トトガノート

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「釈尊の生涯」(春秋社)
「21.デーヴァダッタの反逆など」を読みました。

デーヴァダッタ(提婆達多)と聞くと、レインボーマンのダイバ・ダッタを思い出します。Wikiで調べてみますと、主人公ヤマトタケシに不思議な力を与えた聖人ということで、悪役ではないみたいです。

でも、釈尊の従弟のデーヴァダッタは本当にひどい人だったようです。釈尊を妬み、暗殺や教団乗っ取りを何度も画策しています。

教団の破壊を目的に、デーヴァダッタが釈尊に突き付けた五カ条の要求というのがあります。
《以下引用》
1.比丘は人里離れた所に住すること。
2.托鉢のみで生活し、供養招待を受けてはならないこと。
3.糞掃衣(芥溜や墓場などから拾い集めた布片で作った衣)のみ着け、信者からの施衣を用いてはならないこと。
4.樹下のみにすわり住し、屋内に入らないこと。
5.魚や鳥獣の肉を食べないこと。
《引用終わり》

これは、外教の人たちは上記のことをきちんと守って修行しているのに仏教はやってないじゃないか!という批判です。

が、今日的な観点で見てみますと、外教では不必要に粗末な暮らしをしていたということが分かります。逆に言うと、釈尊は修行に不必要と思われる慣習は廃していたということです。身心を害するような過剰な苦行は百害あって一利ないとする、合理的な人でした。

デーヴァダッタはマガダ国の王子アジャセをそそのかし、父である国王ビンビサーラから王位を奪わせました。後にアジャセは改心し、熱心な仏教信者となりました。アジャセの弟アバヤも、釈尊を貶めようと議論をふっかけて、逆に仏教信者になりました。

「如来も他人に好ましくない粗暴な言を吐くことがあるのなら、凡夫と区別がないではないか」というアバヤの問いに対する釈尊の回答が示唆に富んでいるので、ノートしておきます。
《以下引用》
1.その語が真実でもなく、利益にもならないものであり、しかも他人に好ましくないものならば、如来は決してこれを語らない。
2.その語が真実ではあるが、利益にならず、しかも他人に好ましくないものならば、これも如来は語らない。しかし
3.その語が真実でもあり、利益にもなり、しかも他人に好ましくないものならば、如来はこれを語るべき時と語るべからざる時とを知るのである。さらにもし
4.その語が真実でもなく、利益にもならないものであれば、他人には好ましいものであっても、如来は決してこれを語らない。
5.その語が真実ではあるが、利益にならないならば、他人に好ましいものであっても、如来はこれも語らない。
6.その語が真実であり、利益にもなり、また他人にも好ましいものであれば、如来はこれを説くに時をもってするのである。
《引用終わり》

要するに、黙っていた方が無難なようですが…。

《つづく》


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「釈尊の生涯」(春秋社)
「20.西方地域への遊歴」を読みました。

マガダやコーサラより西方の諸国にも釈尊は遊歴されました。以下は、アヴァンティ国の西南の海岸地方アパランタを仏教化した、この地方出身のプンナ(富楼那)の逸話です。

《以下引用》
…釈尊は、「アパランタの人人は粗暴だから、もし彼らがお前を罵り毀ったら、お前はどうするか。」「まだしも手でなぐることをしないから、彼らは善人だと思います。」「もし手でなぐられたらどうするか。」「まだしも棒で打つことをしないから、彼らは善人であると思います。」「もし棒で打たれたらどうするか。」「まだしもむちで打擲しないから、彼らは善人であると思います。」「もしむちで打擲されたらどうするか。」「まだしも刀で切りつけることしないから、彼らは善人であると思います。」「もし刀で切りつけられたらどうするか。」「まだしも殺すことをしないから、彼らは善人であると思います。」「もし殺されたらどうするか。」「仏弟子の中には、生命をいとうて、殺してくれる人を求める者さえいるのに、私は求めずして殺してくれる人が得られるから、好都合だと思います。」「それほど忍耐強い覚悟でいくならば、お前は大丈夫だ。」と賞讃され、彼は帰国して、その年のうちに男女五百人ずつを仏教信者となしたといわれる。
…《引用終わり》

そこまでの覚悟を家族はどう思うだろうか?とも思うのですが、並はずれた覚悟であることは間違いありません。

《つづく》
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「釈尊の生涯」(春秋社)
「3.釈迦族について」を読みました。

釈迦国はヒマラヤ山麓の辺鄙な場所で、新興文化の中心であるマガダ地方と比べればおくれていたであろう。他国との頻繁な交通や商業貿易もあまり行われなかっただろう。金持ちの商人がいた様でもない。そのかわり、戦火の巷となることもなく、平和で静かな生活ができたことだろう。

しかしながら、釈迦族は元来武士王族であったため、武術には長じていたらしく、西南の隣国である大国コーサラが、臣下として隷属している釈迦国に、武芸を学ばせようと王子を送り込むほどであった。

原始聖典のなかの、釈尊の少年時代の述懐が引用されています。

《以下引用》
私は若いころには、たいへん身体が柔弱であり、きわめて華奢であった。私の父の住まいには、あちこちに蓮の池があって、私を喜ばすために、それぞれが赤や白や黄色の蓮や睡蓮などが植えてあった。私はよい香りのするカーシー産の栴檀香以外は用いないし、衣類はターバンやジュバン、下衣、上衣などにいたるまで、カーシー産の軽い立派な絹のものだけを身に着けた。
私が邸内を散歩する時は、夜も昼も、私の上には白い傘がさし掛けられていたが、これは暑さ寒さを防ぎ、雨露をしのぎ、ちりやほこりが落ちて来ないためであった。また私のために三つの宮殿が建てられたが、その一つは冬に適し、一つは夏に適し、一つは雨期に適するものであった。たとえば雨期の四カ月間は、私は雨期用宮殿にあって、美しい女たちだけで奏でるいろいろの歌舞音曲を楽しみ、宮殿から下りることもしなかった。また一般の家では、召使や職人たちには、屑米の飯やすっぱい粥などを食べさせるけれども、私の父のところでは、召使や職人たちにも、白米や肉の食事をとらせたのである。
《引用終わり》

かなり裕福な生活だったようです。

《つづく》
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