トトガノート

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Tag:マナス

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「唯識入門」(春秋社)
「第五章.識のはたらき」の「一.識の転変」の「マナスの役割」まで読みました。

前節に、転変という概念は、識と対象の相互関係と、時間的前後関係の全てを同一語で説明できるところが素晴らしいと書いてあるので、メモっておきます。

さて、世親の『唯識三十頌』の第五偈です。第二種の転変としての「思量」のはたらきについてです。

意(マナス)と名づける識が、それ(アーラヤ識)に依止し、それ(アーラヤ識)を所縁として起こる。(これは)思量を性とするものである。(第五偈)

《以下要約》
この「マナスと呼ばれる識」が独自の認識作用を起こす拠り所はアーラヤ識(にある習気)になるのですが、マナスの認識機能はアーラヤ識を認識の対象としています。

つまり、マナスは、アーラヤ識を「我」アートマンだと誤認するはたらきをしているということです。このマナスこそ自我意識にほかなりません。

『中辺分別論』では「我としての顕現」と表現していました。
《以上要約…詳しくは本書参照》

(このマナスは)四種の有覆無記性の煩悩につねに伴われている。(四種の煩悩とは)我見と我癡と我慢と我愛である。(第六偈)

《以下要約》
・我見(がけん):有身見ともいい、我があるとする見方。
・我癡(がち):我に関する無知。
・我慢(がまん):「私はなになにです」と思うこと、およびそれによって心が高ぶること(慢)。
・我愛(があい):我が身可愛やという思い。

この四つは修行の妨げとなる煩悩ですから、これを伴っているマナスは「汚れたマナス」と呼ばれます。そのことが「有覆」(覆われた)という言葉で示されます。しかし、善悪とは直接には規定できないので「無記」です。

アーラヤ識は煩悩の心作用は伴われていないので、「無覆無記」と規定されます。

「汚れたマナス」は、さとりにおいても出世間の修行道においても(無漏ですから)機能しません。無意識の状態でも、汚れているかいないかに関わらず機能しないはずですから、「滅尽定」においても機能しません。しかし、定に入る前後の意識の連続性はアーラヤ識によって保たれることになります。
《以上要約…詳しくは本書参照》

《つづく》
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「唯識入門」(春秋社)
「第五章.識のはたらき」の「一.識の転変」の「三種の転変」まで読みました。

この章は、虚妄分別が依他起であるメカニズムについて、世親の『唯識三十頌』から読み取っていきます。

どんな種類の我や法の想定(仮説)が行われるとしても、じつに、それは識の転変においてである。そして、その転変は三種である。(第一偈)

《以下要約》
「転変」とは、安慧(ステイラマテイ)の注釈によれば「因の刹那が滅するのと同時に、果が因の刹那とは異なって生ずること」とされています。言わんとしていることは、まず、我法を想定する識と我および法という想定されるものとの間の同時成立と相互影響ということ。もうひとつは、刹那生滅の識の刹那ごとの連続(相続:サンタティ)。このふたつを転変という一つの言葉で表現することで、「縁起」を説明しようとしています。

『倶舎論』では、すべての法は刹那滅で断絶しつつ接続しますから、色法(たとえば身体を構成する諸法)は色法でそれぞれ転変しますが、唯識の理論ではこれが認められていないので、諸法の成立を識との関係でだけ説明しています。(本書に図示)

識の転変の三種とは…
(1)異熟としての転変:主体はアーラヤ識:因としてのアーラヤ識のはたらき。
(2)思量としての転変:主体はマナス:その識の顕現としてのマナス。即ち自我意識。
(3)対象の了別としての転変:主体は六識:「了別」と呼ばれていた六識。

(2)は「我」の観念をつくりだす。(3)は六境に分類される法およびその観念成立の入口たる六根(正式には意根を除く五種)なる法を認識し、判断するはたらき。そして(2)(3)は共に(1)のアーラヤ識からの転変。

識の転変は、アーラヤ識と、思量および了別という二種の転識(現に機能している識)との間の相互関係であり、識の内部での相互作用ということになります。が、刹那ごとの識の連続性(同じ性質が刹那を超えて持続すること)はもっぱらアーラヤ識に託されていると言えます。
《以上要約…詳しくは本書参照》

マナスの連続性とは「自己同一性」のことかもしれません。

《つづく》
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