「唯識入門」(春秋社)
「第一章.虚妄分別とはなにか」の「四.中道と三性説」を読みました。
竜樹は、すべて概念的存在にすぎない、と言ったうえで、それを「中道」だと言っています。その意味は「非有非無の中」すなわち、自性が無い、空、という意味で、それら一切の法は「非有」であるが、概念として想定されているという意味で非無だと言っています。同じものが有でもあり無でもあるということです。
『中辺分別論』でも、「中道」が非有非無の中を表しているのは同じですが、三性という三つの角度から見つめ直しています。
1.「遍計所執性」(へんげしょしゅうしょう)
「仮構されたあり方」(パリカルピタ・スヴァバーヴァ)という意味です。
遍計所執性の中に能所のふたつ(〔能〕分別するもの・主体・我 vs 〔所〕:分別されるもの・客体・法)があります。さらに、その遍計所執性〔所〕は、虚妄分別〔能〕と能所の関係にあります。つまり能所の二重構造が成立しています。
2.「依他起性」(えたきしょう)
「他に依存している」(パラタントラ・スヴァバーヴァ)という意味です。
虚妄分別を指します。虚妄分別は我々ひとりひとりの意識のあり方をさしており、ひとりひとり千差万別です。それぞれの過去の経験、知識に基づいて、みな異なった意識内容をもっています。これは他に依存しているということであり、縁起しているということです。
3.「円成実性」(えんじょうじつしょう)
「(修行によって)完成されたあり方」(パリニシュパンナ・スヴァバーヴァ)という意味です。
正しい判断(正智)によれば、「我と法は実在しない」、あるのは「我と法を実在すると考えるところの意識のみ」。即ち「唯識」です。
正しい判断とはさとりのことですから、さとりにおいては虚妄分別は機能しなくなります。しかし、正しい判断として機能しますから、正しく判断するものはそこに残ります。
竜樹の「空」の定義は「一切法には自性がない」ということです。しかし唯識では、「空性とは虚妄分別に所取・能取の二つがないこと」と定義されます。
《つづく》
「第一章.虚妄分別とはなにか」の「四.中道と三性説」を読みました。
竜樹は、すべて概念的存在にすぎない、と言ったうえで、それを「中道」だと言っています。その意味は「非有非無の中」すなわち、自性が無い、空、という意味で、それら一切の法は「非有」であるが、概念として想定されているという意味で非無だと言っています。同じものが有でもあり無でもあるということです。
『中辺分別論』でも、「中道」が非有非無の中を表しているのは同じですが、三性という三つの角度から見つめ直しています。
1.「遍計所執性」(へんげしょしゅうしょう)
「仮構されたあり方」(パリカルピタ・スヴァバーヴァ)という意味です。
遍計所執性の中に能所のふたつ(〔能〕分別するもの・主体・我 vs 〔所〕:分別されるもの・客体・法)があります。さらに、その遍計所執性〔所〕は、虚妄分別〔能〕と能所の関係にあります。つまり能所の二重構造が成立しています。
2.「依他起性」(えたきしょう)
「他に依存している」(パラタントラ・スヴァバーヴァ)という意味です。
虚妄分別を指します。虚妄分別は我々ひとりひとりの意識のあり方をさしており、ひとりひとり千差万別です。それぞれの過去の経験、知識に基づいて、みな異なった意識内容をもっています。これは他に依存しているということであり、縁起しているということです。
3.「円成実性」(えんじょうじつしょう)
「(修行によって)完成されたあり方」(パリニシュパンナ・スヴァバーヴァ)という意味です。
正しい判断(正智)によれば、「我と法は実在しない」、あるのは「我と法を実在すると考えるところの意識のみ」。即ち「唯識」です。
正しい判断とはさとりのことですから、さとりにおいては虚妄分別は機能しなくなります。しかし、正しい判断として機能しますから、正しく判断するものはそこに残ります。
竜樹の「空」の定義は「一切法には自性がない」ということです。しかし唯識では、「空性とは虚妄分別に所取・能取の二つがないこと」と定義されます。
《つづく》