トトガノート

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Tag:ヒンズー教

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例えば、唯脳論…脳を中心とした考え方です。考える器官が脳だから、考え方は脳が中心になりがち。心臓のことを考えても、肛門のことを考えても、視点は脳にあります。

でも、心臓が考え始めたらどうだろう…肛門が考え始めたらどうだろう…唯肛門論みたいなのができるんだろうか?

当然、唯脳論者と唯肛門論者は事有る毎に対立するでしょう。唯物論者と唯心論者のように。あるいはイスラム教徒とヒンズー教徒のように。あるいは犬と猿のように?

もともとは同じDNAを持った細胞どうし。もっと遡れば同じ宇宙を構成する原子どうし。宇宙の中で役割分担をして、「役」とか「立場」に違いが生じて…そして考えた…知恵を働かせた…その結果が対立ですか?

対立するために知恵を使うんですか?戦って勝つために知恵を使うんですか?そういう排他的な知恵に真の勝利は有るんですか?相手を打ち負かせば、今度は味方の中に異を唱える者が出てくるんじゃないですか?

そうしたら、また戦うんですか?これでは、知恵が有るのか無いのか分からない。何のために勉強するのか?分からない。

知恵は、まず自分たちを理解し、自分たちの世界の理論体系を構築することを目指すべきでしょう。

その作業の中で、いろんな考え方が出てくることでしょう。矛盾が生じるときには、両方を包み込むような、より大きな考え方を生み出す必要があります。

一方の考え方で済む場合には、他方が取り込まれ、消滅することもあるでしょう。

場合分けで解決できる場合もあるでしょう。この場合にはこちら、それ以外はあちら、というように。

また、両者と全く違った視点にたって、両者を内包するような新たな理論構築がなされることもあるでしょう。

ともかく、そんなふうにして、対立しない理論体系を構築していくことが知恵の本質ではないでしょうか。そのために、私たちは勉強するのではないでしょうか?
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「ヒンズー教徒とイスラム教徒が仲良くできるわけがない。なぜなら、ヒンズー教徒はブタを食べるし、イスラム教徒はウシを食べるからだ。」という話を聞いたことがあります。ヒンズー教ではウシを食べてはいけないことになっているし、イスラム教ではブタを食べてはいけないことになっているそうです

私は、生きとし生けるものは基本的に平等だと思っています。動物を殺すのは残酷だけれども植物を殺すのはそれほどでもない、という考え方にも疑問を持っています。だから、ウシがだめならブタもだめだろうし、ウシがOKならブタもOKじゃないだろうかと。少なくとも、それを否定する合理的な説明はいまだにお目にかかったことがない。

何が言いたいかというと、クジラです。ウシをどんどん殺して食用肉を生産し輸出している国が、なぜクジラにだけ目クジラを立てるのか?わかりません。「狂牛病になるかもしれないけど、俺たちも食っているんだからお前たちもウシを食え」と乱暴な理屈を唱える国は非難されないで、ずっと昔からおとなしく少しだけクジラをいただいてきた私たちが怒られるのは理解できません。

クジラを神とする新興宗教が流行り始めているのでしょうか?かつてペリーが来航したころには世界中のクジラを殺しまくっていたから、今頃になって反省し始めたのでしょうか?犬公方ならぬ鯨公方が登場したのでしょうか?

わかりません。でも、これが解決できたらヒンズー教徒とイスラム教徒も仲直りできるはず。だから、おそらく絶望的でしょう。理性的な国が大人になってあげるしかないのでしょうね。
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