下引用(p520)》
〈現場〉は子どもたちが必要とするものを必要なだけ与えることのできる〈指導の場〉であり、これにこたえて生徒がいどむ〈学習の場〉があってはじめて成り立つものなのだ。ここにあるのは、明日の成就に向かって必要とするものだけであり、大人がかってに考えた到達基準といったものなどが入りこむすき間はない。そこでは、指導者はつねに子どもたちが明日に向かって「ちょうどの学習」をおこなっているかどうかを確認しては、「ちょうどの学習」でない状態があれば「ちょうどにする学習」をおこなう〈学習×指導の場〉である。指導者は監督者ではない、観察者ではない。数学においては定義知(計算)を、国語においては経験知(読書)を、英語においては運用知(読解力)を突破口にする。そして、作業力に不足があるとみれば、どこにその原因があるかをじっさいに見さだめて、学習が順調にすすむ指導をおこない、理解力に不安定さがあるとみれば、どこにその原因があるかをじっさいに見さだめて、自学自習ができるにふさわしい理解力にまでみちびく。そして、みずからの学ぶ力を実感した子どもたちなら、当然、もっと学びたいという学習態度が形成できているはずなのに、これができないで、そこにたたずむ子がいれば、その子に、「やってみよう、やってみなければ、わからない」と言って、自分の力だけでできていることを証明してみせる指導をおこない、その生徒にふさわしいほんのちょっとの冒険を試みさせる。
《引用終り》

問題が提起され、自分で取り組んでは見るものの最終的には模範解答・解法が提示され、それを暗記する…その繰り返しも大切ではありますが、それに終始したのでは後ろ向きの人間にしか育たない。「冒険を試みさせる」というところに、公文式は学習塾ではないと言う所以があるのでした。

《インデックス》

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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「自己を創造するー学年の枠をのりこえて」(p391〜561)の「教育改革から指導力向上運動へ」(p480〜519)を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用(p494)》
スタッフは一般には現場での仕事をささえる裏方とされている。小売店で接客にあたったり、非正規の従業員にこの言葉をあてたりする場合もあるが、じっさいは専門的な技能をもって現場をとりまく状況そのものにふかくかかわるのが本来業務である。映画制作などの場合をみれば、出演者以外で制作にたずさわる監督やプロデューサーなどはスタッフである。
《引用終り》

この本で「アシスタント」と呼んでいる人のことをうちの教室では「スタッフ」と呼んでいるのですが、これはまさに「小売店で接客にあたったり、非正規の従業員にこの言葉をあてたりする場合」に相当する使い方なわけです。

《以下引用(p495)》
ラインもスタッフも元来は軍隊がモデルの言葉、スタッフは参謀であり、ラインは前線に立つ兵士である。業務の遂行に直接かかわるラインはピラミッド型の指示命令系統をもつが、スタッフは専門家集団として分野ごとに分かれて、ライン業務を補佐する。ラインだけの組織の場合、現場責任者の責任がおもくなりすぎて、業務の方向性との連携がうまくいかなくなる場合が多い。
《引用終り》

元来の意味からすれば、アシスタントとはラインの中のピラミッドの底辺に位置しますから、これをスタッフと呼ぶのは完全な誤用になります。公文式の場合、スタッフに相当するのは事務局なのかもしれません。

《以下引用(p495)》
しかし、かつての日本の軍隊のように、天皇の統帥権をカサにスタッフである参謀が、ラインである前線へ命令を出し、前線からの状況報告にも耳をかさずに独断に独断をかさねた過去のにがい経験がある。本来ならスタッフは原則的にはラインから独立していなければならず、ラインへの命令権はもたないのが原則であるが、この「スタッフ―ライン」直結型の組織は、緊急時になればなるほどもろく瓦解しやすい。ラインが自分勝手にうごいたり、スタッフが状況認識も不十分のまま指揮命令権を濫用したりする例がしばしばあるのだ。
《引用終り》

日本の教育を考えますと学校がラインで文科省がスタッフに相当するかと思うのですが、「ラインである前線へ命令を出し、前線からの状況報告にも耳をかさずに独断に独断をかさねた」というところまで、残念ながら、ピッタリ該当しているような気がします。「ラインへの命令権はもたないのが原則であるが」文科省はしっかり命令権を持っているので『「スタッフ―ライン」直結型の組織』ということになり、「緊急時になればなるほどもろく瓦解しやすい」というセオリー通りに現実が進行しているようです。

本当に、「何事も学ばす何事も忘れず」な国民です。「にがい経験」を活かさずに、壊滅的な状況に至るまで、私たちは同じ轍を辛抱強く踏み続けるのでしょうか?

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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「自己を創造するー学年の枠をのりこえて」(p391〜561)の「自分本位を貫いた先に見えるもの」(p458〜479)を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用(p471)》
全体主義的な社会では、個性は不要とされるか、むしろ害になるものとしてフタをしてしまうだろう。しかし、個性を認めない社会に変化や発展はない。もともと教育はつねに一人ひとりの「自分」から発して、これに変化を起こし、集団に伝播させ、そして、やがては大きな革新へと発展させるものである。
《引用終り》

有性生殖で増殖する種が繁栄を極めていることが、何より多様な個性を認めることが発展につながるということの証拠だと思います。

いろんなバリエーションを持つ社会いろんなバリエーションを持つ個人は、様々な状況変化に対応する力を持っているのです。

バリエーションを持つことで発展してきたものの例として、思想では仏教社会では江戸教育では公文式が挙げられます。

《以下引用(p473)》
「障害」を個性とみる見方がある、と先に述べた。この人たちもまた、社会的に有意な力能をもつ「個人」でなければならないとするなら、障害は個性などではない。社会的な制約を受けることと個性は同じではない。じっさいには障害をもつがゆえに実社会ではさまざまな困難に出会い、いわれなき差別を受けているのである。日常生活や社会生活でさまざまな制約を受けていてもなお、教育の現場からも締め出されてしまうのだろうか。社会的個人として遇するとしても、その個人には障害があり、「社会のメンバーの一員」としてあつかわれない状況がある。個人には感情もあり、コンプレックスもあるのだ、という地点を出発点にしない教育は幻想ではないのか。
《引用終り》

才能と煩悩は本質的には同じものだと思いますし、個性と病気(障害)も本質的には同じものだと思います。障害と引き換えに得られた才能を見つけ、歴史に残る偉業を果たした人々はたくさんいるのです

《以下引用(p474)》
塙保己一や本居春庭(宣長の長男。「係り結びの法則」など、国文法の研究に従事した。保己一同様、視力は失われていた)のような抜群の知力をしめした学者や、多くの善男善女の心を魅了する視覚障害をもったピアニスト、また、下半身が不自由なテニスプレイヤーもいる。この人たちの天才である所以はさまざま語られているが、忘れてならないのは、この人たちが学ぶ機会を想像もできないほど豊富に与えられてきた事実である。言うまでもないことだが、なにもしないで視覚の不自由なピアニストがコンクールで表彰の栄に浴するはずはないのである。
《引用終り》

深刻な障害であれ、強いコンプレックスを抱くような能力不足であれ、そこに「意味」を見つけて絶望や諦めから這い上がった者にだけ光は差し込みます

オランダのスタディハウスの学習は、ディスカッションやプレゼンテーションを繰り返す中で、自他の得手不得手を認識し、グループ内で能力を相互補完できるようなコミュニケーション能力を身につけることを主眼としているようでした。

こういう人たちで構成される社会は、個々の得意分野を生かし合い、認め合い、様々な個性のバリエーションが強さにつながっていきます。しかも、個々の人々は、自分の存在する「意味」を見つけ、自覚し続けることができます。

教育は、そういう社会を目指すべきです。

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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「自己を創造するー学年の枠をのりこえて」(p391〜561)の「教育改革の行方・教育に希望はあるか」(p414〜458)を読みました。(小林教室収蔵

霜里ファームの有機農業が紹介されています。興味深いお話でした。

《以下引用(p457)》
くり返すが、教育の目標は学校や国がさだめる集団的な目標である。学校全体で取り組む課題意識を集中するためのものである。しかし、学習は生徒個々の可能性の実態にそくした「ちょうどの学習」をすすめるものであり、現場の指導はこの個性あふれる個人に対しなければならないものなのだ。だからこそ、公文氏は「21世紀は個人別教育の時代になる」と言ったのだ。個人別教育とは一人ひとりの学習の芽を生き生きとした生長に導くことを意味していたのである。

このように整理することにより、これまでの「学習指導要領」の堂々めぐりや、いつまでたっても成果の出ない「基礎基本の徹底」の位置づけが明確になる。おたがいが十分に遂行できなかった責任を他に転嫁することがなくなるはずである。

個性は克服すべきものではない。金子氏の農園はまるで里山だった。公文氏は「能力の低い者こそ、さきに進める」と言った。斉田先生は指導の結果、高進度学習者を数多く出す教室になった。社会的力能のために生徒は従属する存在ではないのだ。いまの教育がそうだからといって、いまの社会がそうだからといって、個性はそのままで発達の機縁となる、どうあろうと、よき種子なのだ。
《引用終り》

学校全体の経営に責任を持つ校長先生の視点、クラス全体の経営に責任を持つ担任の先生の視点は、文科省が各学校を見下ろすのと同じ方向性のような気がします。個々の子どもの個性を見上げ、伸ばしてあげようという視点とは、方向性が逆です。

教育者に求められる視点とは本来、後者の視点だけの筈です。しかしながら、文科省監督下の職員という立場では前者の視点をも持ち合わせなければいけないし、日々その葛藤に苦しまなければなりません。そして、どちらかを選ばねばならないという状況では、前者の視点を選ぶのが良きサラリーマンとしてのモラルです。

そう考えると、現体制下では、学校の先生は、教育者としての立場を全うできない構造上の欠陥があるということになります。この欠陥が顕在化しないように文科省が細心の配慮を行わなければいけないのですが、そんなことするわけがない…。

こんな状況の中で、個性を伸ばす教育を呼びかけても、個性(わがまま)を看過するのが関の山です。本当に、学校の先生は大変なお仕事だと思います。

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