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「唯識入門」(春秋社)
「第五章.識のはたらき」の「二.識の機能」を読みました。

世親の『唯識三十頌』の第三偈です。

そして、それ(アーラヤ識)は感知できない執受と住処との了別を有し、つねに触と作意と受と想と思(という五つの心作用)に伴われている。(第三偈)

《以下要約》
アーラヤ識も識であるかぎりは、所縁があり行相があるはずですが、潜在的に機能しているので、通常の六識のように顕著なものはありません。それを「感知できない」と言っています。行相は「了別」作用、「執受」と「処」が所縁となります。

例えば、眼識ならば、眼根を所依として、色を所縁としてはたらく作用です。行相は「見る」。

「執受」とは、アーラヤ識によって了別された形(つまり、所縁としての形)でいうと、個体存在としてまとまったいるもの。すなわち、各種の感官(根)とその土台(所依)となる身体(「有根身」と『成唯識論』では訳される)と、その個体に付属しているとみなされる各種の精神作用(「名」と呼ばれる)の二つです。

アーラヤ識は、有根身と名を合せたものを、まだ「我」だと意識するわけではないのですが、ひとつのまとまりある個体であると認識します。

しかし、唯識の理論では感官を具えた身体は外界に実在しないと考えるので、それは我および、その個体にかかわるかぎりの諸法を分別(=了別)する機能(これは汚れたマナスと六識の作用)が引き起こした習気にほかならない、と捉えます。

アーラヤ識はかつて自ら現わし出した像の習気を素材として次の認識活動行っています。言わば識の自己生殖であり、これが「識の転変」です。

もうひとつの「感知できない所縁」である「処」(住処)は、自己自身以外の外界と通常われわれが考えている存在です。そのうち他人の個体を「有情世間」それ以外を「器世間」と言います。

これも色などとして妄分別した習気として、アーラヤ識の中に貯えられたものです。

執受と処は内か外かの違いで、両者を合わせれば一切の「名色」となります。
《以上要約…詳しくは本書参照》

《つづく》