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「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第八章 空海と最澄」を読みました。

当時NHK番組制作局教養番組部ディレクターの森下光泰さんの文章です。

《以下引用》
最澄のことを考えていて、数年前に急死してしまった友人と学生時代に比叡山に登ったことを思い出した。同志社大で学生自治会の委員長などしていた男で、ニーチェの思想をテーマに毎年卒論を書こうとしていたが、結局除籍となってしまった。そのときは前の晩から話しこんだ続きに「見晴らしのいいところに行こう」などと言って出かけた。

この番組の取材中、よくその男のことを考えた。なぜ仏教世界において、密教が生まれなければならなかったのか、原始の密教の何が人々の心をつかんだのだろうかと思いをめぐらせるとき、キリスト教において、生を肯定する哲学を対置しようとしたニーチェの思想が道標のように見えたからだ。そして私自身もニーチェによって、世を去った友人によって、空海の世界に誘われているように感じられた。
…《引用終わり》

ルネッサンスはキリスト教によって抑圧され続けてきた「人間」を表に出す動きだったと習ったような気がします。ニーチェも抑圧に対する反動のような位置づけなのでしょうか。

理趣経の内容を考えますと、密教は人間の生(性?)を肯定したものと言えます。宗教は大抵、自分の本能を抑圧するところから始まります。そして、経年変化が起きてくると、人間性の解放を願う動きが強まるのかもしれません。「自然に帰れ」ということですね。

人間が人間である以上、人間の本性を否定し続けて生きるということは、老病死とはまた別の「苦」を生むだけかもしれません。人間の本性を認めない教えは、人間の宗教としては不完全ではないだろうか?

そこに密教の必然性があるように思います。尤も、全ての衆生を救うということで、大乗仏教にそもそもその意味合いは含まれているとは思いますけど。

《つづく》