トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:ニッポンの教養

ブログネタ
爆笑問題 に参加中!
NHK「爆笑問題のニッポンの教養#123」(10月5日放送分)を見ました。口承文芸学の小澤俊夫先生でした。小澤征爾さんの兄であり、ミュージシャン小沢健二さんの父だそうでビックリしてしまいました。

画面に出てきた絵本は見覚えのある「子どもとよむ日本の昔ばなし」(くもん出版)の絵本うちの教室にもある本だったので、またまたビックリ。

「おざわとしお」って、この人なの!?

面白かったのは「白雪姫」と「シンデレラ」の話。昔話というのは洋の東西を問わず、だいたい3回繰り返しがあるのだそうです。日本の昔話なら「三枚のお札」とかでしょうか。「ももたろう」も動物は3匹。ロシアなら「3びきのくま」、イギリスなら「三びきのこぶた」。「白雪姫」と「シンデレラ」はドイツ(グリム童話)ですね。実は「白雪姫」も「シンデレラ」も3回の繰り返しが本当はあるんだそうです。

白雪姫は妃から3回襲われている。前2回が省略されて、しかも棺がゴトリと揺れた拍子に喉につまった毒リンゴが取れて生き返るのであって、王子様のキスなんていう甘っちょろい話ではない。

シンデレラもきれいに変装してお城に遊びに行くのは3回で、シンデレラを何とかモノにしようとした王子様が3回目に訪れた時に階段にタールを塗っておいた。これにガラスの靴がくっついて取れたのだそうです。前2回の王子がシンデレラに夢中になる過程が省略されている。

人間の欲望とか愚かしさとか残酷さがこの繰り返しの中に折り込まれていて、「人間バカはやるけど、それで幸せになったりもするんだよ」というメッセージが込められている。

この大切なメッセージを削ぎ落としてしまったのがディズニーということです。夢物語に仕立て上げるのもいいけれど、人間のドロドロした部分に触れるリアリティが欠落してしまったようにも思います。

昔話は往々にして残酷だが、それは子どもに有害であるとして、昔話を書きかえる動きが横行しているが、これについてどうか?と太田さん。

昔話の残酷さに触れたり、虫や蛙で残酷な遊びをしたりすることで、子どもは小さいうちに小さな残虐性を満足させる。それをある程度繰り返すと、ある日ふと、こんなことしたらかわいそうだなと思う心が芽生えるのではないか?

この過程を踏まないと、自分の残虐性を抑えるメカニズムを持たないまま大人になる。大きな残虐性が本当の人間に牙をむいた時、それはもうかわいそうでは済まない…

福音館書店の「三びきのこぶた」は原書に忠実なまま、残酷な良書です。

《最初から読む》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
爆笑問題 に参加中!
NHK「爆笑問題のニッポンの教養#96」(12月15日放送分)を見ました。生物学の中垣俊之先生でした。粘菌の研究をされている方です。

とにかく驚いたのは、あの粘菌という奇妙な生き物、単細胞生物だったんですね。しかも、結構いろんなことを考えているらしい。

一時間ごとにある刺激を与えると、その周期性を憶えて、予測するらしい。迷路も最短経路を割り出すことができる。

意識と言うほどのものは無いんでしょうけど、無いと断定もできない。今のところ私たちは、脳の中でのシナプス結合を基にした活動が思考とか意識につながっていると考えています。でも、細胞ひとつだけでも結構なことができるとすると、果たして本当にそうなんでしょうか?と考えてしまいます。

私たちの体の細胞ひとつひとつも何かそれぞれ考えているんだろうか?「私」というのは個々の細胞の集合意識なのだろうか?それとも神経細胞たちの共同作業としての「私」と、個々の細胞の中の「私」は別個に存在するのだろうか?

単細胞生物だった頃にお互いが相談しあって、「私たち大勢が集まって共同生活しませんか?」ということになり、多細胞生物になったのかもしれません。人間一人を構成する細胞たちの数は、地球上の全人口よりもずっと多いはずで、大変複雑な社会が構築・運営されていることになります。

「私」は、その上にいつの間にか宿り、乗っかっている存在。沈黙する細胞たちの意に反した生活をすると病気になるのかもしれません。

こんな大きな社会の上に、それを前提として生きている私たちは、少なくとも社会性を指向するのが当然と言えるかもしれません。反社会的思想・行動をする者は、その体を構成する細胞たちもバラバラになって、粘菌生活(単細胞生物としての生活)をおくるべきなのです。

多細胞生物は社会(ポリス?)的動物である…

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
爆笑問題 に参加中!
NHK「爆笑問題のニッポンの教養#94」(12月1日放送分)を見ました。死生学の清水哲郎先生でした。

「死とは別れなのか?」と疑問を持ってしまうようなエピソード。太田さんの知人でお笑い芸人だった人ですが、その人が亡くなってしまった時のことだそうです。その人には恋人がいて当然悲しんだわけですが、その後に安心感を得たそうです。

死によって、彼の人生は完結・完成した。「彼」という存在は不変であり、病床の彼と一緒に過ごし、死を看取ったという思い出もまた不変である。その思い出を常に抱いていられることは、むしろ「分かれ」というよりは「一体感」である。

生きていれば、不変ではありません。たとえ恋人であろうと、自分の知らないところで自分の知らないことをし、常に変化している。それが生きるということ。

一方、離婚してしまった田中さん。豪邸に一人暮らしだそうですが、奥さんを亡くしてしまったような感覚に似ているとのこと。愛し合っていた時期があったことは間違いないわけですが、田中さんを愛していたその時の彼女はもういない。

生きるということは、無常ということ。一瞬一瞬、死んでは生まれ変わっているようなもの。

実際問題、脳のシナプス結合が常に変化している以上、その人の人格も一瞬一瞬変化している。呼吸や食と排泄は体を構成している分子を交換することであり、やはり一瞬一瞬変化している。

生と死は表裏一体。全くもって不可分だということですね…

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
科学 に参加中!
NHK「爆笑問題のニッポンの教養#87」(10月13日放送分)を見ました。細胞シート工学の岡野光夫先生でした。

「体の部品交換ができればいいんだけどね…」とつぶやくお年寄りは多いです。絶対にできないという前提で、冗談としておっしゃるわけですが、「もう少しでできそうですよ」ということになったら、むしろ複雑な気持ちになるんじゃないでしょうか?

細胞シートということで、薄いシート状に細胞を作っていく技術。ラットの心臓のシートがピクンピクンと動いている映像は、ショッキングでした。角膜に関しては、人間で既に何例か手術例があって、経過も良好ということでした。だから、決して未来の話ではない。

ただ、角膜とか関節軟骨とかくらいなら抵抗はないですけど、最終的には脳に行くと思うんですね。例えばパーキンソン病ならドパミンを産生する組織を移植すれば治りそうです。その辺りから少しずつパーツ交換技術は脳の中に入り込んでくると思うんです。脳梗塞でやられた組織だけちょっと交換とか…

かなり複雑な気持ちですね…そんなにまでして生きたいのかよ?なんて思うのは他人事だと思っているからでしょうね。医学の進歩と、素直に喜ばなければいかんのだな…

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
科学 に参加中!
NHK「爆笑問題のニッポンの教養#86」(10月6日放送分)を見ました。哲学の永井均先生でした。哲学的に「私」を考えるというのはよくあることです。仏教的アプローチのほうが奥深くて、西洋哲学的アプローチはどうも新鮮味に欠ける。

この番組を見て「私」について考えているときに、別の番組(「ザ!世界仰天ニュース」)でひどいアレルギーの体験談をたまたま見ました。アレルギーは、「私」という国境を警備している兵士が、敵でも味方でもない相手に対して猛攻撃をしかける病気です。この医学的「私」のほうが、哲学的「私」よりもずっとずっと示唆に富んでいるように思いました。

番組で紹介されていたのは、餃子やカレーが大好きでいつもたくさん食べていた人(それぞれ別の人です)が、ある日突然アレルギー症状が表れて、大好きな物が食べられなくなったというものでした。大好きな物ですから、そんなこと知らずに大量に食べてしまって、ショック死寸前のところまで行ったそうです。

何らかのきっかけで、免疫系の「敵」を判断する基準が変化することがあるということです。それで気づいたのが白髪染め。注意書きを見てみますと、使用前にパッチテストをするように書いてあります。これ、その商品を初めて使う時だけではないんですね。よく読むと、「使用する際は毎回必ず」と書いてあります。免疫系のこの恐ろしい変化は日々起こる可能性があるということです。

ウィルスや細菌、化学物質など、いろいろなものに私たちの免疫は攪乱され、揺らぎながらも「私」を守り続けています。膠原病などの自己免疫疾患は、そんな危うい運営状況の中で敵味方の区別がつかなくなって起きてしまうのでしょう。

境目の無いところに無理に打ち立てた「私」という独立国。自己同一性は常に揺らいでいます。心の中の「私」も、体の中の「私」も。

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
爆笑問題 に参加中!
NHK「爆笑問題のニッポンの教養#82」(8月4日放送分)を見ました。薬学の船山信次先生でした。毒のない穏やかな雰囲気の先生…毒薬vs毒舌という展開。

「蓼食う虫もすきずき」と言いますが、トリカブトにつく虫がいるそうで、「毒」という呼び方が手前勝手なものであることに改めて気付きました。体に影響を及ぼす化学物質という点では「薬」と同じです。

トリカブトの中に造られる化学物質が、たまたま人間にとっては猛毒だったというだけ。トリカブトに殺意は無かったのです。未必の故意すらも無かった。

逆に、人間は無毒化できるから平気だけれども虫にとっては毒、という薬品もあります。防虫パッチなどに使われています。

次女が赤ちゃんの頃、ペタペタ貼ってお出かけしたことがあります。でも、これには可愛い動物(コアラだったかな?)の絵が書いてありまして、娘たちは喜んでペタペタ貼ったり剥がしたりして遊んでいました。家に帰る途中、後部座席の次女がおとなしいので振り返ってみると、何と防虫パッチをなめていました。

説明書に「人間は無毒化できる成分なので心配いらない」と書いてありましたが、赤ちゃんですから何かあるかもしれない。苦しくても口で説明することはできない。そんなわけで、薬の影響を確かめるために私も防虫パッチを口に含んだ覚えがあります。

薬害はありませんでした。というか、無いと思うのですが、私も次女も自覚が無いだけでしょうか…

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
爆笑問題 に参加中!
NHK「爆笑問題のニッポンの教養#81」(7月28日放送分)を見ました。ゲーム理論&経済学の松島斉先生でした。今回は議論というより、爆笑問題の将来について人生相談しているような場面がありました。

実を言うと、私、ゲームというのは大嫌いです。何でそんなものにお金使って、頭使って、体使って、時間費やして、頑張んなきゃいけないの?どうせお遊びでしょ?それだったら、現実の人生で悩んだり疲れたりした方がいいじゃない?という考えです。子供のころから。

でも、ゲーム理論はそういうことではなさそうです。簡単な例としてよく出てくるのが囚人のジレンマで、これはシンプルなだけにゲーム盤上の空論ぽく見えるのですが、松島先生は実際の経済を相手にしています。もっとも、現状を打開する方策を提示できないうちは、空論に終わる可能性も孕んでますけど。

「爆笑問題に危機が起きた時に、いつも解散を口にするのは田中さんの方で、太田さんは決して口にしない」ということに対して、「太田さんは、解散というような強い脅しを使う必要がないからじゃないですか?」というような分析をされていて、「数学」だけではない「ゲーム理論」の一端を見たような気がしました。

でも、私の分析はちと違います。相手をより必要としているのは太田さんの方です。「解散」と言われると太田さんが困ることを田中さんは見抜いている。田中さんのツッコミの重要性については以前太田さんが言及しています。田中さんは、ビートきよしさんとは違う存在だと思います。

今回はオンデマンドで視聴しました。

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
爆笑問題 に参加中!
NHK「爆笑問題のニッポンの教養#80」(7月21日放送分)を見ました。情報理工学の梶本裕之先生でした。1975年生まれなんて、ずいぶん若い。

「触覚のエンターテインメントというのは未だ存在しない」というようなことをおっしゃったように思います。それが終始気になりました。マッサージは違うのかな?と。

聴覚(音楽)があんなに成功したのはそれを楽しむ長い歴史があったからで、触覚のエンターテインメントも時間をかけて受け入れられていくでしょう…というようなこともおっしゃった。でも、マッサージは違うのかな?

鍼灸に関しても、私は医療行為というよりはむしろ「触覚のエンターテインメントがもたらすリラグゼーション」という捉え方をしていきたいと思っていました。もちろん医療行為という捉え方も重要ですが、それだけではない施術法がないものかと。

「触覚のエンターテインメント」というのは、もうひとつあると思います。それはアダルトな分野なので詳しくは触れませんが…。ただ「触覚のエンターテインメント」は未だ存在しないというのは正しくないし、それこそ長〜い長い歴史がある。だから、この研究が受け入れられるのにそう時間はかからないと思いました。

まずは、ゲームに行きそうですね。Wiiのように、というかケータイでさえも体感ゲームというのがありますからね。

先が楽しみな研究です。私も、仕事を取られないように頑張らなければいけません。

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
爆笑問題 に参加中!
NHK「爆笑問題のニッポンの教養#79」(7月14日放送分)を見ました。人口舌の都甲潔先生でした。こういうおチャラけた雰囲気のオジサンは苦手だな…

何年か前に、味の足し算みたいなのが流行りました。○○+△△=(さて何の味でしょう?)みたいなやつ。そのとき都甲さんの本を買って読みましたが、ピンと来ませんでした。書棚にも見当たらないのでブックオフしてしまったようです(笑)

そもそも毒を苦味と検知して避け、栄養を甘味として検知して近づく、という生存のための行動指標になった味覚。新しい脳を冠した人間はさらに複雑な嗜好をするようになり、痛みである辛味を好んだり、毒の象徴であった苦味さえも「おいしい」と言ったりする。

厳密に味覚と言えば舌だけが感じ取るもので、さらに「舌ざわり」は舌が感じ取るものとは言え触覚に該当するでしょう。味覚のほかに嗅覚や触覚や視覚などを総合したものが、いわゆる「味」なのだと思います。偽ブランドに騙されるところをみると、情報も味の構成要素のひとつと言えます。

そう考えると、味覚のみを電子的に感じ取るセンサーを開発し、食譜(味覚を譜面に表したもの)を作成することがどこまで実用的であるかは疑問ですね。センサーではほとんど同じになるけど食べてみると違う、というメニューがたくさんあったようですから。食譜には味覚の記録だけでは足りないということでしょう。

ともあれ、興味深い研究ではあります。例えば、健康上の理由で大好きな物が食べられない人は少なくありません。病気のために甘い物が食べられないとか、薬飲んでるから納豆が食べられないとか、アレルギーでケーキが食べられないとか。そういう欲求不満を少しでも解消できる技術の開発に道をつける研究だと思います。

私は経済的な理由で高級食品が食べられないのですが、幸いにして高級食品は口に合いません。良かった、良かった

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
爆笑問題 に参加中!
NHK「爆笑問題のニッポンの教養#78」(7月7日放送分)を見ました。刑事訴訟法の後藤昭先生でした。さわやかな笑顔で、重い問題をサラッと話す先生でした。裁判員制度(どちらかと言えば)賛成派の私としては心地よい30分でした。太田さんが突っ込む隙が無かった。頭のいい先生ですね。

裁判員制度に対する最も多い感想は「関わり合いたくない」ということでしょう。赤の他人たちが仕出かしたことのために忙しいところ呼び出されて、最悪の場合死刑宣告にまで自分が加担しなければいけない。確かに迷惑千万な話です。裁判官というプロが居るんだから、そいつらがやれよ。そのために税金払ってんだ。職務放棄じゃないのか?その意見も正しいとは思いますが、私は別な考え方により強く賛同します。

まず、裁判は他人事ではないということです。「死刑」に関して言えば、死刑という制度を廃止することもできるのに、アクションを起こさずに黙認しているのは他ならぬ我々です。執行人を税金で雇っているのも我々、法務大臣を雇っているのも我々です。全然知らない人が、全然知らないところで裁かれて、全然知らないところで処刑されたから、私は無関係である!というのはどうなんでしょうか?

プロに任せていれば間違いないんですか?というのが第二の疑問です。後藤先生が話されたことですが、「疑わしきは被告人の利益に」という推定無罪のケースでは裁判員の方が無罪にしやすいのだそうです。もちろん欧米の調査結果ですが。

「関わり合いたくない」という意見を聞けば聞くほど、「法律は自分たちのルールである」ということを思い出す必要性を感じます。それには裁判員制度しかないのではないか、という気さえします。

もちろん、良い結果ばかりを生むとは思いません。悪いことの方が多いかもしれない。でも、それは出さなければいけない膿ではないかと。

「かくして法廷は開かれた そこにいる者全員の人生観が試される場が」というのが、後藤先生の最後のまとめ。現代人は忙しくて、人生観を試されることから逃げているのかもしれません。本来は、妻、子ども、あるいは家族以外でも、周囲の一人一人と対峙した時に、人生観は常に試されるものだと私は思います。

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ