トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

Tag:コーサラ

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「釈尊の生涯」(春秋社)
「20.西方地域への遊歴」を読みました。

マガダやコーサラより西方の諸国にも釈尊は遊歴されました。以下は、アヴァンティ国の西南の海岸地方アパランタを仏教化した、この地方出身のプンナ(富楼那)の逸話です。

《以下引用》
…釈尊は、「アパランタの人人は粗暴だから、もし彼らがお前を罵り毀ったら、お前はどうするか。」「まだしも手でなぐることをしないから、彼らは善人だと思います。」「もし手でなぐられたらどうするか。」「まだしも棒で打つことをしないから、彼らは善人であると思います。」「もし棒で打たれたらどうするか。」「まだしもむちで打擲しないから、彼らは善人であると思います。」「もしむちで打擲されたらどうするか。」「まだしも刀で切りつけることしないから、彼らは善人であると思います。」「もし刀で切りつけられたらどうするか。」「まだしも殺すことをしないから、彼らは善人であると思います。」「もし殺されたらどうするか。」「仏弟子の中には、生命をいとうて、殺してくれる人を求める者さえいるのに、私は求めずして殺してくれる人が得られるから、好都合だと思います。」「それほど忍耐強い覚悟でいくならば、お前は大丈夫だ。」と賞讃され、彼は帰国して、その年のうちに男女五百人ずつを仏教信者となしたといわれる。
…《引用終わり》

そこまでの覚悟を家族はどう思うだろうか?とも思うのですが、並はずれた覚悟であることは間違いありません。

《つづく》
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「釈尊の生涯」(春秋社)
「18.コーサラ国における教化」を読みました。

新興のコーサラ国では、国を飾るために形式的な祭祀儀礼を華々しく行い、したがって有名なバラモンを厚く待遇していました。そこに仏教が入ってきたわけですから、バラモンたちからの反感・憎悪・蔑視ははなはだしいものでした。多くの嫌がらせを受けながらも、釈尊は布教を続け、しだいに浸透して行きました。

その頃に説かれた話。玉耶女経に書かれている七種類の妻の分類をノートしておきます。
《以下引用》
(一)他の男に執心して、自分の夫を軽蔑し、悪心をもって、夫を殺そうと思うのが、殺人者に等しい妻である。
(二)夫が家事にはげんで獲得した財を、すべて奪い取ろうとするのが、盗賊のような妻である。
(三)自らぜいたく、怠惰、粗暴で、口やかましく、勤勉な夫を制圧支配するのが、支配者に似た妻である。
(四)常に夫のためを思い、母が子に対するように、夫やその財をまもるのが、母のような妻である。
(五)妹が姉を尊敬するように、夫を尊敬し、従順であるのが、姉妹のごとき妻である。
(六)遠方から久しぶりにやって来た友人を見て喜ぶように、自ら貞淑にして夫を喜ぶのが、友に等しい妻である。
(七)夫に打たれ脅かされても怒らず、悪心なくして忍び従順であるのは、奴婢のような妻である。
《引用終わり》

前三者は徳が無いので死後地獄に落ちる(!)そうで、この説法を聞いたスジャーター(玉耶)は前非を悔い、今後は奴婢にすら等しい妻を目指しますと言ったとのこと。

わが家では、「私は奴隷ではありません!」と妻も言いますし、私も言います。地獄に落ちないギリギリの(四)をお互いに目指したいと思います。

《つづく》
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「釈尊の生涯」(春秋社)
「17.祗園精舎の建立とコーサラへの仏教の進出」を読みました。

《以下引用》
ラージャガハで釈尊に会って、その説法に感激した給孤独長者は、自分の故郷コーサラにも釈尊の来遊を仰ぎ、その教化を懇願した。しかし仏教教団には千人二千人という多くの比丘たちがあるので、彼らの衣食住の問題が解決されなければならない。釈尊を招待しても、教団の居住する場所が必要であり、また彼らに托鉢の不安があってもいけない。
《引用終わり》

当時のインドでは、このような形で招請されたりしたようですね。現代であれば、釈尊も違った方法で活動しただろうことが分かります。仏教もまた、その時節に合った形があるということだと思います。

《以下引用》
…サーリプッタの監督の下に、仏教教団第一の精舎が建立された。建物としては、香室(仏の居室)、控室、寮舎(僧房)、門屋、物置小屋、火屋、温室、台所、便所、経行堂、病室などが備わっていたとされるが、しかし雨期以外には比丘たちは、普通は樹下石上などの野外で過ごすことも少なくなかった。
《引用終わり》

平家物語の一節からとても小さな建物を想像していたのですが、全然違っていたようです。

《つづく》
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「釈尊の生涯」(春秋社)
「3.釈迦族について」を読みました。

釈迦国はヒマラヤ山麓の辺鄙な場所で、新興文化の中心であるマガダ地方と比べればおくれていたであろう。他国との頻繁な交通や商業貿易もあまり行われなかっただろう。金持ちの商人がいた様でもない。そのかわり、戦火の巷となることもなく、平和で静かな生活ができたことだろう。

しかしながら、釈迦族は元来武士王族であったため、武術には長じていたらしく、西南の隣国である大国コーサラが、臣下として隷属している釈迦国に、武芸を学ばせようと王子を送り込むほどであった。

原始聖典のなかの、釈尊の少年時代の述懐が引用されています。

《以下引用》
私は若いころには、たいへん身体が柔弱であり、きわめて華奢であった。私の父の住まいには、あちこちに蓮の池があって、私を喜ばすために、それぞれが赤や白や黄色の蓮や睡蓮などが植えてあった。私はよい香りのするカーシー産の栴檀香以外は用いないし、衣類はターバンやジュバン、下衣、上衣などにいたるまで、カーシー産の軽い立派な絹のものだけを身に着けた。
私が邸内を散歩する時は、夜も昼も、私の上には白い傘がさし掛けられていたが、これは暑さ寒さを防ぎ、雨露をしのぎ、ちりやほこりが落ちて来ないためであった。また私のために三つの宮殿が建てられたが、その一つは冬に適し、一つは夏に適し、一つは雨期に適するものであった。たとえば雨期の四カ月間は、私は雨期用宮殿にあって、美しい女たちだけで奏でるいろいろの歌舞音曲を楽しみ、宮殿から下りることもしなかった。また一般の家では、召使や職人たちには、屑米の飯やすっぱい粥などを食べさせるけれども、私の父のところでは、召使や職人たちにも、白米や肉の食事をとらせたのである。
《引用終わり》

かなり裕福な生活だったようです。

《つづく》
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