Tag:仏教
心理学としての仏教
「○○としての仏教」という記事を書いてから、7年も経とうとしています。仏教に含まれる内容の幅の広さについて書いた記事です。
例えば「ぶっちゃけ寺」という番組があります。日本史への興味関心から嫌いじゃない内容ではあるのですが、何か違和感を感じてしまって視聴し続けることができません。もちろん、この番組も「仏教」には違いないのでしょうが、私が「仏教」に求めているものとは違う。
また、「葬式仏教」と揶揄する言葉があります。一般の人が仏教と接するのは死者を弔う時に限られるような現状ですから、仕方のないことかもしれません。これも、私が求めている「仏教」ではありません。
私が「仏教」に向き合うことにした理由、それは般若心経の中の「照見五蘊皆空度一切苦厄」だったような気がします。もっと絞れば「度一切苦厄」。生老病死という苦しみから救われる方法、他者を救う方法を見つけることを仏教は目指している!…と発見したのがきっかけです。
そして、今年に入ってから心理学の本を読むようになりましたら、その中に自分が仏教に求めていたものがあることに気づいたのでした。
ケリー・マクゴニガルさんの三部作(勝手に選定:「Yoga for Pain Relief」「Willpower instinct」「upside of stress」)を読むと、「呼吸法」「瞑想」「欲望のコントロール」「一日一善」等々、順不同で思いつくまま羅列しましたが、仏教の修行法とダブるものが多々あります。
仏教は長い歴史の中で、修行者の能力開発法を見つけ、ノウハウを蓄積していったのでしょう。心理学は科学的な実験によってその手法の数々を見つけ出しています。両者を結び付けていくことで、仏教の修行にもエビデンスを付け加えていくことができるような気がしています。
例えば「ぶっちゃけ寺」という番組があります。日本史への興味関心から嫌いじゃない内容ではあるのですが、何か違和感を感じてしまって視聴し続けることができません。もちろん、この番組も「仏教」には違いないのでしょうが、私が「仏教」に求めているものとは違う。
また、「葬式仏教」と揶揄する言葉があります。一般の人が仏教と接するのは死者を弔う時に限られるような現状ですから、仕方のないことかもしれません。これも、私が求めている「仏教」ではありません。
私が「仏教」に向き合うことにした理由、それは般若心経の中の「照見五蘊皆空度一切苦厄」だったような気がします。もっと絞れば「度一切苦厄」。生老病死という苦しみから救われる方法、他者を救う方法を見つけることを仏教は目指している!…と発見したのがきっかけです。
そして、今年に入ってから心理学の本を読むようになりましたら、その中に自分が仏教に求めていたものがあることに気づいたのでした。
ケリー・マクゴニガルさんの三部作(勝手に選定:「Yoga for Pain Relief」「Willpower instinct」「upside of stress」)を読むと、「呼吸法」「瞑想」「欲望のコントロール」「一日一善」等々、順不同で思いつくまま羅列しましたが、仏教の修行法とダブるものが多々あります。
仏教は長い歴史の中で、修行者の能力開発法を見つけ、ノウハウを蓄積していったのでしょう。心理学は科学的な実験によってその手法の数々を見つけ出しています。両者を結び付けていくことで、仏教の修行にもエビデンスを付け加えていくことができるような気がしています。
「秘蔵宝鑰」インデックス
摩訶(仏物01)
『仏教と現代物理学』(自照社出版)「序章 『般若心経』概説」(p1〜50)の「1.小心と大心」(p4〜19)を読みました。
『般若心経』の最初の2文字、「摩訶」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p2)》
これは天竺のことばなり。摩訶とは、大というこころなり。大というこころを知らんとならば、先ず我が小さき心を尽くすべし。小心とは、妄想分別なり。妄想分別あるが故に、我と人との隔てをなし、仏と衆生の隔てをなし、有無を隔てて、迷悟を分かち、是非・善悪の隔てあり。これを小心とはいうなり。この心を尽くせば、我と人の隔ても、仏と衆生の隔てもなくして、有無の心も、迷いということも、悟りということも、皆平等にして、さらに隔てあることを知らず。これを大心というなり。この意は、虚空の限りなきが如し。これ即ち一切衆生の我々の上に、元来備わりたる本性なり。しかれども、凡夫は妄想分別の小さき心におおわれて、この大心を見ることを知らず、色々分け隔ての心ある故に、有無の二つに迷い、生死の二つに隔てられ、種々に顚倒迷妄するなり。
《引用終わり》
「摩可」は「天竺のことば」と一休さんは解説していますが、「インドの古語であるサンスクリット語mahaの音訳」(p5)です。空海が「真言」と「陀羅尼」とか呼んだものと同じかと思います。
mahaは「大」という意味であるというところから、心にも「大」と「小」があるという話になっています。小心とは、「私たちが日常的に経験する生死・善悪・愛憎・悲喜・快苦・幸不幸・美醜・損得など」(p5)二元性をすべてと考え、それにとらわれてしまう心です。
こういった物事の区別を解する能力を分別と書き、「ふんべつ」と読んでも「ぶんべつ」と読んでも、現代社会を生きる上でとても必要なものです。これが無ければ社会的には尊敬されません。でも、仏教(一休)はこれを小心と呼んでいます。なぜなら、これが全ての苦しみの根源だからでしょう。
大心と小心を、浄影寺慧遠は心性と心相(p7)、空海は本心と妄念(p8)、親鸞は本心と散心(p8)、あるいは仏心と人心(p10)、王陽明は道心と人心(p10)、神道では赤心と黒心(p11)と、(全くイコールではないかもしれませんが)呼んでいるようです。
《インデックス》
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『般若心経』の最初の2文字、「摩訶」についての解説です。一休さんの『般若心経提唱』での該当箇所を引用します。
《以下引用(p2)》
これは天竺のことばなり。摩訶とは、大というこころなり。大というこころを知らんとならば、先ず我が小さき心を尽くすべし。小心とは、妄想分別なり。妄想分別あるが故に、我と人との隔てをなし、仏と衆生の隔てをなし、有無を隔てて、迷悟を分かち、是非・善悪の隔てあり。これを小心とはいうなり。この心を尽くせば、我と人の隔ても、仏と衆生の隔てもなくして、有無の心も、迷いということも、悟りということも、皆平等にして、さらに隔てあることを知らず。これを大心というなり。この意は、虚空の限りなきが如し。これ即ち一切衆生の我々の上に、元来備わりたる本性なり。しかれども、凡夫は妄想分別の小さき心におおわれて、この大心を見ることを知らず、色々分け隔ての心ある故に、有無の二つに迷い、生死の二つに隔てられ、種々に顚倒迷妄するなり。
《引用終わり》
「摩可」は「天竺のことば」と一休さんは解説していますが、「インドの古語であるサンスクリット語mahaの音訳」(p5)です。空海が「真言」と「陀羅尼」とか呼んだものと同じかと思います。
mahaは「大」という意味であるというところから、心にも「大」と「小」があるという話になっています。小心とは、「私たちが日常的に経験する生死・善悪・愛憎・悲喜・快苦・幸不幸・美醜・損得など」(p5)二元性をすべてと考え、それにとらわれてしまう心です。
こういった物事の区別を解する能力を分別と書き、「ふんべつ」と読んでも「ぶんべつ」と読んでも、現代社会を生きる上でとても必要なものです。これが無ければ社会的には尊敬されません。でも、仏教(一休)はこれを小心と呼んでいます。なぜなら、これが全ての苦しみの根源だからでしょう。
大心と小心を、浄影寺慧遠は心性と心相(p7)、空海は本心と妄念(p8)、親鸞は本心と散心(p8)、あるいは仏心と人心(p10)、王陽明は道心と人心(p10)、神道では赤心と黒心(p11)と、(全くイコールではないかもしれませんが)呼んでいるようです。
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一心の性、仏と異なることなし(神人68)
「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。
般若心経のマントラ(真言)に関しては以前にも取り上げました。その時の解説と比較してみて下さい。
《以下引用(p265)》
私はここに空海の思想のエッセンスが纏められているように思う。彼の多くの著作はこの詩頌の脚注と見ることができる。
…どんな人も真の安らぎの場を求めているのであろうが、ここ(三界)は客舎であって、あなたがいつまでも留まるべき本当の場所ではない。旅の途次、家を構える人などいないであろうが、われわれがしていることはそれと変わらないのだ。そして、何度も試みては、壊れていった。その哀しみをわれわれは幾度も経験している。われわれ自身がどこにも身体を休めることができず、生死去来しているまろうどであるとも知らず、客舎を飾って、どれだけ長く留まれるものであろうか。そう、われわれ人間は心の内側に帰るべき永遠の故郷があることをすっかり忘れているのだ。「久しく方(みち)を還源(げんげん)に迷うて、長く境を帰舎に酔えり(空海『性霊集』巻第七)」。
そこはわれわれが現れ出てきた本源(原初)であるが故に帰るべき故郷なのだ。初めに原初があり、終りに原初がある。人間は二つの原初(gzhi)の間で悲喜こもごも生死の夢を見ているのだ。
心の本源(一心)は、もとより静寂で、至福と安らぎに充ちている。何ら欠けるものはない(円寂)。いつも変わらずそうなのだ。ところが、あなたは本源に背き、末節に向かうが故に生死の苦海に自ら身を淪め、遠き異郷の地をさ迷い始めたのだ。そして、あなたがこの地上で捨身しなかったところを探し出すのは難しい。これ以上どこへ行くことも、また何をする必要もない。ただ、あなたは自分の内側へと深く、より深くへと入り(行行)、自分も世界もすべてが銷殞する(去去)、原初へと辿り着けさえすればよいのだ。そこがあなたの永遠の故郷であり、真に安らぐ涅槃の都(本居)であるからだ。…
…「衆生は狂迷して本宅を知らず、三趣に沈淪し四生に趻跰す。苦源を知らざれば還本に心なし(空海『十住心論』第一異生羝羊心)」。…
さらに空海は「末を摂して本に帰すれば、一心を本となす。一心の性、仏と異なることなし(空海『遺誡』)」と言う。彼は心の本源(一心)が仏であると言うのだ。
《引用終わり》
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般若心経のマントラ(真言)に関しては以前にも取り上げました。その時の解説と比較してみて下さい。
《以下引用(p265)》
私はここに空海の思想のエッセンスが纏められているように思う。彼の多くの著作はこの詩頌の脚注と見ることができる。
…どんな人も真の安らぎの場を求めているのであろうが、ここ(三界)は客舎であって、あなたがいつまでも留まるべき本当の場所ではない。旅の途次、家を構える人などいないであろうが、われわれがしていることはそれと変わらないのだ。そして、何度も試みては、壊れていった。その哀しみをわれわれは幾度も経験している。われわれ自身がどこにも身体を休めることができず、生死去来しているまろうどであるとも知らず、客舎を飾って、どれだけ長く留まれるものであろうか。そう、われわれ人間は心の内側に帰るべき永遠の故郷があることをすっかり忘れているのだ。「久しく方(みち)を還源(げんげん)に迷うて、長く境を帰舎に酔えり(空海『性霊集』巻第七)」。
そこはわれわれが現れ出てきた本源(原初)であるが故に帰るべき故郷なのだ。初めに原初があり、終りに原初がある。人間は二つの原初(gzhi)の間で悲喜こもごも生死の夢を見ているのだ。
心の本源(一心)は、もとより静寂で、至福と安らぎに充ちている。何ら欠けるものはない(円寂)。いつも変わらずそうなのだ。ところが、あなたは本源に背き、末節に向かうが故に生死の苦海に自ら身を淪め、遠き異郷の地をさ迷い始めたのだ。そして、あなたがこの地上で捨身しなかったところを探し出すのは難しい。これ以上どこへ行くことも、また何をする必要もない。ただ、あなたは自分の内側へと深く、より深くへと入り(行行)、自分も世界もすべてが銷殞する(去去)、原初へと辿り着けさえすればよいのだ。そこがあなたの永遠の故郷であり、真に安らぐ涅槃の都(本居)であるからだ。…
…「衆生は狂迷して本宅を知らず、三趣に沈淪し四生に趻跰す。苦源を知らざれば還本に心なし(空海『十住心論』第一異生羝羊心)」。…
さらに空海は「末を摂して本に帰すれば、一心を本となす。一心の性、仏と異なることなし(空海『遺誡』)」と言う。彼は心の本源(一心)が仏であると言うのだ。
《引用終わり》
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主客の消え去ることを空という(神人67)
「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。
《以下引用(p262)》
…主客の実在論的二元論の構造が根底から崩れ、あらゆるものが銷殞するとき、初めて真理の一瞥が可能になるということだ。これを「人と法との二種において無我になることを知るを謂う。能取と所取とに体有ること無きを知るに由るが故なり」。(無著『大乗荘厳経論(随修品)』)
《引用終わり》
「銷殞」という言葉、好きです。p258にも出てきましたが、『十牛図』の説明でも出てきました。
《以下引用(p262)》
この場合の真理はその都度、単独者の主体的な体験として、各々が自ら獲得しなければならないものである。宗教が組織や団体になると形骸化が避けられないのも、宗教的真理のこの特異性にある。宗教が単独者の主体の問題であるといわれて、それに耐えられる人は多くないからである。
《引用終わり》
宗教の問題点ですね。これについては5章でも触れられていました。8章では、聖職者が凡夫の俗っぽい祈りを導いているおかしさが指摘されていました。
《以下引用(p262)》
主客の実在論が捉えるいわゆる科学(客観)的真理と宗教(主体)的真理の違いは今述べた認識の形式にある。私が学問とはひとつの仮説に過ぎないというのも、観察するものと観察されるものがいずれも空から生じた仮有であり、主客の妄執が構築した理論(もの)であって、それには終るということがあるからだ。もっとも共同幻想の世界に生きる限り、その仮説にも意味はあろうが……。
《引用終わり》
これは科学(学問)の問題点ですね。学問と宗教の違いについて、もう少し詳しく書いているのがこちらです。
《以下引用(p262)》
このように摂末帰本の道を辿り、見るもの(人我)と見られるもの(法我)が消え去るところを空という。そして空の体験なくして真実は現われてこない。それは見ているあなたが消えて初めて起こり得ることなのだ。だから空海は「人我の空を解(さと)らずして、何ぞ法空の理を覚らん。この故に生死に流転して涅槃を得ず」(『十住心論』「第四唯蘊無我心」)と言うのだ。
《引用終わり》
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《インデックス》
《以下引用(p262)》
…主客の実在論的二元論の構造が根底から崩れ、あらゆるものが銷殞するとき、初めて真理の一瞥が可能になるということだ。これを「人と法との二種において無我になることを知るを謂う。能取と所取とに体有ること無きを知るに由るが故なり」。(無著『大乗荘厳経論(随修品)』)
《引用終わり》
「銷殞」という言葉、好きです。p258にも出てきましたが、『十牛図』の説明でも出てきました。
《以下引用(p262)》
この場合の真理はその都度、単独者の主体的な体験として、各々が自ら獲得しなければならないものである。宗教が組織や団体になると形骸化が避けられないのも、宗教的真理のこの特異性にある。宗教が単独者の主体の問題であるといわれて、それに耐えられる人は多くないからである。
《引用終わり》
宗教の問題点ですね。これについては5章でも触れられていました。8章では、聖職者が凡夫の俗っぽい祈りを導いているおかしさが指摘されていました。
《以下引用(p262)》
主客の実在論が捉えるいわゆる科学(客観)的真理と宗教(主体)的真理の違いは今述べた認識の形式にある。私が学問とはひとつの仮説に過ぎないというのも、観察するものと観察されるものがいずれも空から生じた仮有であり、主客の妄執が構築した理論(もの)であって、それには終るということがあるからだ。もっとも共同幻想の世界に生きる限り、その仮説にも意味はあろうが……。
《引用終わり》
これは科学(学問)の問題点ですね。学問と宗教の違いについて、もう少し詳しく書いているのがこちらです。
《以下引用(p262)》
このように摂末帰本の道を辿り、見るもの(人我)と見られるもの(法我)が消え去るところを空という。そして空の体験なくして真実は現われてこない。それは見ているあなたが消えて初めて起こり得ることなのだ。だから空海は「人我の空を解(さと)らずして、何ぞ法空の理を覚らん。この故に生死に流転して涅槃を得ず」(『十住心論』「第四唯蘊無我心」)と言うのだ。
《引用終わり》
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仮有は有にあらざれども有有として森羅たり(神人66)
「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。
《以下引用(p260)》
間違ってはならないのは、虚妄なる世界にわれわれが迷い込んだのではない。本源を運んで「三界を画作」しているのはあなた自身なのだ。もしそのように考えるなら世界(世間)を超える(超過三界道)という宗教的要諦が、この世界を離れたどこかに真実の世界を探し求めるというとんでもない間違いを犯すことになる。虚妄の世界と真実の世界が二つ存在しているのではない。本源に徹し、覚ることができれば虚妄は真実ともなる。「是の如く真諦(真実)と俗諦(虚妄)は但だ二義のみ有って二体あることなし」。法蔵『華厳五教章』(「所詮差別」)より
《引用終わり》
このことは今までにもいろいろ出てきましたが、5年ほど前に「龍樹」から引用している記事がありました。懐かしい…。
《以下引用(p261)》
しかし、ここに奇妙なことがある。それはあなたが自らの実存に深く入っていくと、あなたは自分が消えていくように感じるだろう(人無我)。それだけではない、あなたがこれまで見ていた世界もまた消える(法無我)。何故であろうか。それはわれわれの内なる本源が本より空(無)であるからだ。逆に言えば、あなたを含むあらゆるものが空から生じた仮有であり、実際には存在しないにもかかわらず連綿と形をとって現象してきているのだ。「空はすなわち仮有の根なり。仮有は有にあらざれども有有として森羅たり」。空海『十住心論』(「第七覚心不生心」)より
《引用終わり》
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《以下引用(p260)》
間違ってはならないのは、虚妄なる世界にわれわれが迷い込んだのではない。本源を運んで「三界を画作」しているのはあなた自身なのだ。もしそのように考えるなら世界(世間)を超える(超過三界道)という宗教的要諦が、この世界を離れたどこかに真実の世界を探し求めるというとんでもない間違いを犯すことになる。虚妄の世界と真実の世界が二つ存在しているのではない。本源に徹し、覚ることができれば虚妄は真実ともなる。「是の如く真諦(真実)と俗諦(虚妄)は但だ二義のみ有って二体あることなし」。法蔵『華厳五教章』(「所詮差別」)より
《引用終わり》
このことは今までにもいろいろ出てきましたが、5年ほど前に「龍樹」から引用している記事がありました。懐かしい…。
《以下引用(p261)》
しかし、ここに奇妙なことがある。それはあなたが自らの実存に深く入っていくと、あなたは自分が消えていくように感じるだろう(人無我)。それだけではない、あなたがこれまで見ていた世界もまた消える(法無我)。何故であろうか。それはわれわれの内なる本源が本より空(無)であるからだ。逆に言えば、あなたを含むあらゆるものが空から生じた仮有であり、実際には存在しないにもかかわらず連綿と形をとって現象してきているのだ。「空はすなわち仮有の根なり。仮有は有にあらざれども有有として森羅たり」。空海『十住心論』(「第七覚心不生心」)より
《引用終わり》
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夢落に長眠す(神人65)
「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。
《以下引用(p259)》
人間は意識・無意識を問わず共同幻想の中に生きている。そして、人の一生は問題に継ぐ問題であるように思われるが、それらはすべて冗々として事、麻の如き共同幻想の中にのみ存在するものなのだ。存在の意味を共同幻想の枠組の中でいくら考えても見い出せないだろう。考えるほど泥沼の深みに嵌るのが落ちだ。
「世間虚仮」(聖徳太子)、「三界唯心夢幻空華」(臨済)、「三界虚偽唯心所作」(馬鳴)。このように彼らはいずれも同じ世界認識に到達している。共同幻想を生きているわれわれが世界は虚妄(夢のように仮有実無であるということ)であるなどと言うはずはないし、また言えない。当然、このように見たのは共同幻想の夢から目覚めた覚者ということになる。しかし彼らは、われわれが今見ている世界が虚妄であると言ったのであって、世界そのものが虚妄であるとは言っていない。まして世界が自ら虚妄であると言うはずもない。
「三界は自ら我れは是れ三界なりと道(い)わず」(『臨済録』)。
《引用終わり》
他にも「三界虚妄」(『華厳経』)、「三界虚偽」(『起信論』)、「三界如幻」(『楞伽経』)というのがあります。
《以下引用(p260)》
事実、覚者の目には同じ世界がことごとく真実と映っている。ただ、われわれの目にそう見えていないだけ。つまり、われわれ人間の中で奇妙な転倒が起こっているのだ。…
「誠にこれ本に背き末に向ひ、源に違して……、幻野に荒猟して帰宅に心なく、夢落に長眠す。覚悟何れの時ぞ」(空海『吽字義』)。本源に背き末節に流れるが故に、夢の如き世界(夢落)に、長き眠りをむさぼって、一向に目覚めようとしない。これが人間の偽らざる姿なのだ。
《引用終わり》
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《以下引用(p259)》
人間は意識・無意識を問わず共同幻想の中に生きている。そして、人の一生は問題に継ぐ問題であるように思われるが、それらはすべて冗々として事、麻の如き共同幻想の中にのみ存在するものなのだ。存在の意味を共同幻想の枠組の中でいくら考えても見い出せないだろう。考えるほど泥沼の深みに嵌るのが落ちだ。
「世間虚仮」(聖徳太子)、「三界唯心夢幻空華」(臨済)、「三界虚偽唯心所作」(馬鳴)。このように彼らはいずれも同じ世界認識に到達している。共同幻想を生きているわれわれが世界は虚妄(夢のように仮有実無であるということ)であるなどと言うはずはないし、また言えない。当然、このように見たのは共同幻想の夢から目覚めた覚者ということになる。しかし彼らは、われわれが今見ている世界が虚妄であると言ったのであって、世界そのものが虚妄であるとは言っていない。まして世界が自ら虚妄であると言うはずもない。
「三界は自ら我れは是れ三界なりと道(い)わず」(『臨済録』)。
《引用終わり》
他にも「三界虚妄」(『華厳経』)、「三界虚偽」(『起信論』)、「三界如幻」(『楞伽経』)というのがあります。
《以下引用(p260)》
事実、覚者の目には同じ世界がことごとく真実と映っている。ただ、われわれの目にそう見えていないだけ。つまり、われわれ人間の中で奇妙な転倒が起こっているのだ。…
「誠にこれ本に背き末に向ひ、源に違して……、幻野に荒猟して帰宅に心なく、夢落に長眠す。覚悟何れの時ぞ」(空海『吽字義』)。本源に背き末節に流れるが故に、夢の如き世界(夢落)に、長き眠りをむさぼって、一向に目覚めようとしない。これが人間の偽らざる姿なのだ。
《引用終わり》
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この世界こそが夢幻(神人64)
「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。
《以下引用(p258)》
数ある仏教の教義の中で、瞠目すべき教えは無我の思想であろう。五蘊の仮我が消えたところが無我であり、その後に現成してくるものを空海は大我(真我)と呼んだのだ。しかし、その大我にも実体はなく、あたかも雫が大海に溶け、一味となるように、あなたはどこにいるのでもないが、遍く存在して、ついに終るということがない。仮我が銷殞して無我の大我となる。これこそ空海が「我が理趣」を求めて行き着いた実践的結論であった。
人間に真我と仮我があるところから出発したが、ではその違いは一体どこから生じてくるのであろうか。結論からいうと、私の本源、それはまた全宇宙の本源でもあるのだが、それを見てとれないために(不覚)、人は妄りに生死の夢を見、自ら衆多の生を重ねることになるのだ。「世間の凡夫は諸法の本源を観ぜざるが故に、妄に生ありと見る。所以に生死の流れに随って自ら出ずること能わず」空海『吽字義』。
仮我と真我、生死と涅槃、虚妄と真実、世間と出世間、衆生と仏……これらの相違は本源(gzhi)の覚・不覚に依るのだ。しかし、あなたがいかなる状況にあろうとも、言い換えれば、覚・不覚にかかわりなく、本源を失うことはないのだが(「諸仏の真源は衆生の本有なり」廓庵『十牛図』)、その不覚ゆえに、自ら造り出した虚妄の世界(三界)に自ら淪み、妄りに生死を繰り返す。「自ら諸法の本源を運んで三界を画作して還って自らその中に没し、自心熾然にして備に諸苦を受く」空海『吽字義』。
分かるだろうか。われわれ人間が自ら泥濘に落ち込み、そこから抜け出せないブーツストラップ状態が如何に矛盾に満ちたものであるかが。われわれはこんなところで人生を語り、夢を描くが、自ら造り出した(画作)、如夢如幻の世界(三界)で、さらに夢を重ねてどうしようというのだろう。「一体この世界は幻想の上に成り立っている。それなのにこの世界を人は現実と呼ぶ。それが目に見え、直接感覚に訴えてくるからだ。そして、この世界の存在の源となる形而上的なものを幻想と呼ぶ。本当は正反対なのだ。この世界こそが夢幻である」ルーミー語録(井筒訳)。
《引用終わり》
「本当」の世界には…
すべての物があって、すべての者がいる。そして、すべての状態がある。
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《インデックス》
《以下引用(p258)》
数ある仏教の教義の中で、瞠目すべき教えは無我の思想であろう。五蘊の仮我が消えたところが無我であり、その後に現成してくるものを空海は大我(真我)と呼んだのだ。しかし、その大我にも実体はなく、あたかも雫が大海に溶け、一味となるように、あなたはどこにいるのでもないが、遍く存在して、ついに終るということがない。仮我が銷殞して無我の大我となる。これこそ空海が「我が理趣」を求めて行き着いた実践的結論であった。
人間に真我と仮我があるところから出発したが、ではその違いは一体どこから生じてくるのであろうか。結論からいうと、私の本源、それはまた全宇宙の本源でもあるのだが、それを見てとれないために(不覚)、人は妄りに生死の夢を見、自ら衆多の生を重ねることになるのだ。「世間の凡夫は諸法の本源を観ぜざるが故に、妄に生ありと見る。所以に生死の流れに随って自ら出ずること能わず」空海『吽字義』。
仮我と真我、生死と涅槃、虚妄と真実、世間と出世間、衆生と仏……これらの相違は本源(gzhi)の覚・不覚に依るのだ。しかし、あなたがいかなる状況にあろうとも、言い換えれば、覚・不覚にかかわりなく、本源を失うことはないのだが(「諸仏の真源は衆生の本有なり」廓庵『十牛図』)、その不覚ゆえに、自ら造り出した虚妄の世界(三界)に自ら淪み、妄りに生死を繰り返す。「自ら諸法の本源を運んで三界を画作して還って自らその中に没し、自心熾然にして備に諸苦を受く」空海『吽字義』。
分かるだろうか。われわれ人間が自ら泥濘に落ち込み、そこから抜け出せないブーツストラップ状態が如何に矛盾に満ちたものであるかが。われわれはこんなところで人生を語り、夢を描くが、自ら造り出した(画作)、如夢如幻の世界(三界)で、さらに夢を重ねてどうしようというのだろう。「一体この世界は幻想の上に成り立っている。それなのにこの世界を人は現実と呼ぶ。それが目に見え、直接感覚に訴えてくるからだ。そして、この世界の存在の源となる形而上的なものを幻想と呼ぶ。本当は正反対なのだ。この世界こそが夢幻である」ルーミー語録(井筒訳)。
《引用終わり》
「本当」の世界には…
すべての物があって、すべての者がいる。そして、すべての状態がある。
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生死の輪廻なしと云うは、外道の見なり(神人63)
「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十二章 空海」(p251〜287)を読みました。
《以下引用(p257)》
仮我は様々な姿をとって現れ、状況が変われば如何ようにも変化する。その背後に同じ真我を宿していることを知らないで、人は敵対し、憎悪をあらわにするけれども、いずれも仮我と仮我が利害をめぐって対立し、仮想の敵に戦いを挑んでいるに過ぎない。しかし、この無知と狂気ゆえに人類は今日に至るまで、どれほど多くの血を流し、悲嘆の涙にくれたことであろう。
仮我の本源に真我(大我)があることを知らず、仮我が紡ぎ出す如夢如幻の世界で存在の不条理を託つ人間。堂々巡りをするばかりでどこに行き着くのでもない行き場のなさこそ現代人が漠然と感じている不安なのだ。
五蘊の仮和合である私が自らの業(カルマ)に随って生死海に淪んでいる。それならばと肉体を放棄して、サンサーラの悪循環から逃れ、真我に到達しようと短絡的に考えてはならない。また殆どの人の場合がこれにあたるが、単なる肉体の死が仮我を捨てて、真我に帰し、永遠の生命にあずかると考えてもならない。「人死するとき、必ず性海に帰し、大我に帰して、更に生死の輪廻なしと云うは、外道の見なり」。
《引用終わり》
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「死んで仏になる」ということを当たり前のように言い、亡くなった人はみんな仏になるようなことをお葬式の時にはお坊さんまでが言うようです。可藤さんや、他の方々が書かれた仏教書を読むと、このことがすごく引っかかるようになります。死ねば誰でも仏になれるのなら、何の努力も要らないし、仏のありがたみも皆無です。
「外道の見」とは凄まじい…でも、仏教の根本に矛盾しているのですから、全くその通りなのですが。
《インデックス》
《以下引用(p257)》
仮我は様々な姿をとって現れ、状況が変われば如何ようにも変化する。その背後に同じ真我を宿していることを知らないで、人は敵対し、憎悪をあらわにするけれども、いずれも仮我と仮我が利害をめぐって対立し、仮想の敵に戦いを挑んでいるに過ぎない。しかし、この無知と狂気ゆえに人類は今日に至るまで、どれほど多くの血を流し、悲嘆の涙にくれたことであろう。
仮我の本源に真我(大我)があることを知らず、仮我が紡ぎ出す如夢如幻の世界で存在の不条理を託つ人間。堂々巡りをするばかりでどこに行き着くのでもない行き場のなさこそ現代人が漠然と感じている不安なのだ。
五蘊の仮和合である私が自らの業(カルマ)に随って生死海に淪んでいる。それならばと肉体を放棄して、サンサーラの悪循環から逃れ、真我に到達しようと短絡的に考えてはならない。また殆どの人の場合がこれにあたるが、単なる肉体の死が仮我を捨てて、真我に帰し、永遠の生命にあずかると考えてもならない。「人死するとき、必ず性海に帰し、大我に帰して、更に生死の輪廻なしと云うは、外道の見なり」。
《引用終わり》
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「死んで仏になる」ということを当たり前のように言い、亡くなった人はみんな仏になるようなことをお葬式の時にはお坊さんまでが言うようです。可藤さんや、他の方々が書かれた仏教書を読むと、このことがすごく引っかかるようになります。死ねば誰でも仏になれるのなら、何の努力も要らないし、仏のありがたみも皆無です。
「外道の見」とは凄まじい…でも、仏教の根本に矛盾しているのですから、全くその通りなのですが。
《インデックス》