トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:上の畑焼

8月2日に絵付けした上の畑焼が出来上がってきました。

上の畑焼完成
↑左から私・妻・長女・次女(2015/8/19 15:24)


また、私の才能の無さが証明されました。絵が拙いのはいいとしても模様が薄い。瓢堂先生からも「薄いよ」と言われていたのですが、そう言われて二度書きしたのにこの有様。

模様が薄いと、汚れているようにしか見えません。これから絵付けに挑戦される方は御注意下さい。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

上の畑焼陶芸センターの次は更に山に向かい銀山温泉へ。温泉街の奥に白銀の滝がありますが、その更に奥に銀鉱があります。

紅花は仙台藩で生産された物も笹谷峠を越えて山形に運ばれ、最上川→海路を通って消費地(江戸?京都?大阪?)に運ばれたようです。ところが銀は銀山からすぐに山を越えて仙台藩に運ばれ、おそらく江戸に運ばれたようです。

銀の採掘は金よりも難しかったそうで、世界的に金よりも価値があった時代が長かったようです。技術革新で比較的容易になり、銀の採掘が世界的に増えたのが日本で言うと戦国時代後期。延沢銀山もこの流れのひとつだったようです。江戸初期は最上領となっていましたが、最上家が改易になって鳥居氏の支配となり、幕府領となったようです。このときは、かなりおいしかったようです。

産出量の漸減(鉱道への浸水などが原因?)が理由だと思われますが、寛政年間に長瀞領となりました。米津氏が他の殖産興業を模索しなければいけなかった(これは前回の上の畑焼の話)ほどですから、銀山経営は全然おいしくなくなっていたのですね。

散策の途中で何度か立ち止まりながら解説していただき、銀山の歴史へとドンドン引き込まれていきました。しかし、暑い!銀鉱の中が涼しくて「ここで暮らしたい」という娘たちでした。



↑急激な温度差で長女の目がイっちゃってます(2015/8/2 10:57)

さて、延沢銀山は1456年に初めて発見されたと言われています。金沢の富豪、儀賀市郎左衛門の像が立っています。苗字は「ギガ」。何て現代的な名前でしょう。フツーの1000倍がキロ、キロの1000倍がメガ、ギガはメガの1000倍です!


↑伝説の超人?今にも光速を超えるスピードで飛んでいきそう(2015/8/2 11:03)

でも、儀賀さんが発見したというのは創作だろうと言われています(笑)。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

尾花沢市の銀山温泉の近くに上の畑焼という焼き物があります。上の畑焼陶芸センターにて、絵付け体験をしてきました。一般財団法人山形県教育共励会主催「上の畑焼と延沢銀山」という親子行事のひとつです。

東根公民館で猪野沢焼を体験したばかりで、陶工への道まっしぐらという感じですが、「えづけ」と言うと「餌付け」になるから「絵付け」は「えつけ」って読まないといけないね〜というレベルの私たち。

伊藤瓢堂先生が穴埋め問題形式の資料と共に説明して下さいまして、かなり勉強になりました。

まず、粘土で作ったのが陶器、石を砕いて粘土状にして作るのが磁器ということ。言葉は使ってましたが、意味は全然わかっていなかったのですね。

それから、東根市との関連。東根市長瀞が周囲から独立した長瀞藩であったことは知っていましたが、幕府領だった上の畑村が長瀞藩の管理下に移されていたことは知りませんでした。上の畑焼を始めさせたのが長瀞藩主米津通政。しかしながら、10年余りで行われなくなったのだそうです。

これが伊藤瓢堂氏の手によって復興しました。これが記録によると1979年のこと。36年ほど経っていますから、元々の上の畑焼の歴史よりも長く続いていることになります。それに気づいたときは、感動で鳥肌が立ちました。

上の畑焼の2度目の歴史を広げるべく、私も絵付けに挑戦。
上の畑焼

↑やっぱり、ふざけた絵しか描けません。(2015/8/2 9:38)

焼き上がったら、小学校に送付されるとのこと。ちょっと恥ずかしい…。

親たちが絵付けに夢中になっている間、次女が山形新聞の取材を受けていたそうで、翌日の新聞に掲載されました。
上の畑焼


「曲面だから描きにくいね〜」と瓢堂先生が繰り返してた説明そのまんまのコメント!しかも写真には写ってない!
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ