トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:人間

サメは浮き袋が無いので、泳いでいないと沈んでしまうというのを先日書きました。泳いでいることによって流体力学的に発生する浮力でしか浮かないのですね。ところが、それよりなにより、エラがないので、止まっていると呼吸ができないらしい。網に引っ掛かると死んでしまう。これはかなり不便ですね。

常に動いていないと沈んでいく…息ができない…それがサメのさだめ。

逆に言うと、サメの祖先からずっと、常に泳いでいるのが当たり前なので、それを前提とした形で進化してきたということなのでしょう。

我々の体にはそんな前提が無くて良かったと思うかもしれませんが、本当にそうなのでしょうか?最近、運動の効用がいろいろと分かっています。体の隅々までの十分な血行を確保するには運動は不可欠です。心肺機能を維持していくのにも運動は欠かせません。関節や骨の強度を維持するためにも、運動である程度の負荷をかけ続けることが必要です。などなど…大抵の現代病は運動をしていれば防げたのではないか?と言えそうなくらいです。

私たちの祖先は、これだけ直立二足歩行に突出した進化を実現させたのですから、毎日何キロも歩いていたに違いないのです。つい数十年前でも、私たちは歩かないことには何もできませんでした。でも、今は違います。歩こうとしないと、トイレに行く時と車に乗る時くらいしか歩かなくてもよくなっています。

私たちも運動をしないと沈んでいくのです。ただ、それはサメよりもゆっくりなだけなのです。

私たちも網に引っ掛かったサメと同じなのではないでしょうか?
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科学 に参加中!
新型インフルエンザの流行で、ウイルスというものに皆が関心を寄せました。解説するテレビ番組も多々ありました。説明の仕方も微妙に違ってたりして、いくら情報を集めても戸惑いは解消しませんでした。一番の迷解説者は舛添さんだったと思いますけど。

ウイルス…生物とは呼べないシンプルな構造だけれど、遺伝情報を持ち他者に取りついて増殖していく…不思議な存在。

「何を目的に生きているんでしょうか?」という質問もありました。脳を持たない存在に目的意識があるのか?生きていると言っていいのか?質問にさえ疑問が湧いてくる…不思議な存在。

「人間を皆殺しにして、世界制覇を企んでいるんでしょうか?」という奇抜な質問もありました。

それに対する有識者の回答。
「いいえ。ウイルスは、人間が死ぬことは望んでいないはずです。取りついてる人間が死んでしまえばウイルスも死んでしまいますから。取りついても、全然人間に影響が無いようなウイルスが一番生存しやすいウイルスです。」

そんなふうに解説されると、悪い奴じゃないような気がしてくる。悪気はないのに自分が増殖しようとすると、人間が熱を出し咳をして、もがき苦しむ。それは自分の住環境が衰弱することでもある。奴らは我々人間と運命を共にしている?

人間に悪さをしない奴ほどウイルス界でも優等生!ということになると、生きているとも言えない、考えているとも言えない、そんな奴らにもモラルがあるように見える。殺人は、ウイルス界でもモラル・ハザードなのである。

さて、我々人間はどうなのか?地球を壊滅させて、宇宙制覇でも狙っているんでしょうか?霊長類という名誉ある生き物を自負し、脳という器官を有して複雑な思考繰り返している我々が、ウイルスと同程度のモラルを守れずにいるとは!

ウイルスには殺意をもつ能力(脳)もなく、責任能力もありません。人を殺したと言っても罪に問えるものではありません。しかし、人間が地球を壊滅させた場合は間違いなく有罪になりそうです。
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哲学 に参加中!
「神の視点」から「人間の視点」への移行というのを考えた時、「民の見えざる手」というフレーズが頭に浮かびました。

市場原理で価格が決定するシステムを、正当化するためと言えばいいんでしょうか、神聖化するためと言えばいいんでしょうか。「神の見えざる手」という言葉には、王権神授説みたいな俗っぽさを感じます。

神様が俗界の象徴みたいな「お金」に手を出すんだろうか?「神様は賭博場に通うのか?」的な批判は当時無かったんでしょうかね。八百万の日本ならば、賭博場の神様も居そうですけど。

「神の裁き」とか「最後の審判」とか、西洋の神様は裁判がお好きなようです。だから、裁判とは神聖なもの…と思いがちです。でも、最近、私は違うような気がしています。天罰のようなものは除外するとして、少なくとも民事とか刑事とかの裁判は神聖なはずがないと。

本当に神聖な存在は人を裁くだろうか?神様が賭博場に通うことに違和感を覚えるのと同じように、神様が法廷に立つことも奇妙なことに思えてならないのです。

裁判員制度は、司法における「神の視点」から「人間の視点」への移行ではないでしょうか?神に近いと思われる良識ある専門家たる裁判官から、一般の人間へと判断が委ねられる…

科学史を展望して気付いたのは、「神」と呼んでいたものも結局のところ人間が想定したものに過ぎません。政治・経済・司法等々の様々な分野でも、いたるところに「神」は現れ、極めて俗っぽい作業にもその手を染めていました。

でも、それは「神」の手ではありませんでした。われわれ「民」の手だったのです。

《つづく》
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哲学 に参加中!
今読んでおります「犀の角たち」では、科学の世界で起きた「神の視点」から「人間の視点」への移行について描かれています。ドキリとする捉え方ですし、ワクワクしながら読んでおります。ただ、「神」についてちょっと気づいたことがあります。

大雑把に言うと、科学史において最初に立てた理論を「神の視点」によるものとし、実験によって変更・矯正されたものを「人間の視点」によるものとしています。前者から後者への移行を堕落と捉えれば、科学は下降していく傾向にあるというものです。

「堕落と捉えれば…」というところに、「最初に立てた理論が崇高なものとは必ずしも言えない」という含みがあるように思います。最初の出発点となる視点、即ち「神」とは、言わば原始的な崇拝対象(ちと言い過ぎかな)でありまして、それが高い位置にあるとは必ずしも言い難い。

「神」には唯一絶対の全知全能な存在という意味もありますが、少なくともこの本ではそういう神を指しているわけではなさそうです。そういう神を想定して理論を打ち立てたら、科学としてどうしてもつじつまが合わなくなってしまったという例を、列挙したのがこの本と言えます。

* * *

私はこれまでこの「堕落」を、合理論から経験論への移行だと捉えてきました。もともと高い位置には居なかったから、「堕落」すなわち「垂直下降」ではなく「水平移動」。昔より物事を精細に見れているという点では、下手すると「垂直上昇」かもしれない。出発点となった「神」は、むしろ低い位置にいる…

合理論は、「人間の理性は神に近いものであり、真実を理解する能力を持っている。ゆえに人間が正しいと感じる物は、正しい。」という感じの考え方だと思います。

でも、人間は誤解を繰り返してきました。「人間は経験から学ばなければ何も分からないんだ。」という感じの考え方が生まれて、それが経験論だと思います。

合理論と経験論が現代哲学においてどう扱われているのかは全然知りませんが、実験によって理論を矯正していくという手法は正に経験論です。最近はコンピュータによるシミュレーションで仮想的な実験を行い、理論を構築したりもしています。人間の理性には限界がある、というよりも、かなり御粗末なものであるということが分かってきました。

* * *

まだ、半分しか読んでません。最後まで読めば気が変わるかもしれません。
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爆笑問題 に参加中!
NHK「爆笑問題のニッポンの教養#71」(5月19日放送分)を見ました。進化生物学の長谷川眞理子先生でした。私好みのテーマを追っている方なので、もう既に何か著書を読んでいるとばかり思っていたのですが、全然読んでませんでした。この番組には是非出てきて欲しい先生の一人でした。

殺人を人間社会で必ず起こる現象と捉え、マクロに分析していく。その中で見つかった傾向として、20代前半の男性が殺人を犯しやすいということ。殺人者の数を年代別に並べたグラフでは、20代前半に急峻なピークがありました。女性には特に目立った傾向は見られない。

動機は、「man's pride」ってなってたかな…自尊心を傷つけられて、カッとなって、若気の至りで…というパターンが圧倒的に多いんですね。そしてその陰にはおおかた女がいる。哺乳類のオスはY染色体によって変異させられているけれど、ベースはメス。所詮、女の周りを回ってるしかないのかもしれません。

その男性による殺人も、日本の場合、戦時中は極端に減りましたが、戦後に一時的に戦前と同程度の件数に戻ってから、一定の割合で減少していきます。終身雇用制による安心感が殺人を減らしたのではないかと長谷川先生は分析しています。

その安心感が崩壊した今、殺人はこれから増えるだろうというのが先生の予測。

私は、殺人がなぜ悪いかという答えがわからないと以前書きましたが(もちろん良いことだとは思ってないですよ!)、太田さんも同じことを言ってました。この人とは、かなり重なるところがあります。

長谷川先生の「一生懸命」の話は良かった。

死と隣り合わせの毎日をおくる野生動物が、生きるために一生懸命になっている姿を理解できない大学生は少なくないそうです。「生き物は一生懸命生きないと生きていられないのよ。あなたが一生懸命やらなくても生きていられるのは、あなたの分も一生懸命やって支えてくれる人がいるからなのよ。」と言ってあげるとのこと。

何となく生きて、何となく殺してしまう人間が増える…そんなことは何としても避けたいものです。

《つづく》
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アカデミックな日常。 に参加中!
第14章「「神」と人間のあいだで」を読みました。

《以下引用》…イスラム教徒は思想に対して非常に大きな不信感をいだき、強制的なきびしい修行によって、ものを考える力を捨て去ってしまっている。…《引用終わり》

これはイスラム教徒ではない私でさえも非常に不快を感じる文章です。自分たちの神を崇拝し、仲間内で盛り上がるのは結構ですが、他人の神様にケチをつけるのはいかがなものでしょうか。この著者は、他の宗教に関して、ものを考える力を捨て去ってしまっているようです。

《以下引用》…きわめて優秀な頭脳を持ち合わせた人々の一部には、もう一つの反論が深刻に受け止められているらしい。それは、人間に危害を加える無用このうえない生物の存在を神がなぜ許しているのか、という反論だ。つまり、ガラガラヘビや黒後家グモ、マラリアの媒体であるハマダラカ、恐るべきライ病菌、種の存続を脅かす梅毒の病原菌はなぜ存在するのか、こういうたぐいのものは、すべて神のもつ善意と両立しないではないか、と言うのである。…《引用終わり》

これに対する説明はこうです。

《以下引用》…もし、ある最高の力が真実の諸法則を「創造した」という事実を受け入れるならば、これらの法則がいったん形づくられると、みずからその機能を果たしていく、という事実をも受け入れなくてはならない。言い換えれば最高の力自体でも、さまざまな現象がこうした法則の定める方向に展開していくことを食い止められないのだ。さもなければ、法則などもはや存在せず、気まぐれだけが残ることになる。…《引用終わり》

これは全然納得できません。諸法則が実行されていくとモンスターを生み出してしまうという弊害があるのなら、そんな法則は最初から創造しなければいい。そんな言い訳は神ならぬ身のみができることなのであって、そんな法則を創造してしまうのであれば全知全能の創造主ではないということになります。

私は、道徳という分野に関してさえも、絶対的な善悪の判断基準というのは無いと思っています。まして、科学者が生物を善玉と悪玉に分類するなんて、正気とは思えません。

これについては、明日、もう少し書きたいと思います。


《つづく》
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アカデミックな日常。 に参加中!
第12章「迷信の功罪」を読みました。

野獣はすべて火を恐れる中で、人間だけが火を支配下に置くことができました。

《以下引用》…恐怖がその心理学的な反応を妨げる壁とはならなかったという点で、原始人は、動物と決定的に違っていた。彼だけが、その壁を越えて進んでいける脳をもっていた。炎の支配に成功した後、彼は経験という限界の外側に、超自然的でしかあり得ないような起源を考え出し、その起源に現実的な人格を授けた。すなわち、つくりものではあるが強力な、新しい存在を創造し、怒りや憎しみ、嫉妬など、あらゆる人間的な感情をつけ加えたのである。これが最初の神だったかもしれない。《引用終わり》

この段階での神は完成されたものではないので、これを崇拝することも宗教とは呼び難く、迷信と呼ぶべきであるという内容です。動物から人間へ至る過程と同じように進化と適応の原則の下、迷信も進化したり適応してしまったりした中から、宗教と呼ぶべきものが誕生した…という考え方。

そしてこれまた、動物と人間との間に完全な一線を引いたように、迷信と宗教との間に一線を引いています。そして、この宗教とはキリスト教のみを指していることは間違いないようです。

でも、自分たちと他者とを完全に区別すること、自分たちの思想・信条が他者のそれとは完全に別物で、しかも自分たちの方が絶対的に優れていると信じることが危険であることに気付いていないようです。

その考え方を拡大していったときに、論理の上では矛盾が生じ、人間社会の中では軋轢が生じる。この本の著者は、そこまで気付かないレベルの人なのだろうか?

《つづく》
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生きてくってこと に参加中!
第11章「人間の知性が「本能」を克服するとき」を読みました。

私はどうもしっくり来ないのですが、人間の知性は動物の本能や知性の延長ではないということをこの章でも強く主張しています。それを顕著に示す例が、人間のみが持っている抽象的概念だそうです。

《以下引用》…たとえば子どもが使う丸いボールを例にとってみよう。…動物は、ボールに対する自分なりの「定義」にすっかり満足する。この定義は、その動物がボールから期待するものと一致しているし、おそらくは子どもや原始人がくだす定義と違ってはいないだろう。
 ところが知性をもつ人間は、ボールの特性をいくら言葉で言い表したとしても、そんな定義には満足しない。動物と人間の二種類の知性のあいだに根本的な差が生じるのはこの点だ。
 人は、現実のボールをもとに、幾何学的な特性を備えた理想のボール、ただしその特性が限界にまで突き詰められた絶対的に完全なボールを想像すること、言い換えればそのようなボールを創造することからはじめる。人はその理想のボールに、形状にまつわる特性だけを与え、ボールの実体、つまり色や硬度、重さ、弾力性などに関する特性は排除する。と言うのも、このような特性は、別の形をした他の物体にも見られるからだ。…そして人は…最後に、この新しい対象を完全に「理解する」ために、大きさも質量ももたない目に見えない要素を考案する。この要素はこれまで一度も存在せず、いまも、そして今後も現実に存在することはないが、球体を定義するには絶対に欠かせない要素であり、それなしに球体を思い描くことができない。この奇妙な要素が「中心」である。そしてこの「中心」という人間独自の考え方が、抽象的な観念にほかならない。《引用終わり》


でも、やっぱり動物の知性の延長ではないという根拠にはならないと思うんだな…。子供は動物と同じなんでしょう?大人の知性は子どもの知性の延長ということにはならないのかな…?

《つづく》
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人、生きる意味 パート2 に参加中!
第10章「「自己改善」の手段としての文明」を読みました。

《以下引用》…文明の真の目的は、物理的な努力を軽減するような、珍妙な機械を考え出すことではなく、あらゆる方法で人間の自己改善を助けることであるべきだ。そうしてこそ文明は進化のメカニズムとなり、持続していく。なぜなら文明の堅固さは、すべての個人個人の力が組み合わされるかどうかにかかっているからだ。文明とは、外側からではなく、内側から作り上げられなくてはならない。機械の発達や技術的な解決に頼る文明は、なんであれ、必ず失敗を招くのである。…《引用終わり》

現在でも十分通用する警鐘のように思います。この文に第二次大戦の反省も入っているとすると、我々はあの大戦でやはり何も学べなかったのかもしれない。

《以下引用》…人間はみずからを束縛から解放しなくてはならない。この束縛は、動物にとってはあたりまえであり、だからこそ人間にとっては悪なのである。人間がみずからの目的を達するには、肉体の完全な支配が必要とされる。その目的は、いかなるかたちの隷従とも相容れない。だが、もしもこのような本能―動物との心理学的な血縁関係に由来する本能―が克服されれば、それは、もはや恐れるにたりなくなる。恋愛、飲食、娯楽は、節度を守るかぎり、それ自体なんら非難されるべき行為ではない。この「節度」という言葉は、良心、つまり人間的尊厳の意識という調節弁を意味する。不節制とは、まさにこの調節弁が壊れ、野獣性が勝利をおさめることにほかならない。…《引用終わり》

こういう説教を聞かされたのは、小中学生のころかな…でも、大事なことなんだな…

《以下引用》…終局的究極目的論でいう道徳性は、人生から満足や健全な楽しみを奪うどころか、逆に真の人間としてふるまったり欲望や本能への隷属を脱したりすることによっていっそうの満足を与え、人生を豊かにしてくれる。この自由の感情は、みずからが進化の発展に貢献しているという確信と結び付いて、人間に無尽蔵の喜びの源泉をもたらしてくれるにちがいない。この喜びは、人間の生理学的な性向や健康状態とは無関係であるため、他の喜びよりも深く、長続きしていく。…《引用終わり》

人類の進化を背負って日々行動するということか…重いな…

《つづく》
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アカデミックな日常。 に参加中!
今読んでいる本は人間と動物の違いをやたらに強調するのですが、私的にはどうもしっくりこない。

人間の最も典型的な特徴は、発達した知能だと思います。この点についてはその本も同じ考えです。この特徴は機械で言ったらコンピュータみたいなものだと以前書きました。

この特徴が、コンピュータにも人間にも、結果として素晴らしいパフォーマンスをもたらしました。コンピュータはそれまでの機械とは全く違った働きができる。人間は確かにそれまでの動物ができなかったこと(文法を理解する能力とか種が獲得した情報を共有する能力とか)をやっておける。

でも、コンピュータが機械でなくなったわけではない。だから人間を動物ではないような目で見るのはどうかと思う。

パフォーマンスの違いだけで、その種をはっきりと別扱いするのであれば、鳥はどうだろうか?空を飛べるというのは凄い能力ではないだろうか?それなのに鳥を「本質的に違う動物」と分類せずに、ただ「大きい翼があるから飛べる動物」としか分類していない。

としたら、やはり人類は「大きい大脳皮質があるから頭がいい動物」という以上の分類の仕方をするべきではないのではないだろうか。
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